2017年8月7日月曜日

『「日本」とは何か』網野善彦 日本の歴史00 講談社2000年10月


第一章 「日本論」の現在

1 人類社会の壮年時代

人類社会の歴史は、いまや青年時代をこえて壮年時代に入ってきた。壮年時代においては、それに相応しい思慮深さが否応なしに要求されている。近代以降の進歩史観によって切り捨てられた多様な世界をすくいあげ、それを人類史の中に位置づけて、新たな人類史像を描き出し、本当の意味での「進歩」とは何かが追求、模索され始めている。もとより日本人もまた同じ課題を負っている。

アメリカによる日本の広島と長崎に対する原爆投下(19458月)は、人類が自らを滅しうる力を自然の中から取りだしたという点において、人類の歴史に決定的な時期を画することとなった。そのことは、核兵器だけがもたらした事態であるというわけではない。公害、地球温暖化、有害物質、自然破壊も根は同じであろう。しかし、こうした姿勢の根は深く、日本列島においても、農地の大規模開発は江戸時代後期までは溯る。
このような現実の展開の下に、人間は自らの力で“進歩”していくという、近代以降の歴史学の根底を支えていた確信が揺らいできた。自然の理解に基づく生産力の発展こそ社会の“進歩”の原動力であり、その“進歩”していく過程に、人間の歴史の基本的な道筋を見いだそうとする見方は、もはやそのままでは通用しなくなっている。”進歩”史観の根本的動揺が生じている。
文明論的にも、未開・野蛮・漂泊・遍歴の状態から定住・定着生活が確立して文明社会へと進歩していくというのではなく、両方とも人間生活のあり方と捉えるべきである。
人間の経済活動についての理解も修正されなければならない。史実は、まず自分の生活が満たされてから他者との交換が始まったわけではないことを示している。交易、交換、およびそれを目的とした生産、商品生産は、人間社会の最初からあったのである。自然経済から交換経済へ、あるいは自給自足経済から商品経済へと進歩してきたのではない。狩猟・漁労・採取経済から農耕・牧畜経済へ、更には工業を基盤とする産業経済へと経済の形が変遷していっても、それ以前の生業が滅び去ったのではない。
原始社会からアジア的社会、奴隷制社会、封建社会、資本制社会へという、敗戦後の主流的な歴史の捉え方、それと密接に関係する、原始、古代、中世、近世、近代、という時代区分の捉え方、何れも進歩史観的捉え方であり、再検討する必要がある。
女性・老人・子供・被差別民が社会において果たした役割も再考しなければならない。進歩史観に即してみると、歴史は成年男性の主導する歴史であった。これは農業と工業に目を向けてきたためであり、事実に即してみると誤っている。女性は、養蚕、製糸、紡績、織布などの衣料生産に圧倒的に大きな役割を果たしていた。また、織物、魚介類、薪炭等々の売買にも従事していた。老人は、隠居、年寄り、の立場として、また院と天皇、大殿と摂政、太閤と関白、大御所と将軍の関係において大きな役割を演じていた。子供については、未開の裾が広いが、幼童天皇、寺院内童子、京童、牛飼童、童形等々の役割を持っていた。被差別民についても、最近、さまざまな角度から光が当てられるようになってきた。これも歴史学の成熟をよく物語っている。差別の要因、多様な実体、さまざまな役割などが人類史的な視野から追求されねばならないが、それには、被差別民の積極的役割、例えば芸能の世界への大きな寄与などの立ち入った研究が必要だろう。

