日本通史07巻 (中世1)1993年第1版
石井進
(⇒ )は小生補記、 [番号 ]は注記文末参照
中世からは、項目は原文通りにして箇条書きスタイルとすることにした
はじめに
l 日本史上でも指折りの激動期(⇒古代から中世への時代の画期)
芳純 |
l 「大きな氏の分解の中から小さな家」は本稿で取り扱う時代全体を理解するためのキーワードになるかもしれない。
一 院政成立の時代
1
院政の特質
l 本稿では、一次史料に基づいた近年の研究から「院政」の特質を次のように把握する
Ø 天皇の直系尊属に当る退位した上皇の院政が実権をもつ(朝廷は継続)
Ø 上皇が天皇在任中の種々の制約から離れた自由な立場で政治を行う
Ø 中世における朝廷の最も主要な政治形態
2
院政の成立
l 白河上皇の皇子堀河天皇が急逝し、孫の鳥羽天皇を即位させた1107年頃に成立した
Ø 1086年に白河上皇が院政を開始してから直ぐに院が実権の握ったのではない
Ø 特に堀河天皇が成長後、気鋭の関白[1]藤原師通[2]と結んで政治を執った時期(1094-1099年)には、上皇と天皇・摂関家の間の対立が明瞭であった
Ø 1107年、堀河天皇が急逝し、その遺児で直系尊孫に当たる五歳の鳥羽天皇を即位させ、上皇意中の皇位継承(⇒家父長の下での天皇家直系尊属継承)が再実現する
Ø 上皇が幼少天皇に代わりに政治の実権を行使せざるを得ない現実
Ø ここに通常の政務など「小事」は天皇が行い、それ以上の重要事の「国家の大事」は上皇が行うと言う分掌が明らかになった(坂本賢三の研究(1996-97))
l 白河上皇の権威発現を裏付ける諸事実
Ø 鳥羽天皇の即位に際しては現実を反映した上で、前例[3]のない方式が採用された
Ø 天皇位の継承が白河上皇の詔によりが行われた
Ø その詔勅には、摂政は関白師通の子忠実[4]にする、と明記されていた
Ø 関白のライバル候補は藤原公実[5](鳥羽の外舅で、前例に従えば有力候補)
3 中世的社会への移行―――時代的背景
l 12世紀初頭の頃、日本の社会では様々な側面で大きな変化が顕在化してきた
Ø 従来の国家体制の大きな変貌、分裂と解体が決定的となった
Ø 貴族や大寺社の荘園が大幅に増加し、新たな全国的ネットワークが進展した
l 先ず東北の辺境・境界地帯で、11世紀半ば頃より藤原摂関家の荘園が次々に成立し、12世紀初頭には、「富家殿」と言われた藤原忠実の下に多くの荘園が出現した
Ø 荘園が急激に増加した背景には、多くの部下を引き連れて任国に下向した国司(受領)側の勢力と郡司以下の在地勢力との対立抗争があった
Ø 国司側は在庁官人として国司から郡司・郷司などに任ぜられることで所領を確保し、在地勢力は何かしらの縁を頼って都の大貴族等に所領を寄付・寄進する形をとって荘園、寄進地型荘園とすることで自らは下司として支配を確保した
Ø (⇒郡司は朝廷の地方官だが、元々大和政権時代の地方豪族が任命されていた)
l この同じ時期、陸奥守源頼義[6]とその子義家らの源氏勢力は、前九年合戦[7](1051-1062年)と後三年合戦[8](1083-87年)で蝦夷勢力(安倍氏、清原氏)を打ち負かし、「武士の長者」として東国一帯の武士の間に大きな威勢を獲得していった
Ø 東北地方の摂関家領の多くは、現地の豪族の寄進の希望を媒介した源頼義・義家父子らの活動によって成立した、という魅力的な推論がある(大石直正、1986年)
Ø 上記で大石が挙げている4つの推論根拠は省略するが、皇室と摂関家との地方における荘園利権をめぐる確執が窺える。また、源氏は歴史的に摂関家の用心棒の性格を持つのは明白なので、国司側による義家ら源氏勢力抑止の動機も窺える
l 東北の境界部に始まった荘園化の動きは、中心部へと拡大し全国化する(⇒権力と秩序の崩壊は周囲から中心へと進むのだろう)。この頃以後、各地の在庁官人達によって作られた大田文[9](図田帳、図数帳)を手がかりに荘園化の大勢を展望することができる
Ø 能登国(1221年の大田文)は、12世紀第2四半期に全荘園数の76%が荘園化した
² 東北(陸奥・出羽両国)の場合と異なって、天皇家関係の荘園面積が半ばを占めている(石井進1991年)
Ø 若狭国(1265年の大田文)荘園化の過程は以下のようなもの(網野善彦)
(a)本荘[10]、は11世紀後半以前の成立で、摂関家領、延暦寺領、園城寺領、賀茂社領がそれぞれひとつずつだが、国内における比重は高くない
(b)新荘、はそれ以後の成立で、天皇家領四、延暦寺領三、園城寺領・伊勢神宮領・賀茂社領・摂関家領がそれぞれ一、荘領の半ば近い面積を占める。成立年代の分かる三荘は何れも十二世紀後半に荘園化している
(c)便補保、は本来国司が官司などに納入すべき費用の代償に土地を便宜的に補填した荘園の一種で、11世紀末から12世紀前半にかけて成立したのが大半
(d)山門沙汰と(e)園城寺沙汰はおそらく12世紀後半から末頃に延暦寺・園城寺支配となったもの
(f)立荘時期は不明ながら平氏の所領だろう
(a)~(f)を纏めると、若狭では11世紀後半以前の荘園は少なく、これに続いて便補保が成立、やがて12世紀前半にかけて新荘が続々と成立して全荘園面積の73%あまりが荘園化したことになる。従ってこの国での荘園化の画期は能登よりやや遅く、しかし十二世紀代の内にみるのが妥当であろう。
Ø 伊賀国(1125年頃の大田文などが伝わっている)は、北部の伊賀郡猪田郷では公領は1%にも満たず、南部の名張郡の公領も9%程度だった
² 荘園領主には白河・鳥羽両上皇の娘や后妃として時めいた女性、摂関家、そして東大寺・大安寺・伊勢神宮等々の有力寺社が顔を並べている
² この地域ではすでに12世紀第1四半期には荘園化がその極に達していた。若狭・能登と比べて当国では荘園化の程度がはなはだしい
l 荘園化の大波に洗われる中で、残された公領は知行国や院宮分国の制度を通じて、天皇家や大貴族の私領として再編成された
l 以上のように、12世紀前半には荘園と公領とが相俟って荘園公領制と呼ばれる体制となり、以後、中世を通ずる土地制度の基本的枠組みとなっていった
l かつて考えられていたように全国土の殆どが荘園となったわけではないようだ
Ø 鎌倉時代の大田文十二種についてみると、荘園公領の両方に属する半不輸領を公領に算入した場合には荘園と公領の比率は概ね六対四程度となっている
Ø 荘園も公領も中世の村落を基本にしているので、相互に転換が可能であった点では共通性がある(⇒荘園公領制は統治の制度ではなく現実社会の流動的秩序形態の表現なのだろう)。
l 12世紀前半に荘園公領制が成立するに伴って、地方行政組織も大きく変化してきた
Ø 現地に赴任し国司の責任者として統治を行っていた受領も常時在京し、国による地方の統治は受領の代理人の目代と、在庁官人[11]らの手に委ねられようになった
Ø 地方官中最も利益の多いポストとされる太宰府の長官さえ1120年以降には現地赴任者の例を見なくなった
Ø 国の在庁官人たちが独自の下文を発行し始めた
Ø 太宰府内の官の大寺で日本三戒壇の一つだった観世音寺が、東大寺の末寺と化し、一種の荘園となったのも1120年だった
l 寄進地型荘園は重層的土地の支配・領有を構成することになるが、、学者のいう職[12]の体系(「本家→領家→預所→下司→名主」など)も、この時期に出現する
l 通常、中世社会の特質として以下の三点が指摘されている
(1)政治権力の分散化、(2)土地支配権の重層化、(3)軍事専門家層の社会的優越
Ø 12世紀初めの日本社会はこれに丁度当てはまっている
Ø そして、同時期に生じている院政の確立は中世社会の出現と相応している。
4 大寺社の勢力
l 日本における仏教は国家仏教として始ったが、律令国家の変質にともなって大貴族と密接な関係を持つようになった
Ø 教団内の諸房・諸院や所領を代々伝領する門閥が発達して上皇や摂関家などと私的に結びついていった
Ø 大寺院の上層部は多くの貴族、特に大貴族の出身者によって占められていた
² 『愚管抄』の著者慈円が摂関家である九条家(⇒摂政・関白藤原兼実が始祖で慈円は兼実の弟)の出身で天台座主や大僧正となったのもその一例