2 日本人の自己意識―――その現状

近代国家としての明治政府以降においては、事実に基づいた学としての歴史教育が軽視され、国家による恣意的な歴史観が創られてきた。長年すり込まれたその様な歴史観の根は深く、敗戦後の教育によっても未だ修正されてはいない。そのため現代の日本人の自己意識が曖昧なものとなっている。そのことは、人類の歴史的画期である現代において、政治・社会・経済等々の諸課題を解決するための足かせとなっている。
例えば199989日に、「国旗・国歌法案」が国会において圧倒的多数で成立したが、これは、現代における日本国の自己意識が明確に現れている象徴的な出来事である。敗戦後の歴史学が、日本国全体に及ぶ重大な歴史的問題を突き詰めてこなかった結果でもあるだろう。「この法律は、211日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったく架空の日を「建国記念の日」[1]と定める国家の、国旗・国歌を法制化したものであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代と基本的に異なるものではないことは明白な事実である。」「私自身は、戦争中、友人を殴打、足蹴にして憚らぬ軍人や軍国主義教官の横暴を体験しており、その背後に絶えず存在した日の丸・君が代を国旗・国歌として認めることは断じてできない。」[2]
長年すり込まれた、事実に基づいていない日本人の自己意識の表れは、国号を決めることの他に多く存在する。その淵源は1300年を溯る日本国の成立時期にまで及ぶ[3]
「日本は周囲から海で隔てられ、孤立した「島国」であり、だから、均質・単一な民族となった」という常識は現実からかけ離れている。日本の諸地域は海を通じて(日本列島内外との)交流が行われ、それによって独自な個性が形成されてきた[4]
「日本は単一民族、単一国家である」などというのは神話といっても過言ではない。7世紀末に確立した「日本国」の国制が及ぶ範囲は、ヤマトを中心に、北部九州から東北南部までであった。しかも中部以東から関東までは、異質な地域と意識[5]されていた。南九州以南、東方北部はその範囲外であったが、その後「日本国」の力に基づく侵略により併合され。12世紀には東北北部まで、北海道・沖縄は19世紀半ばまでに併合された。
「日本人は弥生時代以来主として稲作に従事しており、その主食は米で、日本文化の根本は稲、米である」とする“常識”も誤りである。実生活を振り返ればたやすく気付くはずの、この思い込みは、進歩史観による学の積み重ねと歴史教育の浸透を考えると、たやすくは気付かれないものである[6]。その思い込みの淵源をできるだけ探ってみたいと思う。

「・・・敗戦前の亡霊たちが姿を変えてわれわれの前にはっきりと現れてきた現在こそ、まさしくこの総括の作業を開始する最適の時点と、私は考える。」



第二章 アジア大陸東辺の懸け橋 日本列島の実像

1 アジア東辺の内海(うちうみ)

  日本列島とアジア大陸の間には、日本海を始めとして五つの巨大な内海(うちうみ)がある。日本列島の社会は、これらの海を介した人と物の交流・交易により動かされてきた。海は、異なる人間社会の交流、共存の関係を司る自由の論理を象徴しており、それに対して陸の世界は、人々を上下の関係において統治するため支配の論理を象徴している。陸の支配の論理に基づいて太平洋戦争を引き起こして敗北した大日本帝国の軍隊が海軍を重視していたのは皮肉なことである。[7]
気候変動の影響を強く受ける海の世界の特質が、元寇に象徴されるように日本国が外敵からの侵略を受けにくかったことは事実である。しかし、急がず慌てず、日和を十分見定めて航行すれば、海ほど安定して太い交通路はない。だから、日本は孤立した島国などではなかった。船による広域的な活動は縄文時代以前にまで溯る。日本列島はアジア大陸の北方と南方を結ぶ懸け橋の一部であった。

2 列島と西方地域の交流

縄文文化は日本列島が島になってからの「島国文化」であるという1960年代の常識が覆されている。日本列島の人々は、縄文時代以前の数万年前から中国大陸の北方や南方との交流をしていた[8]。また、三内丸山遺跡や中里貝塚遺跡等々の知見から高度な縄文文化の実体が分かってきた。
日本列島西部においては、紀元前34世紀頃から東部における縄文文化とは異質な文化が始まった。いわゆる弥生文化[9]である。これは主として朝鮮半島経由で、異なる形質と文化を持つ人々が、中国大陸の政治的激変に伴って、極めて大量に移住してきたことによって引き起こされたものである。埴原和郎氏によれば7世紀までにその数は最大120万人に及ぶという[10]。こうして、列島西部の人々は弥生人の形質を強く持ち、フォッサマグナ[11]を挟んだ東部の人々は縄文人の形質をより強く残すことになった。更に東北北部から北海道、南九州から沖縄には、弥生人の形質は及ばなかった。「日本人単一民族説」は完膚なきまでに打ち砕かれた。
弥生文化が列島全域覆ったという、現在の高校教科書の記述も事実に反している。稲作が日本文化の基盤であるという歴史観も偏っている。北海道・東北最北部の続縄文・擦文文化、南島の貝塚文化は稲作とは無関係であり、本州東部も稲作は希薄で縄文文化の伝統が強い。稲作が根をおろしている地域は列島西部に留まっている。
被差別部落(ここでの差別は「穢れ」[12]に関わるものだけを指す)のあり方も、日本列島の文化の多様性を示している。琉球とアイヌには被差別部落は存在しない。東北・関東・中部では数も少なく意識も希薄である。「穢れ」は主として人の死に関するが、出産、火事、家畜の死、なども含まれ、人類社会に共通してみられるものだが、対処の仕方が地域や民族によって異なっている。例えば、列島での胞衣の処理の仕方は二種類あって、その分布は列島東部と西部でおおよそ括ることが出来る。
海部・海夫・海人などと呼ばれる海民は、太平洋や日本海を移動して、線としての文化圏を形成していた。その由来は弥生時代に溯り、習俗は現代にまで続いている。海民には、前述の二つの方式とは異なる胞衣を葬る共通の仕方があり、アワビを捕る活動形態にも同一の習俗がある。『延喜式[13]』にはアワビが「調」の対象であった記述も残されている。その文化圏は、済州島から壱岐・対馬、そこから一つは瀬戸内海、紀伊、伊勢、志摩、伊豆、下総、常陸、と太平洋沿岸へと続き、もう一つは隠岐、能登、佐渡から男鹿半島に続く。この文化圏の区分は列島の東西区分とは異なるもので、それは列島における文化の多様性と、数千年前からの物や人の交流の道を示している。

3 列島の北方・南方との交流

列島の北方との交流は、オホーツク海を通じて、一万年ほど前からアムール川(黒竜江)地域と列島の北部との間で行われていた。縄文晩期にはその考古学的遺跡がある。8世紀から13世紀にかけては道東にオホーツク文化の波が流入し、擦文文化と並存している。
日本海を横断した交流は、6世紀から7世紀にかけての高句麗との交流を伝える文献上の記事や、加賀や能登の古墳作りの技術における高句麗の影響も指摘されている。8世紀から10世紀にかけては、大陸北部に建国していた渤海との活発な交流があり、加賀や能登などの地域にはそれを覗わせる遺跡が発掘されている。
北方との交流の影響は、単に沿岸地域だけでなく、列島を横断するルートによっても伝えられたであろうことは、関東から能登に運ばれた重い板碑の存在によって推定される。
12世紀13世紀にかけて、擦文文化とオホーツク文化の交渉の中でアイヌ文化が形成されてから、アイヌの活動は、北はサハリンからアムール川の上流、南は東北北部にかけて、物品の流通を担っていた。それは極めて活発で、列島内の廻船人の会場活動と結びつき、平安末期から中世にかけては列島内への北方産物の流入に大きな役割を果たした(例えば「調」としての昆布などが挙げられる)。このように重要な役割を果たしていたアイヌが、農業も行わず文字も知らない遅れた未開な人々と評価されてきた理由は、進歩史観の偏見のためである[14]
13世紀後半には、アムール川に進出していたアイヌとの摩擦に関連して、元軍が四回にわたりサハリンに侵入した事実は、鎌倉幕府が若狭国御家人に「蒙古国事」の用意を命じたことと無関係ではないだろう。津軽十三(とさ)(みなと)に根拠を持つ「蝦夷管領」安藤氏を通じて、元が日本海経由で攻めてくる可能性が幕府に伝わっていたことは想像に難くない。
北方との交流が盛んであったことは、日蓮の予言の拠り所や、その弟子の日持が法華宗を北方世界に広めるべく大陸にまで旅立ったこと等にも覗える。
南方世界との交流も盛んであった。琉球王国は、123世紀に中国大陸より青磁・白磁を持ち込んでおり、14から15世紀以降はマラッカからジャワ、スマトラまで南下して、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の間で活発な交易活動を展開していた。また、海の領主の存在も注目される。鎌倉後期には北方の安藤氏と同じく北条氏に被官していた千竃氏は、列島の伊勢湾最深部に本拠地をおき、南島の島々を支配し、紀伊、駿河、常陸の太平洋岸に所領を持っていた。北条氏が北方、南方の交易を押さえようとしていたことも注目される。

4 東方の太平洋へ

広大な太平洋も、人と人との結びつきをまったく不可能にしたわけではない。そのことは漁民史の研究家の著作などでも覗える。17世紀世紀初頭までにかなりの数の日本人が南米大陸に渡っていたことも知られているが、その一つのルートは、すでに16世紀には東南アジアに進出していた人々が、スペイン人に接触して知り得た南太平洋の道であろう。