Ø 王法(=政治権力)と仏法とは相互に不可欠という観念が強調され、造寺・仏寺は摂関家以来統治者のなすべき業である、とされた
Ø 白河・鳥羽・後白河と三代の院政の主はいずれも出家して法皇となっており、院政時代はまさに仏教国家の時代と言えよう
Ø 門閥は対立と抗争を繰り広げ、強訴や悪僧の活動もその一環にほかならない
l 大寺院・大社は、地方に多くの荘園・末寺を獲得し、農・漁業や交易・交通の担い手達を神人[13]等に組織し、実践力も備えた政治的影響力を持つ勢力となっていった
Ø 自らの主張を実現するため、朝廷への強訴[14]が繰り返されるようになった。「仏教国家」の下で続く強訴は、まさに国家体制の分裂・解体の好表現であった
Ø 地方の末寺での衝突(⇒門跡の争い)は、本寺との関係を通じて直ちに京に波及する仕組みが構築されていたことによって、朝廷への強訴となって現れた
Ø 大寺院内部には、僧侶集団の下に、僧侶集団に召し使われたり、寺内の雑役を務めたりする堂衆と呼ばれる人々が居り、武装した悪僧の主力となっていた
² 堂衆は地方有力者の出身が多く、荘園支配、高利貸し、債権取り立てなどで巨富を積む者もいた
² 朝廷への出訴は、王法と仏法の相互依存を強調する示威運動が主で、学侶・学生たちによって行われ、必ずしも武力闘争を目的にはしていなかった
² 大寺院相互[15]や寺院内部[16]での実力抗争は、堂衆を中心とする軍事力の対決で、この面では江戸時代になって用いられ始めた「僧兵」の表現に相応しい
l 悪僧達に率いられた寺院の大衆や神人が、宗教的権威を振りかざし、さまざまの難問の解決を朝廷に迫ってきたとき、これに対抗しうるのは、白河上皇しかなかった
Ø 分裂・解体する諸権力の中で、院政は「国家大事」に対処できる唯一の高権だった。強訴に対抗できることが、院政が出現した大きな理由だった
Ø 天皇や公卿は種々の故事先例や慣行に縛られていたので、強訴を裁けなかった(⇒故事先例や慣行を理由にした無理難題を強いる強訴の論理を打破できなかった)
Ø 大寺社の荘園や神人をめぐる紛争の相手側は、荘園整理のスローガンを掲げる国司(受領)で院の近臣でもあったから、院の決断はどうしても必要だった
5 受領[17]・院近臣・院北面・摂関家
l 受領が大きな存在となり、彼等は院近臣と呼ばれて、世にときめいた
Ø 10世紀初頭の国政改革で、地方支配は大幅に国司に委任されたからである
² 平安時代以降、受領は任国に赴いた国司の最高責任者のこと
² 一定額の上納を請け負う代わり、その範囲内で税率の変更を自由に出来た
² 後に課税基準が法定されたが受領の権限はなお大きかった
Ø 人々への愛憎が激しく寵臣が多い白河上皇以下、代々の院政では、「制法」にかかわらぬ人材の起用が盛んに行われ、貴族社会内部の秩序が崩れてきた
² だが、有能の士の発掘・抜擢の作用も果たした。上皇の側近は受領層だけではなく、貴族、乳母の縁に繋がる人々、政治的見識に優れた人たちもいた
l 代々の上皇は受領をはじめ多くの廷臣を組織したが、その有力な手段の一つとなったのが公領を中心にした知行国と院宮分国の制度であった(⇒財源を生む制度)
Ø 知行国とは、公卿達が国司ではないのに各国の行政・支配の実権を行使して、とくに経済的収益を得る仕組み
Ø 院宮分国とは、上皇や女院・中宮・東宮など天皇家関係者に経済的収益を与えるために特別に指定された国のこと
l 院の側近や近臣たちは上皇の付属した院庁に集まり、内局を構成し、奉仕を行った
Ø 院庁には役所が付属し院庁に直接関わる庶務(国政ではない)を行った
Ø 院庁の付属機関として重要なのは、院北面(武士団組織の拠点で北面の武士とも呼ばれた)であった
² もともと、上皇の身辺警護のために院武者所などが置かれていた
² 白河院政開始と共に、近臣の中でも武士的要素を持つ受領や検非違使達を中心とする組織として確立された
² 北面の武士の構成は明らかになっていない点も多いが、主なものは以下
(1)畿内・近国において成長してきた地方小武士団
(2受領達が動員・組織化した、国の機構を中心に集結していた地方の武士達
² 伊勢平氏の場合は上記(1)(2)両方を兼ね備えていた
平正盛は、白河上皇最愛の娘媞子内親王の六条院に伊賀国内の所領を寄進したことを契機に、有利な国の受領を歴任し、院北面の重要人物となっていく
² 大寺社の強訴の繰り返される中、北面の武士の役割は益々大きくなり、伊勢平氏は最も忠実な院の手兵として登用された
l 一方、武士の長者と呼ばれ藤原氏摂関家の従者としての清和源氏に対する白河上皇のやり方は、源氏勢力拡大を防ぎつつの個人別対応であった
Ø 名将とされた源義家に対して取り込みをはかった白河上皇のやり方の事例は以下
(1)後三年の合戦直後に義家は朝廷に追討官符を申請するが拒否される
(2)1091年、義家と弟の義綱が、郎党の争いに起因して衝突しそうな事態が発生した時、この戦いに全国の武士の参加を禁じる宣旨が直ちに発布された
(3)東北の境界付近における義家の荘園拡大の動きを阻止する行動をとった
(4)行幸時に義家・義綱に護衛を命じ、1098年には義家に院御所への昇殿を許した
l ところが、源氏一族に不幸な事件が続いて源氏は凋落し、平氏の興隆が導かれたていった
Ø 1101年、対馬守義親が任地での乱暴狼藉を告発され、追討使が派遣される事態が発生し、義親は壱岐の流罪となった
Ø 1106年、威勢におおきな陰りを生じさせたまま義家は死んだ
Ø 1109年、義家の後を継いだ四男義忠が暗殺され、犯人と目された叔父義綱一家も追討されて滅亡した
Ø 配流先の隠岐から脱走した義親が出雲に上陸し目代らを殺害したなどとして、因幡守平正盛に追討の命令が下る(⇒白河院の命だろう)
² 直ちに出撃した正盛が義親と郎従を殺したという報告だけで、朝廷は即座に正盛を但馬守に栄転させた
Ø 義親生存の噂は絶えず、各地に偽の義親出没が繰り返され、源氏の凋落と平氏の興隆を導いた義親追討の一件には、終始奇っ怪な陰謀の臭いが立ちこめていた
l 白河院は、以上のように財・政・軍において摂関家を凌ぎ、治天の君と呼ばれるに相応しい力を持つに至った
Ø 1107年に鳥羽天皇即位とともに摂政となった忠実は、以後専ら上皇の意を迎えることに努め、やがて関白となったが1120年突然関白を罷免される(上皇67歳)
Ø 原因は忠実の娘泰子を鳥羽天皇の後宮に入れよとの天皇の内意を受けた忠実が、これに応じようとしたことが上皇の激怒を招いたとされてきた
Ø 実は、上皇は側近の藤原公実の娘璋子を幼時から引き取って養育し、成長後、彼女を鳥羽天皇の中宮に入れていた
Ø やがて璋子は後の崇徳天皇を生んだが、実は上皇の子であるとの風評が当時からあり、鳥羽天皇は心安からず改めて泰子の入内を求めたというのが実情らしい
Ø 嫡孫の鳥羽から更に摘曾孫へという皇位継承図を描いていた上皇にとって、泰子入内計画は許されない行為であった
Ø 1123年に五歳の崇徳天皇の即位が実現し、鳥羽は上皇になってもはや白河上皇にとっては思い残すところの何もない晩年が訪れてきたように見えた
² (⇒だが実は、内外に葛藤・反感・野望の種を蒔いて死ぬ晩年でもあった)
二 保元・平治の乱
1
保元の乱序曲―――都における
l 1129年、白河上皇の長い治政が終わり、崇徳天皇はまだ11歳にすぎなかったので、鳥羽院政はおおむね白河院政の継承として、以後30年足らずの間安定的に継続された
Ø 鳥羽上皇は慎重に摂関家の取り込みを図り、忠実は朝廷の中心に返り咲いた
Ø 亡き白河上皇の厳命にもかかわらず、泰子は翌年早々鳥羽上皇の女御となり、やがて前例のない上皇の皇后に立てられた
Ø こうして、今や摂関家も院の側近の一翼に連なり、院政も定着した
l 荘園は最高権力者としての上皇の周辺に集中し、院政独自の経済的基盤が確立した
Ø 家領(⇒公ではなく私の領分)が、氏から家へという新しい経済的基礎となった
Ø 受領自身が上級貴族化し、受領の活動は減少した(⇒自ら蓄財する必要がなくなる社会構造へと変化したことが、地方勢力強化となったということか?)
Ø 荘園公領制が進み、知行国の増大が公領からの収入を減らした
l 鳥羽院政の宮廷では相変わらず多くの矛盾・葛藤が渦巻いていた
Ø 院近臣の中では、「夜の関白」[18]藤原顕隆の子顕頼が中心的役割を担っていた
Ø 院の私兵である伊勢平氏正盛の子、忠盛の活躍は新たな武士の首領の出現を意味していた。その実例は以下
² 院の重要な荘園の管理役(厩別当)となった
² 瀬戸内や西国の海賊の追討史として功績を挙げた
² 肥前国の大荘園神崎荘[19]の預所となって、荘内に来着した宗との貿易の自由を主張して太宰府と対立するほどの力を持った
² 畿内・西国の武士団を組織しつつ、瀬戸内から北九州への海上交通を支配し、さらに海外貿易にも乗り出していった(⇒日宋自由貿易で平家は財を築いた)
l 後宮では、中宮藤原璋子(待賢門院)、皇后藤原泰子(高陽院)の他に、新たに白河上皇時代の院近臣藤原長実の娘得子(美福門院)が加わり、この得子がみるみる上皇の寵愛を集めて、皇子を生んだ
Ø 鳥羽上皇は1141年、得子の生んだ皇子が三歳になると、崇徳天皇に迫って譲位させ(崇徳上皇)、近衛天皇とした
² (⇒祖父白河が決めた崇徳を退位させて、自分の直系子息を天皇に決めるやり方は白河と同じ)
Ø 得子も上皇の皇后となって世にときめき、藤原家成[20]らの院近臣と結んで大きな政治勢力となっていた
l 摂関家内部では、復活した摂関家の実力者で、冨家殿と呼ばれた藤原忠実と、関白のポストを守ってきた子の忠通との関係にヒビが入ってくる
Ø 忠実は藤原家としての経済的基盤を強固なものとした。だが同時に自らが家の後継者を選定しようとしたことが、長男の忠通との確執を生みだすことになる
Ø (⇒忠実の意図は、摂関家の長の選定は摂関家内で行うという定めが白河院政によって崩された状況下で、家勢を強化することにあった。この家権継承方式は白河が天皇家に持ち込んだ方式と同様であった)
Ø 忠実は忠通に対して、氏長者[21]と摂政の職を忠通より二十歳も若い弟の頼長に譲るように求めたが、ことは簡単には進まなかった(⇒家権相続イデオロギー変化)
² 白河上皇によって9年ほど蟄居させられていた忠実は、その間に頼長の方を氏長者と摂政にしたい考えるに至った(⇒理由には様々な挙げられよう)
² 忠実は忠通に対してこの要求を十回行ったが、忠通は鳥羽上皇に近い美福門院を中心とする勢力と連携して、これをしぶとく拒否した
² 業を煮やした忠実は手兵である源為義[22](義親の子)らの武士を動員して強引に氏長者の地位を取り上げた
² その翌年、鳥羽上皇は忠実の要請によって頼長を内覧に命じた(頼長は事実上の関白となった)
² ところが、それに先立ち上皇は忠通を改めて(⇒白河上皇が忠実の内覧を罷免し忠通を関白にしていた)関白に任じたため、政争は益々激しくなった。
l 1155年に近衛天皇が若くして亡くなり、鳥羽の第四皇子である後白河天皇の即位が決まり、翌年鳥羽上皇が亡くなると、天皇家や摂関家内部の矛盾・対立は一気に爆発する
Ø もともと父の鳥羽上皇と不仲で、無理に退位させられたと不満に思っていた崇徳上皇(母は待賢門院)は、我が子重人親王の即位を期待していた
Ø 後白河天皇[23]の子の守仁親王を幼時から養子としていた美福門院(鳥羽上皇の寵妃)が、親王の即位を強く推していた
Ø だが、守仁親王の即位は不自然な皇位継承(⇒親より子が先に天皇になるので不自然)との批判を考慮して、中継ぎとして後白河天皇の即位となったらしい
Ø ここに崇徳天皇の怨みは益々深まり、鳥羽上皇の死をきっかけに、保元の乱へと突き進む
l 対立構造は「後白河天皇と背後の美福門院そして関白藤原忠通」対「崇徳上皇と内覧(実質的関白)氏長者で忠通の弟藤原頼長と父の前関白で摂関家随一の実力者忠実」
Ø そして、それぞれに繋がる貴族や武士達を含めて、忽ちのうちに二大党派が形成され、京都は血で染めた争いの場となるに至る
2 保元の乱序曲―――地方における
l このころ(⇒院政最盛期の鳥羽院政の時代)、地方生活の実態の一部を点描し(出典は主に『平安遺文』[24])、以後の歴史の流れを占ってみよう
l 1146年2月、阿波国のある荘園で、同国一宮の宮司兄弟の命を受けた八十余人の軍団が荘園に乱入して狼藉を働いた事件
Ø 検非違使庁に呼び出された関係者の証言に依れば、捕らえた荘園の下司らは責め立てられたあと、従者1人、上等の牛20頭、稲3000束、太刀100腰、腹巻20領、水干袴20具、薙刀1万(?)柄を提供してようやく解放された
Ø 以前に宮司の従者をこの下司が殺した云々ともあるが、有力者が地方武士団を形成していた実態が窺える点が重要である
l 1142年、近江国佐々木荘の豪族で、佐々木宮神主の一族の友員なる武士が京都で殺され、源為義(⇒源義親の子)が犯人との説が流れた事件
Ø このとき犯人と疑われて検非違使庁で訊問された友員の伯父行真の陳述から、在地武士団の凄まじい私闘の世界を垣間見ることができる
² 友員の仇敵は従兄弟の道正で、まず友員が道正の母と弟道澄を殺し、報復に道正が友員の母と兄友房・末高らを殺害した
² 今回も道正の仕業に違いないが、道正は以前から源為義の郎党であった。この陳述は、今回の事件は源為義が犯人とする風説と一致する
l 義家の嫡孫である為義の社会的評価はあまりよくなく、官も左衛門尉・検非違使以上にはなれず、従者の粗暴な行動が重なるなどして鳥羽上皇に勘当され、平忠盛(清盛の父)にはすっかり水をあけられていた
Ø 為義は、状況を挽回するためにいろいろ努力をしていたようだが、はかばかしい効果もなく、この頃からはもっぱら藤原忠実・頼長に臣従、奉仕している
l 一方、為義の長男義朝は、坂東育ちの武芸達者で、20才の頃 には先祖から引き継いだ鎌倉を本拠に南関東に勢力を張っていた
Ø 下記に述べる、義朝が起こした伊勢神宮領大庭御厨[25]侵入事件からは、東国における源氏の威勢は衰えるどころか、国司とは別次元で発展していたことが窺える
l 源義朝による伊勢神宮領大庭御厨侵入事件
Ø 1144年、源義朝の勢力が隣接する伊勢神宮領大庭御厨に二度にわたり侵入し、神宮から訴えられた事件
Ø 二度目の侵入は大掛かりな攻撃で、相模国の田所目代ら在庁官人と義朝の名代が協力して、三浦荘司[26]𠮷次、その子吉明、中村荘司宗平[27]、和田助弘らと所従合わせて一千騎の軍勢を動員
Ø 境界の標示を抜き取り、稲束や下司の私財を大量に没収、神人7人を捕らえて散々の暴行を加え、新立荘園停止の宣旨が下ったと称して御厨の廃止を宣言した
Ø 相模の国司も、国司の力ではどうにもなりませんと述べており、朝廷は神宮側の言い分を認めて義朝の濫行の停止と犯人逮捕の二度にわたる宣旨を出したが、その実現はおぼつかなく、御厨もその後存続し、事はうやむやに終わったようだ
l 大庭御厨の実態から、当時の地方社会の構造と朝廷との力関係の変化が見えてくる
Ø 大場御厨は、この時代の代表的な寄進地荘園であることが分かる荘園の開発・寄進者は鎌倉権五郎景正(政)[28]、寄進先は伊勢神宮
Ø 開発プロセスも判明している。景正が、開発プラン立て国司に許可をもらい、浮浪人を呼び寄せて山野を開発し(1104~06年)、新開発地の年貢の限定期間内の免除と荘園としての許可を国司から勝ち取り伊勢神宮に寄進する(1117年)
Ø 管理体制は、本家=伊勢内宮――預所=伊勢恒吉――下司=鎌倉景正、であり、重層的な職の体系が成立している
² 伊勢恒吉の役目は本家の代理人だが、「口入神主」と言われ、内宮の神主の仮名と思われる。口入神主は各地を巡回していた伊勢の神官で、景正と内宮を結びつけた人物と思われる
² 神宮はその後も国司の交代ごとに荘園としての承認を追認させ、1141年天皇の宣旨による承認を獲得した。しかし、その直後の1144年に上記のような義朝の襲撃を受けている(⇒つまり天皇の宣旨も通用していない)
² 以後の大庭氏と義朝の関係については何も史料はないが、景宗の子の大庭景義・景親兄弟は保元の乱(1156年)で義朝の部下として奮戦しているので、大庭一族もやがて義朝の従者として服属するに至ったのであろう
l 義朝は同じ頃、下総国北部の相馬御厨の現地支配権をめぐる在地の豪族千葉氏と上総氏の紛争に介入して強引に御厨を自分に譲渡させ、1145年には義朝が寄進者となって再度、これを神宮に寄進するなどの行動に出ている
l 義朝の館は、鎌倉の源氏山の麓で、いまは寿福寺付近であったらしく、南関東の中心鎌倉の地を拠点として各地の武士団を従者に組み入れる動きはかなり成功したらしい
l やがて義朝は東国武士団組織の任を、若い長男の義平にまかせて上京する
l 義平(母は三浦義明[29]の娘)と次男の朝長の母は相模の豪族の娘だが、1147年生まれの三男の頼朝の母は熱田大宮司の娘(つまり義朝は1147年以前まで都に上っていた)
l 義朝は鳥羽上皇・待賢門院・後白河天皇の同母姉などの近臣だった熱田大宮司家の縁を活用したせいか、父の為義とは違って鳥羽院政関係者から引き立てられ、1153年には下野守になり、早くも父を超える出世ぶりであった
l ここで為義と義朝の関係が問題となってくる。かねて反目し合っていた様子が『愚管抄』にも残っているのだが、やがて骨肉相食む争いとなる
Ø 果たして義朝が下野守となった直後、為義は次男の義賢を隣国の上野に下向させ、同じ頃三男の義徳(義広)を常陸に派遣して東国に勢力を扶植しようと試みている。鎌倉を拠点とする義朝&義平支配権を挟撃する狙いであろう
Ø 1155年、南下してきた義賢と義平が激突して、義賢は若い甥の義平に攻め殺された。これを知った義賢の弟頼賢は仇討ちのため東国に下向したが、途中の信濃で鳥羽上皇領の荘園を侵したとして、上皇から義朝に頼賢の討伐令が下っている