5 列島社会の地域的差異

日本国という国家成立以前の遙か昔から、周辺地域との交流を通じて、社会の地域的な特質、個性が形成されていた。国家は、むしろそのことに規制されて存在していると考えなければならない。列島の東と西には根深い差異がある。植物・動物相、言語学的差異、稲作と畑作農耕の分布、牧場の分布、竪穴住居のあり方、炉のあり方、「穢」や「婚姻」の習俗、等々と、日本人の多様性についての関係には、多くの課題がある。

第三章 列島社会と「日本国」

1 「倭国」から「日本国」へ

倭は日本であり、倭人は日本人であるという理解は、敗戦後の歴史教育を通じて広く日本国民の中に定着している。それは日本だけではなく韓国・朝鮮においても同様である。しかし、それは間違いである(国名は単なる記号ではない。それは歴史観が表現されたものであり、また歴史観を作っていくものである)。
「倭寇」とは、国家を超え、国境に関わることなく、玄界灘・東シナ海で独自な秩序を持って活動していた海の生活者達、あるいはその活動を対象として名付けられた言葉であって、「日本」の海賊でもなければ、「日本国」による朝鮮半島に対する暴虐でもない。倭寇には前期倭寇と後期倭寇があり[15]、前者には朝鮮半島と日本列島の住人が多く、後者は中国大陸の明国の人が多数であった。
「倭人」という言葉が、紀元前1世紀から近代までの各時代のいろいろな文献に出てくるが、その内容は異なっている。『魏志倭人伝』の「倭人」は3世紀に卑弥呼を頂く列島西部の勢力のことであり、新羅王国成立後には、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていた[16]
「「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団を指す言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、特定の時点で、特定の意味を込めて、特定の人々の定めた国家の名前―――国号である以上、これは当然のことと私は考える。・・・「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。」
7世紀末に、「壬申の乱」(672年)に勝利した天武の朝廷が「倭国」から「日本国」へと国名を変えた。持統朝の689年に施行された「飛鳥浄御原令」で、天皇の称号とともに日本という国号が定められ、702年にヤマトの使者が則天武后[17]に対してこの国号を対外的にはじめて用いた。日本国の成立、従って日本人の出現という事実を、現代の日本人が殆ど知らないという現実は極めて驚くべきことである。
何故そうなったのか、については根深いものがある。直接的には明治以降の政府によって、国家的教育を通じてすり込まれたことに起因する。著者も日本国の成立については20年ほど前にはさほど意識しなかったほどである。こうした事態の背景には日本の国号が天皇という名前とともに1300年間変わらなかったという事実があるのだが、国号の議論は平安時代から現代まで続いている。このことの背景には、日本人の自国に対する意識の内実が隠されている。
「日本」という名前は、「日出づる国の天子、・・・」という遣隋使の国書の記述に見られるように、太陽信仰の志向のみならず、西方の中国隋・唐帝国に対する対抗意識の強いもので(ハワイから見えれば列島は西)、自国に対する意識の自立観に弱いところがあった、と言う考えは多くの古代史研究者の意見である。「今昔物語[18]」のような説話集において、閻魔王や竜王などから「日本」と呼ばれていること、あるいは、土中に埋められて仏に捧げられる経筒の銘文で「日本」という国号を名のっていること、つまり「異界」に対する「日本」という意識があった。(「異界」といえば)甕などに入れられて土中から発掘される莫大な銭は備蓄銭か埋蔵銭かという議論があるが、著者は後者と考えている。土中に物を埋めると言うことは、それを異界のものにする行為、つまり「無主物」にすること、と考えることができるが、「問われねばならないのは、なぜ、膨大な量の銭が「無主物」にされ「異界」のものとされたのかであり、これについてはなお完全な回答は得られていないといえよう。」
「日本」が対外的な国号として、中国大陸の帝国に認められ、従って東アジア世界に通用したのに対し、「天皇」の称号は中国大陸の帝国との公的な外交文書では用いることができなかったと推測されている(渤海[19]を除く)。これは、日本国の天皇(倭国の大王も)は唐帝国の冊封を受けなかったためである。つまり、冊封を受けなかった「天皇」は中国大陸の「姓」制度から「超越」しているから「姓」を持たないがゆえに、外交文書において「天皇」と言う言葉は記述出来ないのである[20]