l 為義と義朝というような源氏内部の近親対立は根深く、その争闘は血なまぐさいが、注目すべきなのは家権の継承方式の変化だろう
Ø 武士の家の継承者選定方式も、天皇家や摂関家と同様に、父親による直系子孫の選定する方式へと移行し始めていた
Ø そそもそも、このような事態になったのは、幼少時から東国で成長した義朝ではなく弟の義賢か頼賢を継承者に立てようとする為義に対して、長男の義朝が激しく反発したからだろう
Ø 一方、武士の家の継承者は、武勇や将としての器量が実戦によって常に試され、父親の意思がどうであれ、実力がすべてであり、時には父親と戦ってでも家を奪うことが正当化されるから、武士の家の継承者への道は厳しかった
l 関東と同様の状況が北九州地方でも生じていた(出典:『平安遺文』『石清水文書』『大分県史料』『宇治拾遺物語』『続群書類系図』[30])
Ø 寄進型荘園の構造が生み出す典型的な構図の下、遠国の九州では国司ではなく太宰府の在庁官人や律令制の大夫・朝臣(律令制の姓)を名乗り、またそれぞれの地名を名字とした武士たちが、実力で実質的な私領を拡大していた
Ø そこで必然的に発生する寺領・神宮領などの既存荘園との紛争に対する宣旨の効果も限られていた
Ø 北九州では当時まだ、太宰府在庁官人から発展して大武士団となった大蔵氏[31]や菊池氏[32]なども含めて、多くの武士団を組織し、主人としてその頂点に立つほどの有力武将は出現していなかったようだ
Ø 太宰府目代が指導者として現れるが、長官の任期ごとに交代する目代では、東国の源義朝の役割を果たすことは出来なかった
Ø 源為義の末子の源為朝は、「坂東育ち」の長男義朝に対して「鎮西[33]育ち」とされ、抜群の武勇を持って菊池氏や大蔵氏の原田氏等の武士団を征服したと伝えられる
² 源為義は、義朝を東国に為朝を九州に配し、両地域で武士の組織化を意図したわけではなく、反目する義朝に対して従順な為朝に期待したのだろう
² 1154年、為朝の濫行を制止しないという理由で父の為義は左衛門尉・検非違使を解任され、翌年には為朝に与力するものは処罰せよという宣旨が太宰府から下され、失意の為朝はやがて同じ不遇の京の父の元に帰ったようである
l 日本列島の東や西で、殺伐とした社会の中を実力で戦い抜いてきた武士達がそれぞれの思いを抱いて京に集まってきた。保元の乱がいよいよ始まることになる
2
保元の乱
l 1156年7月、鳥羽上皇の死を契機として、崇徳上皇方が後白河天皇方によって、わずか数日であっけなく粛正された
Ø 1156年6月末、鳥羽上皇が鳥羽離宮で危篤に陥る
Ø 上皇側近の藤原通憲(信西)[34]や美福門院は摂関家の忠通と結んで源義朝・足利義康・平清盛らの有力在京武士に忠誠を誓わせ、鳥羽離宮や内裏の高松殿の警護を命じる
Ø 7月2日、上皇が亡くなると戒厳令が敷かれ、藤原忠実・頼長が軍兵を集めるのを禁ずる命令が出される。巷には崇徳上皇や頼長らの反乱に備えた措置との流言が盛んで、京中には緊迫した空気がみなぎった
Ø 8日、摂関本邸の東三条殿が源義朝以下の軍勢に襲われて、天皇家側に没収される
Ø 9日~10日、崇徳上皇と頼長は白河殿[35]に立てこもり武士達を召集したが、集まったのは源為義とその子頼賢・為朝、摂津源氏の頼憲、伊勢平氏の平忠正[36]など、崇徳上皇と忠実・頼長に奉仕していた武士ばかりで、あまりに小勢であった
Ø 11日朝、源義朝・平清盛らの率いる六百余騎が白河殿を襲撃し、崇徳上皇方は為朝[37]らの奮戦むなしく敗れた。負傷した頼長は奈良まで逃れたがまもなく死亡、上皇や一味の貴族・武士達も皆捕らえられ、保元の乱はあっけなく終わった
l 崇徳上皇は讃岐国に流罪、貴族達は流罪、主な武士達はみな死刑となった
Ø 源為義を子の義朝に,平忠正を甥の清盛に斬らせるなど、同族に処刑させた
Ø 殺伐とした社会の慣習が350年間途絶えていた死刑という公刑を復活させた
Ø 殺伐とした社会の慣習とは、武士団内での同族間の殺し合いは日常茶飯事、主命に背いた従者は殺されるのが常識、などを指している
l 摂関家も大きな打撃を受けた
Ø 7月11日、朝廷は早くも忠通を氏長者に任命したが、これは摂関家に対する露骨な内部干渉であった。だが、さすがに忠通は暫くこれを受け取らなかった
Ø しかし、続けて直ぐに氏長者以外の所領・財産没収令が出された。この令に背けなかった忠通は、朝廷に従って氏長者となり、没収領は頼長分だけに留まった(⇒朝廷は藤原家領を没収する実力と意思を持ったということだろう)
Ø 高齢の忠実は讃岐に流されるところをようやく免れたが、京の知足院[38]に押し込められた。この乱の結果、中央の政治は大きく変わることになった
l 後白河天皇は、この乱により反対派を滅ぼして天皇位に就き、しかも白河・鳥羽両上皇の院政で確立された「治天の君」と呼ばれる権力も併せ持った
l 乱後、後白河上皇の親政によって続けざまに出された施策は目覚ましい成果を上た。藤原信西はその子息らとともに、鳥羽上皇の死去から乱後処理まですべてを切り回した
Ø 乱後三ヶ月たった閏9月、七カ条の荘園整理令[39]が発布された。この令は、荘園整理に留まらず、当時の重要な政治課題に対する強い姿勢を示している
² 第一条は、現天皇(後白河天皇)の即位後の新たな荘園の禁止。全国土は天皇の所有であるという主張(⇒公地公民でなく王土思想に基づいている)
² 第二条は、本免田[40]以外の荘園の停止。加納・出作田などと称して国司の命に従わぬ私領(荘園)の禁止を意味する
² 第三条は、神人の濫行禁止。ここでの神人は、伊勢・石清水・賀茂・春日・住吉・日吉・祇園各社が対象
² 第四条は、悪僧の濫行禁止。ここでの悪僧は、興福寺・延暦寺・園城寺・熊野山・金峰山の諸寺諸山が対象
² その他七条までは、諸国の寺社の濫行や荘園の新立が厳しく禁止された
Ø 翌10月には記録荘園券契所[41](記録所)の設置(⇒制度の実行部隊、信西の子息達が活躍している)
Ø 翌1157年には大内裏の修造
Ø 同10月には全三五カ条の新制の発布。以後、鎌倉時代を通じて何回も発布さる中世公家法の基本となるもの
Ø 1158年には中絶していた朝廷行事の復興
4 平治の乱
l 1158年、後白河天皇が譲位し、17歳になった守仁親王が即位(二条天皇)する。そして後白河院政の開始となったが、院政の持病とも言える上皇と天皇の対立が発生する
Ø この譲位は、かねてよりの約束の履行を迫る美福門院の要求に基づいたもの
Ø ここに至る状況から、二条天皇[42]は後白河院政を認めなかったといわれている
Ø 鳥羽院政の近臣達は後白河上皇派と二条天皇派(背後に美福門院)に分解した
Ø 上皇派のなかでは、にわかに上皇の寵愛をうけた藤原信頼[43]が台頭し、信西を脅かす状況になってきた
Ø 信西は信頼の右大将への任官を一蹴したが、信西の威勢にも陰りが出ていた
Ø 信西は上皇にしばしば信頼の信じがたいことを説いたが、効果はさほど上がらす却って信頼を反発させる結果となった
l 藤原信頼は、ついに武力に訴えて信西一派を除こうと計画し、先ず、源義朝の抱き込みを図った。その背景は下記
Ø 義朝は保元の乱で大きな戦功を上げながら恩賞は平清盛に及ばなかった
Ø 義朝は信西の子息を娘婿に所望したが手ひどく拒絶されていた
Ø 信西は平家の力優遇し、その武力を背景に実力を発揮していた
l 信頼は、信西に不満を抱いていた武士達の賛同も得、二条天皇の側近との連携にも成功した
l 1159年12月9日の夜半、平清盛が一族郎党を引き連れて熊野詣に出発した機会を捉えて、信頼・義朝ら反信西派は数百の軍勢で蜂起し、上皇の御所である三条殿を襲撃した
Ø その直前、変事を察知した信西は巧みに逃れ、南山城(⇒相良郡の南東端)の山中に隠れたが間もなく討手をかけられて殺された
Ø 夜襲の成功に奢った信頼らは、様々な方面で活躍していた信西の子息らを流罪にし、上皇と天皇を幽閉に近い状態におき、除目・恩賞を実施した
Ø 信頼は専ら自派の論功行賞に熱中していたため、すっかり人心を失っていた
l 一方急報を得た清盛は巧みな策と武力で反撃し、信頼・義朝方は完敗し、平氏の実力はいよいよ固まり、武者の世の到来を人々に実感させた
Ø 清盛は、紀伊国の武士らの援助を得て京にとって返し、偽って信頼に臣従の意思を示して油断させ、その間に二条天皇派を抱き込んだ
Ø 12月25日夜、天皇を内裏から清盛の六波羅邸に脱出させると追討の宣旨を得て宮城に居た信頼方を攻め、上皇も仁和寺に逃れた
Ø 翌26日には源平両軍が大内裏や六波羅の攻防戦で激しく衝突した。義平の活躍で一旦は平氏を退けた信頼方は、天皇派であった源光保・源頼政らも清盛方についたため、義朝軍は孤立し遂に完敗した
Ø 信頼は捕らえられて六条河原で斬首され、東国に逃れようとした義朝も、途中、部下の裏切りにあって殺された
Ø 義平はじめ義朝の子達も殆どが殺されたが、源氏の嫡男として初陣だった頼朝(13~14歳)は敗走途中で平氏に捕らえられるが死罪を許されて伊豆に流された
三 治承・寿永の乱
1 平清盛の登場
Ø 平治の乱後、都における最有力な武士団の長及び有力廷臣となった平清盛は、ついに政権の中枢部をおさえるに至った
Ø 清盛は、後白河上皇派と二条天皇派の主導権争いに際し、巧みに立ち回り両者の期待を一身に集めつつ自分の立場を強化していった
Ø 1163年、清盛は藤原忠実の嫡子の関白基実を娘盛子の婿に迎えて摂関家との連携を図っていた
Ø 1166年、基実が急死し弟の基房が摂政となり、清盛にとっての目算違いが生じたが、基実の遺領150カ所以上の大半を、実質上清盛の支配下に収めてしまった
² そのやり方は、基実の遺子基通に相続させ、盛子がこれを管理した
² 上皇も宣旨を出してこれを支持したようで、摂関家の威勢は更に低下した。
Ø 1165年に二条天皇が早逝し二条の皇子六条が継ぎ、翌年に清盛の妻の妹平滋子(建春門院)が生んだ後白河上皇の第四皇子憲仁親王が皇太子となった
Ø 1167年、清盛が従一位・太政大臣となり、弟の頼盛、妻の弟の時忠、嫡子重盛、その弟宗森、ら五人が揃って公卿[44]にのぼり、国守は11人、一家の知行国は5カ国となった
l 1167年、平重盛に東山・東海・山陽・南海諸道の賊徒追討の宣旨が下された。これは上皇が比較的御し易いとみた重盛に権限を与えて平氏一族内にクサビを打ち込み、清盛を牽制しようとする策の一環であろう
Ø 当時追討の必要性もなく、重盛のような高官が追討使として活動した前例もないので、これは諸国の軍事警察権を平氏に与えたという意味であろう(五味文彦1979)
Ø この直後、清盛は在任3ヶ月余りで太政大臣を辞任している。平氏武士団の長である清盛ではなく、後白河の側近としての性格のつよい重盛をあえて追討使に指名したところに、上皇の意図が示されている
Ø 1176年にも、重盛に諸国海賊の追討の形式で同一の権限を与えたことにも注目すれば、二条天皇逝去後「治天の君」の政治を始動させようとする上皇が、重盛を院の軍事機構内に取り込もと意図したと推測される
l この時代、天皇家や摂関家、源氏などで、家の継承を巡って激しい対立が生じていたが、平氏については総じて清盛の統率力は抜群であり、平氏一族内にクサビを打ち込もうとする上皇の企図は失敗に終わったとみられる
Ø 清盛の統率力の源泉は、本人の能力だけではなく、『平家物語』『源平盛衰記』に書かれているような清盛皇胤説も十分に考慮に値する(下記参照)
² 清盛皇胤説とは、清盛の父は忠盛ではなく実は白河上皇だったという説
² 忠盛が上皇の寵愛を受けた女性を妻に賜ったという事実
² 若年の時から清盛の官位の格付けが高く昇進の早さは上流貴族並という事実
l 平氏の勢力が隆盛を極めるかに見えた矢先、清盛は大病にかかり1168年に重体に陥った。しかし奇蹟的に快癒し、以前に増して権力を揮うようになった
Ø 大病に罹った清盛は出家し、清盛死後の政界の混乱に具えて上皇と合議して六条天皇を退位させ、清盛と縁が深い、後白河の憲仁親王を8歳で高倉天皇[45]とした
Ø ところが清盛は快癒し、出家した前太政大臣として、あたかも上皇や法皇[46]にも似た「制法」に拘束されぬ立場となっていた
l 京にいて平氏は多くの拠点を持っていた
Ø 平氏は、伊勢平氏の始祖正盛の頃から六波羅一帯を所有しており、父忠盛以来の六波羅の居館は清盛によって大幅に拡張されていた
Ø 六波羅は都の東郊外の交通の要所であり、一族郎党5200宇(軒)余りの家々が集まる軍事的拠点であった
² その内部には清盛の泉殿、弟頼盛の池殿以下の居館が営まれていた
Ø 平家一族の有力者は、清盛の西八条邸のように、都の南部にそれぞれの別邸を構えていた
l 平氏一族は摂津国福原にもそれぞれの別荘を持っており、付近一帯の荘園は平氏の所領で、大輪田泊は瀬戸内海航路の要港であった
Ø 清盛は福原を六波羅と並ぶ平家の本拠地とし、その政策は、勢力基盤を瀬戸内一帯から九州地方にかけての西国地方に求めてきた平氏に相応しいものだった
l 海賊の追討を命ぜられていた伊勢平氏の始祖正盛とその子忠盛は、すでに西国地方の武士達を支配下に繰り入れて主従関係を発展させていた
Ø 忠盛は鳥羽上皇領の肥前国神崎荘[47]を管理し、荘内に入港した宗船との自由貿易[48]を行うなど日宋貿易にも関係していた
Ø 忠盛の子清盛は保元の乱以前に2回も安芸守をつとめ海上交通の守り神である厳島神社を厚く信仰するようになっていた
Ø 1158からは清盛、1166年は頼盛と兄弟があいついで太宰大弐に任ぜられ、現地長官として日宋貿易管理や九州地方の支配に全力を傾けた
Ø 特に頼盛は12世紀初め以来の慣例を破って自ら現地太宰府に赴任し、太宰府の有力在庁官人原田種直や宇佐大宮司宇佐公通らの有力者を次々と従者に組織し、また宗像社や香椎社など幾つもの所領荘園を自らのものとしていった
2.対外関係の新展開
l ここで院政成立期以来の対外関係を振り返っておこう(⇒本書では、対外的関係を主に経済的交流を中心に据えて論じてある)
Ø 9世紀末の遣唐使廃止以後、公的交通はもちろん、個人の海外交通も禁止しようとした日本政府の方針にもかかわらず、中国の宗、高麗と日本列島を結ぶ通商活動の実績は積み重ねられていた
Ø (⇒宗との公的な通商関係は、実質的武家政権であった平氏が開いた)
l 11世紀末にはすでに博多・筥崎付近に多数の中国人が在留、12世紀には相当の都市が形成されており、船団を持ち、宗や高麗と往復しながら貿易に活躍していた
Ø 近年の福岡市内の埋蔵文化財発掘調査の飛躍的発展に伴って、中国産の大量の白磁類が発掘されたことが、当時の対外貿易の実態を理解するのに役立っている
Ø 日本からの主な輸出品は
(1)金・砂金・水銀・真珠・硫黄、松・杉・檜の木材などなどの原料品
(2)蒔絵・螺鈿・檜扇・屏風・日本刀などの加工品・美術品
Ø 宗、高麗、南アジアからの主な輸入品は
(1)中国産物品の錦・綾など高級な絹織物、陶磁器や文房具・書籍・絵画、銅銭
(2)主に南アジア産品の、沈香などの香料や染料・薬品類
(3)高麗産出品の人参・紅花など
Ø 北九州と浙江・福建地方の南中国沿海部とは、季節風を利用する航路で結ばれ、順風に乗れば十日間程度で到達できた
Ø 日本と高麗との交通ははるかに安全且つ短期間で済んだから (1)(2)の商品もこちらのルートからも流入した
Ø (2)の商品については、南中国沿海部の商人による日本と南アジアの中継貿易を通じて流入していた
Ø つまり、日本・高麗・宗三国を結ぶ東アジア貿易圏が、宗と南アジア一帯を含む南アジア貿易圏と連接していた
l この時代の国際性を物語る例は他にも見出される
Ø 在留中国人は博多以外に、敦賀や京都でも見出される
Ø 藤原信西が国交回復後の準備にと中国語を学んでいた
Ø 12世紀初めの京都には中国語の通訳までいた
l 清盛の時代になると、日宗交流を積極的に進め、公的レベルでの「開国」が始まったと言える状況が出現していた
Ø 高麗は政治的に不安定化し、北方の金の勃興によって宗は南遷した(南宋)
Ø 宗の商船を北九州から瀬戸内海へ、さらに大輪田泊まで招き入れた
Ø 1170年、到着した宋人を後白河上皇と共に福原の山荘で引見した。この件は保守的貴族から非難されたが清盛は日宋交流への積極的な態度を変えなかった
Ø 1172年、宗の皇帝から上皇と清盛宛に国書や中国産の物品が送られてきたのに対し、公式の返書や答礼の物資を送った
Ø 大輪田泊には宋船が入港し、京の貴族も参加して活発な貿易が行われた
Ø 平家一門は多くの富や珍奇な輸入品を蓄積し、軍船にも使える唐船(宗の商船)も所有していた
Ø 清盛の日宋貿易で最も急激な増大を見せたのは宋銭であった
² 1179年6-7月頃には異常なインフレが生じて人々が苦しんだらしい
² 宋銭の激増は、全国各地から出土する大量の埋蔵銭がよく示している
² 中世を通じて厖大に流通した宋銭はその間の大きな経済発展の証左と言える
3 クーデターと平氏政権
l 平氏は清盛一家を中心に、摂関家と対等以上の勢力を誇るに至り、既成貴族層や院近臣との対立抗争が必至な状況に至った。そしてついに平氏打倒の計画が発覚したが、清盛によってあっけなく鎮圧された(治承元年、1177年)
Ø 上皇第一の近臣藤原師光[49](西光)の子加賀守藤原師高の目代である弟の師常が、白山社領湧和泉寺の僧と衝突し寺を焼き払った。すると、白山社の本社日枝社の神人や延暦寺衆徒が入京し、師高と師常の処罰を要求して強訴を行った
Ø かねて天台座主明雲や延暦寺と近かった清盛は、強訴の防衛を命じられたが対応が鈍く、上皇はやむなく衆徒の要求を一旦は呑んだが、間もなく明雲を捕らえ座主を解任、所領を没収、伊豆へ流罪という、かってない強硬策に転じた
Ø そこで衆徒は再び蜂起し、流罪途中の明雲を実力で奪還したところ、上皇は清盛に延暦寺の包囲攻撃を厳命、清盛も渋々同意した
Ø しかしその前夜、平氏打倒の陰謀が清盛によって摘発され、西光らの院近臣が次々と逮捕されて死刑・流罪にされてしまったため(鹿ヶ谷事件、1177年)、延暦寺攻撃などは問題にならなくなった
l 以後後白河上皇と清盛の対立は決定的となり、結果は、まさにクーデターに相応しい前例のない清盛の行動によって、高倉天皇を頂いた平氏が全権を掌握した
l 1179年、藤原基実夫人だった平盛子(清盛の子)と嫡子重盛が相次いで死ぬと、その10月上皇は関白基房と結んで反撃に出る
Ø 重盛とその子維盛の知行国であった越前国を没収して院近臣に与え、平盛子が官領していた摂関家領も上皇の管理に帰した。
l 清盛も断固たる反撃に出た。11月、清盛は数千騎の兵を率いて福原から入京し、高倉天皇を擁した清盛は、まず関白基房や院近臣ら四十名余りを解任、女婿の基通を関白・氏長者とし、上皇の院政を停止した
Ø その上で基房や有力な院近臣数人を流罪や追放に処し、明雲を天台座主に復帰させ、後白河上皇を鳥羽殿に幽閉した(⇒まさにクーデター)
l 翌1180年2月、清盛は娘の徳子の生んだわずか三歳の皇太子を新たに安徳天皇に立て(高倉天皇は上皇に)外戚としての清盛が最高の権力を揮うようになり、11月には平氏政権と呼ぶに相応しい段階に達した
Ø ここで、平氏の経済的・軍事的基板を纏めてみる次のようなる
² 知行国はクーデター前の10ケ国から1180年には30ケ国となった(全国の1/2)
² 所領荘園は陸奥から薩摩まで分布し、中でも伊勢・伊賀・大和から摂津・播磨当たりを中心に、近畿・瀬戸内・九州地方に濃密に分布している
² 軍事基盤としての地方武士の組織化は、上記勢力圏内を中心に武士を家人にし、後の鎌倉幕府に先駆けてそれらの武士を平氏領やそれ以外の荘園や公領の地頭に任命して現地支配に当たらせる方法も採られた
Ø しかし、地頭制度も、武士の家人化も、ともにまだ十分な組織化・体制化にまでは至っていなかった
4 内乱
l 平氏の専権は反対派の反発を招き、また地方勢力の中央に対する反抗を誘い出した。先ず動き出したのは大寺院で、園城寺の大衆が延暦寺・興福寺の衆徒と共同して京の後白河・高倉両上皇の身柄を奪おうという計画が判明した
Ø 直接原因は、1180年3月、高倉上皇が従来の慣例を破って最初の社参に平氏の崇拝あつい厳島社に参詣しようとしたことに上記大寺院がそろって反発したこと
Ø プランは実現しなかったが、これまで犬猿の仲で抗争を繰り返してきた三大寺の衆徒が統一行動を企てた自体が画期的で、反平氏気運の高まりが窺える
Ø 少し前頃から衆徒の中でも上層の大衆と下層の堂衆との間の対立が深まり、反平氏色の強い堂衆の発言力が増大していたことも騒ぎの原因の一つ
l 1180年(治承4年)5月、後白河上皇の第二皇子以仁王[50]による反平氏の挙兵運動が明るみに出た
Ø 事前に挙兵計画が漏れて園城寺に逃れていた以仁王は、源頼政[51]らと奈良へ向かう途中、追っ手により宇治の平等院で頼政らとともに敗死した(5月26日)
Ø 後白河上皇が監禁された状態のなかで、院近臣や頼政が以仁王をそそのかし、東国をはじめとする諸国の武士に反平氏の武力蜂起を呼びかけたものであった
Ø 平氏打倒の直接行動はここで一旦挫折する
Ø しかし、以仁王は各地の源氏や郡兵に対して、皇位簒奪者平氏の追討命令書(令旨)を発していた
l 以仁王の令旨は各地の源氏が蜂起する契機となり、頼朝の鎌倉幕府創設へと繋がっていく
Ø 令旨の形式は公文書としては異例で王の名前は最勝王[52]、日付は1180年4月9日
Ø 令旨の内容は、清盛ら平氏一門のクーデターを非難し、後白河上皇第二皇子として、天武天皇の先例にならい皇位簒奪者である現安徳天皇の追討の兵を挙げたので、志あるものは直ちに起こって平氏を討て、と呼びかけたもの
Ø 王の命令書の伝達者は、山伏に変装した、源為義の末子行家[53]であった
l 1180年6月初め、清盛は後白河・高倉両上皇と天皇を福原に移した。形式は行幸だが、かなりの貴族が福原に移動したので、あたかも遷都の観を呈していた(福原遷都)
Ø 『方丈記』[54]で鴨長明の記述「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」
Ø 8月半ば源義朝の遺子で平治の乱以後伊豆に配流された頼朝が、伊豆で挙兵する
Ø つづいて甲斐の武田氏一族が、9月初めには頼朝の従兄弟の源義仲(木曽義仲)がと、反乱の動きが東国各地に広がった
Ø 畿内・近国でも所々で武士団が蜂起し、大寺院の衆徒達の動きも激しくなった
Ø 10月、東国の頼朝を攻撃するために派遣した平維盛率いる軍勢が、駿河の富士川の一戦で敗北・潰走したため情勢は平氏にとって一段と悪化した
l 1180年11月下旬、ついに清盛は両上皇・天皇とともに帰京、態勢を立て直し、興福寺・東大寺など南部諸大寺を焼き討ちするなど、全力を揮って反乱を抑え込もうとした
l 1181年2月はじめ、平氏が畿内・近国一帯を中核とする軍事政権への志向を明らかにした。しかし、この間に高倉上皇、ついで閏2月初めには清盛が相次いで亡くなった
l 清盛の跡を継いだ宗盛は後白河上皇の院政再開を要請しつつ、全国化した反乱に対決しようとしたが、前年来の西国の干害・大凶作の影響が特に京都で深刻化し、平家の軍事行動にとって不利な状況を作り出していた
l 1183年(寿永2年)、二年越しの大干害のためか一種の膠着状態を示していた全国の難局はにわかに動き始めた
Ø 信濃から北陸道方面に勢力を伸ばしてきた源義仲[55]を制圧しようとした平氏の軍勢が大敗した
² 義仲軍は直ちに京都を目指し、源行家や甲斐源氏、東海道・畿内の反乱軍も西上、京都の包囲を図る
Ø 7月、義仲入京前に宗盛と一族は六歳の安徳天皇を奉じて西国へと都落ちする
² 後白河上皇と多くの貴族は平氏に同行せず、入京した義仲・行家を迎えた
Ø 後白河上皇は直ちに義仲・行家に平氏追討を命ずるとともに平氏一族二百余人の官位を奪い、平氏の所領荘園五百余カ所を没収、その一部を義仲らに分与すると共に官位を与えて恩賞とした他、下記の施策を講じた
² 安徳天皇の在位を否定し、義仲が推戴してきた以仁王の遺児北陸宮の即位は厳しく拒否し、安徳天皇の弟で四歳の第四皇子を後鳥羽天皇とした
² そして、頼朝を功績第一と評価し、頼朝の下へ勅勘(天皇が直接咎めること)を赦し平氏追討と上京を促す使者を送った。
l ここで溯って1180年八・九月の東国に目を移すと以下のような状況であった(貴族の日誌に記録されている安房の国府から京の知行国主への至急報の内容、『吾妻鏡』の記載などより)
Ø 伊豆で挙兵、ついで関東平野を目指した頼朝らの反乱軍は相模の石橋山で平氏に属する大庭景親らに敗北を被るが、頼朝は安房に逃れて現地で勢力を挽回する
Ø 頼朝は、以仁王の命令によって東国の支配権を与えられたと自称しつつ、実力によって東国諸国の支配を推し進め、まさに反乱軍の首領となっていった
l 1180年12月、父祖の地相模国鎌倉に入った頼朝はここを根拠地とし、新居落成を期に大掛かりな引き移りの儀式を行う
Ø 頼朝に臣従し御家人となった武士311人が出仕し、侍所に任命されていた和田義盛[56]が彼等の氏名を記録した。
Ø 「これより以降、東国みなその道あるを見、推して鎌倉の主となす」と『吾妻鏡』は記している。
Ø これは「鎌倉殿」とも呼ばれる東国の支配者が、武士達に推戴されてここで誕生したとの叙述内容であり、この時をもって鎌倉幕府の成立とみる立場の宣明である
Ø (⇒鎌倉幕府成立年。国史大事典によれば7つ程の説があり、1192年説は形式に流れた俗説、1180年説は1190年説と並んで、現在では有力な説と記されている)
l 以来二年半余頼朝は上洛を急がず、東国支配圏の確保と拡大を推し進め、京都の後白河上皇との連絡・交渉にも力を注いだ。この行為が朝廷の評価を高めた
Ø 1883年10月、頼朝の提案に沿った宣旨が公布された。「東海・東山両道の荘園・公領の年貢は元のように荘園領主や国司に進上せよ。もしこれに従わぬ者があれば、頼朝に連絡して実行させよ」と
Ø これは、当時の最重要問題の解決に必要な一切の権限が、東海・東山両道については頼朝に承認されたことを意味していた
² 頼朝が挙兵以来以仁王から与えられたと称していた東国荘園・公領の全てではないとしても、その実質的効果は極めて大きかった。
² 当初の頼朝の要請範囲は、義仲の勢力圏にある北陸道も入っていたが、宣旨には、義仲をはばかる朝廷の意向によって北陸道が除外されていた
² しかし義仲の本拠の信濃は東山道の一国に属するから、この宣旨によって義仲の没落は決定的となった
Ø 頼朝は、この宣旨実行のためと称して弟義経[57]らの軍を東海道の西端伊勢まで派遣し、更に東山道の西端近江まで進出して京の義仲を攻撃する姿勢まで見せた
² この情勢を見た後白河上皇や院近臣、武士の一部は反義仲の姿勢を鮮明にして兵を集めた
² 11月、義仲は法住寺殿[58](後白河上皇の御所)を急襲して反対派を蹴散らし、上皇を捕らえて監禁し自ら征夷大将軍の地位についた。しかし、それは結局「孤独なる専制」にすぎなかった
² 翌1184年正月、義経と兄範頼[59]のひきいる東国軍の攻撃を受けて、義仲はあえなく近江の粟津の露と消えた
² ここで頼朝は平氏追討の宣旨を受け、平氏一族の旧領五百余カ所を恩賞として与えられた(⇒後白河上皇と源頼朝の巧みな政治手腕がよく窺える)
l 頼朝と義仲との戦いが激化している間に、北九州の太宰府まで落ち延びていた平氏が勢力を盛り返して東上し、摂津の福原に入り、さらに京都まで伺う勢いを示したが、これをくじいたのが一ノ谷の戦い(2月7日)であった(⇒一ノ谷は現在の神戸市)
Ø 西国の武士団を組織し海外貿易に乗り出した平氏の性格が、この全国的な内乱のなかで鮮明に表れてきた
Ø 上皇と平氏の和平交渉の最中に、義経・範頼らの東国軍が殺到、奇襲を受けた平氏は大打撃を被って四国の屋島に逃れたが、平氏は依然として瀬戸内一帯の制海権を握っていた
l しかし指揮官として素晴らしい功績を挙げた義経に注目し、しきりに義経を登用しようとする後白河上皇の動きによって、頼朝と義経との間には暗雲が漂いはじめる
Ø 無断で義経が検非違使に任官したことを怒った頼朝は、ついに義経に代えてより従順な範頼を平氏追討の総司令官に任じる
² 範頼は、1184年8月8日に帰還していた鎌倉から出陣し29日入洛、朝廷から追討使の官符を賜り、9月1日山陽道を経由して九州に渡り平家軍を背後から攻撃することを目指した
Ø しかし範頼は、長門国までは進んだものの平氏軍の反撃で、はかばかしい成果を上げることが出来ず、ここで頼朝は再度義経の起用に踏み切った
l 1185年(寿永4年)2月、義経は摂津の渡部[60]を出航し四国に上陸、屋島を直撃して平氏を破り、熊野水軍や伊予の河野氏の水軍を味方に引き入れ、ついに3月、長門国壇ノ浦で平氏を壊滅させた
Ø ここでいわゆる源平合戦は一応の終止符を打つが、全国的内乱は終わったわけではなく、各地で在地武士団による国府の攻撃を想定しなければならなかった。
l この十二世紀第4四半期の全国を覆った内乱は、十二世紀初頭に明らかになった中世社会への移行、そして保元の乱を大きな画期とする「武者ノ世」の始まり以来、社会のあらゆる面に鬱積してきた巨大な矛盾の爆発であった
Ø 東国から西国へと、それまでに例のないほど多数の軍勢が移動し、また数多くの戦闘が行われた
Ø 折しも全国的な干害・凶作に見舞われた最中の戦いで多くの人命が失われ、また飢饉に苦しんだ人々も多かった
Ø その中で幾つもの政権が興亡し、何人もの英雄が栄光と悲惨に満ちたドラマを演じ、そして死んでいった
Ø やや遅れて十三世紀初頭に原型が作られた『平家物語』は、この大きな転換期の諸相を描き上げた傑作であり、現代に至るまで、なおその生命を失っていない
四 鎌倉幕府と承久の乱
1 鎌倉幕府の成立
l 全国的内乱の中で、東国に源頼朝を首長とする軍事政府が成立した。その本質は頼朝を推戴した武士集団による地域の実力支配にあったが、それを可能にしたものは朝廷の宣旨という支配の正統性と、実際の戦いでの勝利であった(⇒戦功功労者は弟の義経)
Ø 1180年、頼朝挙兵と同年12月の鎌倉新居と団結宣誓式(鎌倉幕設立ポイント)
Ø 寿永2年(1183年)10月の宣旨による、東海・東山の実質的支配権獲得
Ø 1184年正月、京都の「孤独な専制者」となっていた木曽義仲勢を義経が殲滅
Ø 同年同月、平氏追討の宣旨と上皇の恩賞による平家旧領の獲得
Ø 1184年2月7日の一ノ谷の戦い
Ø 1184年2月、全国の武士の乱暴や押領停止命令の宣旨で武士の総元締めへ
Ø 1185年3月、頼朝が範頼に替わり再任した義経が、壇ノ浦で平家を殲滅
l 1185年10月、義経が叔父行家とともに京都で反頼朝の兵を挙げ、朝廷から頼朝追討の宣旨と「九国・四国地頭」の地位を与えられて西国へと向かったが、海上で風雨に合いいずこかへ姿をくらまさざるを得ないはめに陥った
Ø それは、第一に頼朝の挑発[61](⇒頼朝の挑発に関連した話を『国史大事典』から抜粋して脚注に略記した)、第二に武士の有力者達を相互に対立させては巧みに操ろうとする後白河上皇の政略の結果であった
l 11月下旬、頼朝の代理として妻政子の父北条時政が千余騎の兵を率いて入京、上皇の責任を追及して次々と強硬な要求を突きつけ、朝廷はやむなくそれを受け入れて12月6日に宣旨を発布
Ø 原史料の語る、宣旨が意味するところは簡明なものではなく、明治以来激しい論争が行われているが(文治守護論争)未だ一致した理解は得られていない。だが、宣旨によって頼朝の与えられてた権限は簡単に言えば次のようなこととなる
² 一国ごとに有力御家人を国の総地頭(国地頭)と総追捕使(後の守護)に任命する
² 諸国の平氏旧領(平家没収領)や謀反人の旧領の荘園・公領に御家人武士を地頭に任じ赴任させる
² 各地の荘園・公領に置かれていた地頭や下司・惣押領使などの国内武士たちもみな頼朝の監督下に服する
Ø その内容については概ね当時の右大臣九条兼実の日記などで知られ、『吾妻鏡』などやや後年の史料は、これによって頼朝が諸国平均に守護・地頭を補任し、荘園・公領を問わず兵糧米を課する権利を認められたと記している
Ø 一言でいえば、頼朝は、全国の治安警察権を掌中にすると同時に、田地を計注して兵糧米を徴収し、荘園・公領の地頭の総元締めとして年貢上納の監督を行うことになった
Ø しかし、この処置に対して京都朝廷の貴族や有力大社寺からの反対は激烈を極め、翌1186年から頼朝は兵糧米の徴収や地頭の非法停止などの点で、譲歩に譲歩を重ねざるを得なかった
l 1186年5月、行家は大阪で殺された。義経は翌87年秋に奥州藤原氏の秀衡の下に匿われていることが判明した
l 10月に秀衡が死ぬと、頼朝は跡を継いだ泰衡に圧力を加え、1189年閏4月、義経を殺させた。そして7月には全国から大軍を動員して総攻撃を開始して1ヶ月あまりで奥州藤原氏を滅ぼし、本州最北端まで幕府の直轄地となった
Ø 奥州藤原氏は陸奥・出羽両国の大半を勢力下に収めて以来の大勢力で、秀衡まで三代にわたって富強を誇る、半ば自律的な権力であった
l 1190年、頼朝ははじめて上京して後白河上皇や摂政九条兼実らと会談し、頼朝が「諸国守護」を「奉行」する権限を与えられたことが朝幕間で合意された
Ø 1185年に義経・行家の追討を名目として獲得した総地頭・惣追捕使などの諸権限を、改めて一般的な治安警察権行使の職に伴うものに切り替えられた
Ø 幕府の首長たる鎌倉殿頼朝は、従者の御家人達を全国の守護[62]・地頭[63]に任命・解任する権利を独占し、これによって全国的な軍事警察権を掌握することとなった
² 国地頭は廃止されているようだが、西国のかなりの地域で東国出身の御家人武士が地頭に任命されている(現存の大田文な)
² 特に地頭を通じての支配権は強力であった。
l 1190年頼朝はその地位に相応しい官職として征夷大将軍への任命を希望し、上皇はこれを拒否して代わりに天皇に近侍する最高の武官(右近衛大将)に任じたが、頼朝は一旦これを受け間もなく辞任し、単なる王朝の侍大将ではないことを天下に明示した
l やがて後白河上皇死後の1192年、関白兼実の尽力により頼朝は征夷大将軍になる。この時をもって鎌倉幕府の成立とする説は、いままでの記述から、形式的な解釈であろうことは理解できよう
2 承久の乱
l 頼朝の死後[64]相次いで将軍となった若い頼家・実朝時代には、幕府の主導権を巡る激しい争いが続発して多くの有力武士が滅ぼされ、将軍自身が次々と非命に倒れ、結局勝ち残ったのは頼朝の妻政子の実家である、伊豆の在庁官人出身の北条氏であった
Ø その背後には朝廷に対する姿勢を巡る対立が横たわっていた
Ø 優れた指導者にして政治家であった源頼朝の下では、もっぱら鎌倉殿すなわち将軍独裁体制で幕府が運営されていた
Ø 時政の子義時は姉の政子と協力して事態を収拾、幕府の政所・侍所の長官を兼ね、執権と呼ばれる地位について新たな指導者となった
l 1219年正月、二代将軍実朝が、右大臣就任拝賀の式の祭、甥の公暁に暗殺された。この事件は、朝廷や幕府に次々と波紋を広げていった
Ø 朝廷内部では、九条家勢力の消長などの波乱はあったもの、後白河院政を受け継いだ後鳥羽上皇のもとで荘園経営や軍事力の強化を図り、幕府と対決して勢力を挽回しようとする志向が強まってきていた。その中で実朝は、上皇の外戚の縁を持つ坊門家[65] の娘を妻に迎えて急速に京都との結びつきを強めていたのだ
Ø 将軍を失った幕府は、すでに前年朝廷側とほぼ合意していた案に基づいて、上皇の皇子を新たな将軍に迎えたいを申し入れた。しかし上皇がこれを拒否した
² この時の朝廷側の交渉相手は上皇の乳母卿の二位[66]であった
Ø 一方で、鳥羽上皇の寵妃伊賀局[67]の所領の地頭廃止を要求したことから、朝幕間の関係はにわかに厳しくなった
Ø 結局、幕府は九条兼実の孫藤原道家の子で二歳の三寅[68]が頼朝の妹の曾孫に当たることを理由に鎌倉に迎える一方、伊賀局の所領の地頭廃止は拒否の態度[69]を貫いた
Ø 実朝を失った幕府の次回を期待した上皇は、以後近臣とともに倒幕計画に熱中していくようになる。しかし、これは慈円が『愚管抄』で述べているような客観的認識とは乖離した判断であった
l 後鳥羽上皇と院の近臣は倒幕の挙兵へと直進し、1221年(承久)5月、「京と坂東との合戦」と称された承久の乱[70]が始まった。しかし、わずか1ヶ月にして西上した幕府軍は京都に乱入、上皇方の軍は四散して幕府の完勝となった
Ø 乱後の朝廷に対する処置はまことに厳しかった
² 後鳥羽・順徳両上皇は壱岐・佐渡の島に流され、挙兵に消極的だった土御門上皇は土佐に流された
² 上皇不在で院政が出来ないので後鳥羽上皇の兄(行助入道)を異例の上皇とし、その子を後堀河天皇として即位させ、仲恭天皇は廃位された
² 後鳥羽上皇の荘園群は幕府にすべて没収された(後に高倉院に寄進されたが、その処分権は幕府にあった)
² 院近臣は死刑以下の厳罰、京方武士の大半は殺され、没収された彼等の所領(荘園・公領)には、新たに東国の御家人武士が戦功の恩賞として地頭に任命された
Ø 承久の乱の結果、朝廷と幕府の力関係は逆転し、以後は幕府が最高の地位に立つこととなった
Ø この戦いは単純に東と西、幕府と朝廷の戦いというだけではなく、幕府内部における将軍専制体制派と、これに反対する執権政治派との決戦であり、後者の全面的勝利であった
² そのことは、京方のメンバーの中には源氏将軍の関係者や彼等と親密な武士達、頼朝死後の幕府内紛で敗北した武士の一族も多いことが物語っている
おわりに
l 承久の乱によって激動の時代はようやく終結した。武士団を組織した権力体としての幕府の長が、同時に全国の地頭の任免権を独占する形で荘園公領制下の現地を支配する体制がはじめて成立する
Ø 朝廷と幕府の並立に代表される、政治権力の分裂をふまえながら、新しい中世的体制が出発することになった
Ø 本稿は、藤本強の言う「中の文化」[71]の政治史を中心に述べるに留めるが、「北の文化」「南の文化」については、今後に期して筆を置く
[1] 関白:上皇・天皇の任命による、天皇の代理者。摂政は諸臣の第一者、内覧は准関白
[2] 藤原師通:関白。堀河天皇を助け、摂関家の勢力維持に努めた。白河院政に批判的
[3] 前例:天皇の即位は前天皇の譲位により、摂関家内部の譲与は天皇の追認のみ、が前例
[4] 藤原忠実:白河院と藤原家の間で家の勢力維持に注力し歴史に翻弄された摂政・関白
[5] 藤原公実:白河の外舅藤原実季の長男。白河院の側近
[6] 源頼義:清和天皇の六番目の皇子から数えて四代目
[7] 前九年合戦:現地の大豪族安倍氏一族との死闘を制した戦い
[8] 後三年合戦:出羽の大豪族清原氏一族の内紛に介入、彼等を滅ぼす戦い
[9] 大田文(おおたぶみ):国内の荘園・公領の各単位ごとの田地の面積から、場合によっては各荘園の領主、地頭・荘官らの名前までを登録したもの
[10] 本荘:荘園の領有が免田に限られていた段階で成立した、十一世紀後半以前の荘園
[11] 在地官人:地方の有力者と豪族を含む
[12] 職(しき):律令制の解体過程に於いて官職が世襲され、属する権能や得分が私財化するにつれて、十世紀頃からその地位を職と呼ぶようになった。荘園公領制が成立すると土地が荘園と公領という二重の性格を持つと同時に二重の職を持つようになる。職と在地領主制の関わり方についての理解の仕方には諸学者に相違がある
[13] 神人:「神社の下級神職あるいは寄人(よりうど)」を指すが、律令制の解体に伴い職の変容と同時に人々の生業区分の呼び名も多様化したのだろう。寄人は本稿の記述にある人々を指す(⇒より広くは土地耕作以外で生計を立てているすべての人だろう)
[14] 強訴:僧徒が武器を帯し、鎮守神を押し立てて公家に強請したという
[15] 大寺院相互の実力抗争:延暦寺(天台宗)と興福寺(法相宗)が著名
[16] 寺院内部での実力抗争:同じ天台宗の延暦寺と園城寺が著名
[17] 受領:平安時代以降、任国に赴いた国司の最高責任者を指す
[18] 「夜の関白」:『今鏡』に記載されている文言で、毎晩院に出向き申すことは何事も白河上皇に聞き届けられたので付けられた渾名。院の性格を象徴しているので引用されている
[19] 神崎荘:有明海に面し、太宰府とは山地を挟んで背中合わせの位置にある
[20] 藤原家成:白河唯一の乳母の縁で取り立てられた歌人藤原顕季の孫で得子の従兄弟
[21] 氏長者:律令制の系譜を引き氏中の官位第一の人を任じた、平安時代に特徴的言葉
[22] 源為義:源義親の四男、母は不詳。
[23] 後白河天皇:鳥羽上皇第四皇子(1127~1192年)。天皇予定者リストから外れ、帝王学もせず白拍子らと師として流行りの今様三昧だった皇子だが、後に時代の主人公になる
[24] 『平安遺文』(竹内理三編):1947年12月第一巻出版~1952年5月第八巻出版。収載範囲は781年~1185年。平安時代には、十世紀がはじまる頃までは律令国家の正史や法制関係の資料があるが、十世紀に入ってからは国家が公的に編纂した正史や法制関係史料がなくなる。平安時代から天皇・皇族・貴族の日記が利用できるようになるが、それは殆ど地方支配の実態にまでは及ばない。戦後における平安時代の社会経済史・国家史研究の飛躍的進展は、主としてこの『平安遺文』によってなされたものである。(坂本賢三)
[25] 大庭御厨:神奈川県藤沢市大庭付近一帯にあった。御厨は天皇家・伊勢神宮・上下賀茂神社や摂関家等に、供物・供祭物・食料として魚介類その他を貢進する所領のこと(初見は800年)。しかし、時代と共にその内実は変化している
[26] 三浦荘司:荘司は荘園管理者の下司のことだが、平安末期には荘司を名乗る例が出てくる。三浦荘は三浦半島内の荘園
[27] 中村荘:神奈川県足柄上郡中井町付近にあった荘園、領家・本家は不明(国史事典)
[28] 鎌倉景正:桓武平氏、大庭氏、梶原氏の祖、通称は権五郎、後三年の合戦に源義家に従って奮戦した荒々しい若武者として有名
[29] 三浦義明:源氏再興に忠誠を尽くし、石橋山の戦で一族の捨石となり最期を遂げる
[30] 続群書類系図:江戸後期の叢書。塙保己一が『群書類従』に続いて企画し弟子が引き継ぎついだ。活字本は1902年開始で1972年に完成。現在はデータベース化され、『JapanKnowledge』の有料法人契約で公開されている(133巻、75,300ページ)
[31] 大蔵氏:一族の原田種直は後に平氏と結び太宰府を支配した
[32] 菊池氏:一族の山鹿経頼は鳥羽院武者、山鹿秀遠は壇ノ浦の戦で平家の精兵として勇戦
[33] 鎮西:九州の別称
[34] 藤原通憲(信西):博学多才で鳥羽院の政治顧問となり、後白河天皇の乳父(妻が乳母)として政界の中心人物となる
[35] 白河殿:摂関家領として伝領された別荘を師実が白河天皇に進上し、その後同天皇によって再開発され、その後同法王は新御所(白河北殿)を造立。当時崇徳上皇はここに居た
[36] 平忠正:平正盛の子、忠盛の弟、清盛の伯父。崇徳が親王時の家事責任者、頼憲の従者
[37] 源為朝:(⇒平治の乱後捕らえられたが、武芸の才により死罪免れ大島に流布、その後狼藉により朝廷より追討され1170年に自害。沖縄に逃れ舜天王の父という伝説もある)
[38] 知足院:山城国(京都府南部)愛宕郡舟山の辺にあったと言われている
[39] 荘園整理令:荘園が合法かどうか調べて整理(停止=廃止含め)する命令。902~1225年までの間に全国的規模では20回出されている
[40] 本免田:国衙(国司)より課税負担が免ぜられている荘園内の基幹的田地
[41] 記録荘園券契所:荘園整理令を実行する朝廷の機関で藤原信西やその子息が尽力した
[42] 二条天皇:後白河天皇の第一子。外祖父が藤原師実の第三男藤原経実
[43] 藤原信頼:1133-1159.父は鳥羽院の近臣、母は鳥羽院の近臣の娘
[44] 公卿:太政大臣・摂政・関白・左右大臣・内大臣を公、大中納言・参議および三位以上を郷といい、総称して公卿と言った。平安時代に入ってからは、参議以上の身分を示す称呼として普遍化した
[45] 高倉天皇:1161-1181。後白河の第四皇子、母は贈左大臣平時信の女(滋子)
[46] 法皇:出家した太上天皇の称
[47] 神崎荘:肥前国最大の荘園、吉野ヶ里遺跡もその領域にある
[48] 自由貿易:日宋貿易の拠点は博多だが、鳥羽院政時の忠盛は神崎荘に宗船を入港させて太宰府の管理外で貿易をした可能性が高い。筑後川沿いに宗の磁器や銭が大量に出土する
[49] 藤原師通:父母不明。信西に仕え、その推挙で左衛門尉になる。信西が死ぬと出家して西光となるが、後白河の寵臣となり威を揮った
[50] 以仁王:後白河の第二皇子。第一皇子は二条天皇、二条の子が六条天皇、第四皇子は母が清盛の妹滋子の高倉天皇、1180年2月21日践祚の安徳天皇は高倉の皇子で母は清盛の娘徳子。才学に優れ人望もあったと言われている
[51] 源頼政:摂津源氏、射芸達人、和歌一流、三位。白河院以来朝廷に仕え、保元の乱では後白河天皇方、平治の乱では平家方
[52] 最勝王:(⇒奈良時代から重んじられてきたいわゆる護国経典の代表である「金光明最勝王経」から、以仁王が「最勝王」と称した。以仁王に言わせれば平家は仏敵となる)
[53] 源行家:為義の十男。1180年八条院蔵人となり行家と改名。頼朝挙兵後独自の行動を取るが、成果も信頼も得られなかったようで、結局頼朝と敵対し1186年大阪で殺される
[54] 『方丈記』:『徒然草』『枕草子』とならぶ「古典日本三大随筆」で鎌倉時代の著作
[55] 源義仲(木曽義仲):為義の孫、義朝の甥
[56] 和田義盛:相模国三浦一族、三浦義明の孫、三浦義村と従兄弟、1213年の和田合戦で一族滅亡
[57] 源義経:父は源義朝、母は九条院雑仕常磐。1189年閏四月三十日、奥州藤原京にて自害、妻子(秩父氏一族河越重頼娘の郷御前と4歳の娘)も死亡(頼朝による粛清)
[58] 法住寺殿 :後白河上皇の御所
[59] 源範頼:父は源義朝、母は近江国池田の遊女。頼朝の異母弟。1185年壇ノ浦の戦いで義経とともに平氏を壊滅させた後九州に渡り戦後処理と鎌倉幕府支配確立に努め、同年10月鎌倉帰還。1193年謀反の疑いで伊豆に流罪後誅殺されたらしい(頼朝による粛清)
[60] 渡部:大阪淀川の河口にあった津(港)で、摂津源氏源頼光の四天王の一人源綱(渡辺綱)を始祖とする渡辺党の根拠地
[61] 頼朝と義経の対立:『国史大事典』では、義経の平氏戦の間に、梶原景時らの関東御家人と義経が対立し、景時の讒言、大江広元の取り成し拒否(腰越状)、腰越滞在・鎌倉入拒否、鎌倉側挑発増大、頼朝の刺客(土佐坊昌俊)が続いた、と(安田元久)
[62] 守護:陵墓・獄舎・官舎・院宮の警固のあたるものとして平安時代の史料に見えてくるが、頼朝登場以前に諸国の国衙軍制の一環として国守護人の登場を説く論者もいる
[63] 地頭:現地を意味する場合と特定の人或いは職を指す場合があり、前者は九世紀末に溯るが、地頭制度が確立する鎌倉時代以降もその用法は存続する(⇒経済基盤である土地に関する諸権利を持てばその地の支配権を持つから、守護という語は場所と人・職を指す)
[64] 頼朝の死:1199年正月13日に死亡。死因は前年末の落馬による持病の悪化らしい
[65] 坊門家:藤原北家道隆流の諸家。後鳥羽院政期に近臣として隆盛を極めた
[66] 卿の二位:藤原兼子。宮廷政治家として権勢をふるい「権門女房」と呼ばれた
[67] 伊賀局:元白拍子、後鳥羽上皇に寵愛され摂津国長江・倉橋両荘領家職を与えられた
[68] 三寅:後の四代将軍頼経、後に九条家衰退下の京都で子の五代将軍頼嗣と相次いで急死
[69] 地頭廃止拒否の態度:北条義時の弟時房に兵千騎を率いて上洛させて断った
[70] 承久の乱:太平洋戦争中は「承久の変」、学的には変ではなく乱が妥当なので直された
[71] 「中の文化」:藤本強は『もう二つの日本文化』(藤本強1988,東京大学出版会)で、日本列島の文化は、外来の稲作農耕文化を本州・四国・九州の各地に相応しい形を取って独自に展開をしてきた「中の文化」だけではなく、それとはべつに長い間独自の歩みをしてきた文化がある。それは北海道を中心とする「北の文化」と沖縄や南島の「「南の文化」であり、これらの文化を除外したまま、日本文化を語るのは全くおかしなことと思われる、と述べている。つまり、多様な文化が共存する事は豊かな社会の条件であるが、現代世界にはそれが欠けているとの認識を示した上で、日本も例外ではないことを実証・指摘しているのだと思う。