2 「日本国」とその国制

7世紀末に成立した「日本国」は、「蛮夷」を服従させる「中華」として自らを位置づけ、多様な個性を持つ列島社会に、その画一的な国家の制度(国制)を貫徹しようとする意思を強力に推し進めた[21]。当初その範囲は、近畿を中心として、東北南部から九州中部までであり、朝鮮半島との国境を、白村江での大敗後に朝鮮海峡に置き、新羅と対峙した。
8世紀初頭には「蝦夷」と呼ばれた人々の住む東北の侵略を本格的に開始して「国境」を次第に北上させたが、東北人の抵抗は強く、結局九世紀初頭、桓武は軍事侵略を止めざるをえなかった。奥六郡・山北(せんぼく)三郡は「日本国」の「国制」下となったが、それは事実上東北人の自治区、つまり「俘囚の地」であった。それより北の下北・津軽にかけては「日本国」の外の地であった。列島南部については、8世紀初頭には南島の人々に「朝貢」させ、8世紀末には南九州の「隼人」と呼ばれた人々を従属させ、薩摩国、大隅国を建てて国郡制に加えて班田制が一応は実施された。
大陸や朝鮮半島の人々に対しては、8世紀中葉には新羅に対して動員体制を取ることで朝貢を強要し、また、使者を送って交易を求めてきた渤海を朝貢国として扱った。しかし、10世紀になると、このような「中華」としての「帝国主義」的姿勢は後景に退いていく。ここで見落としてならないことは、「日本」を国号とし「天皇」を王の称号と定めた「日本国」もまた、世界の諸古代帝国と同様に「帝国主義」的、侵略的な一面を持っていたという事実である。そうした一面は、豊臣秀吉の朝鮮侵略で一時的に表面化し、明治以降の国家、「大日本帝国」によって全面的に復活した。敗戦後の「日本国」にも、なお力による侵略的姿勢は潜在的に生き続けている、と考えなければならない。
国郡制が岩手・秋田北部から津軽・下北にまで及んだのは1112世紀であったが、それを可能にしたのは「日本国」自体の力ではなく、その境界の外にも基盤を持つ安倍氏から奥州藤原氏にいたる、自立性の強い政治権力の成立によるものである。北海道南部「渡島」は17世紀初頭においてもなお国制は及ばす、松前氏は石高制[22]の枠外であった。
六十六カ国二島の制度は9世紀初頭に最終的な形を整え、以降名称も範囲も殆ど変わらず、明治の府県制実施後も潜在的に生き続け現在に至っている。郡については、大枠は維持されたとはいえ流動的であった。このことは、国は固い制度として「日本国」の枠組みを支え、郡は郷とともに社会・生活の動きと結びついて変動したと考えられる[23]
「日本国」はこうした国々を畿内と七道の制度によって区分し、それを支え貫通する道路を計画的に造成した。この道路の幅は十数メートルに及ぶ立派な物で、列島の地勢とはそぐわない、驚くほど直線志向が強いものであった。その主目的は軍隊の安定迅速な移動であり、官吏はここを通ることが決められていた。社会の実態の中では、河海の交通や古くからの生活道も用いられており、この立派な七道は100年持たずに荒廃した。10世紀以降江戸時代を通じて、交通体系の基本は一貫して海上・河川交通であり、陸上道は主として人馬の交通路として補助的役割を果たしていたに過ぎない。
「律令制」による戸籍の制度は、班田制の実現のために調・庸などの課役賦課の台帳として作られたものである。戸籍は里長(郷長)が書き、国ごとにまとめて都の政府に送られたが、最古の戸籍(702年)を見ると、実に見事な文字で書かれており、国家機構の運営に徹底した「文書主義」が採用されていたことが覗える。しかし、この戸籍の制度も10世紀には殆ど実質を失った。戸籍は、中世には作成されず、江戸時代に入ると宗門改帳の形式での帳簿が全国的に作られていたが、明治の壬申戸籍によって制度として完全復活した。
「律令制」による戸籍の作成にはもう一つ注目すべき点がある。それは現在の日本人の姓名の付け方の源流があること、そして、氏名・姓は建前の上で天皇から与えられることになっていたことである。
戸籍の存在は世界の諸国の中ではかなり特異なものであり、敗戦前までは家父長的な家族を制度化していたが、これは儒教思想に支えられた大陸国家の男性中心の制度が「律令制」により受容されたことに端を発している。そこでこの時期に家父長制家族が確立していたと考えられていたが、実はそうではないことが分かってきた。
列島社会においては、すべてとは断言できないものの、「同姓不婚」の原則を持ち、血縁で結ばれたという集団、すなわちクラン(氏族)は存在せず、近親婚のタブーは極めて小さかった。この婚姻のあり方は中国大陸・朝鮮半島とは大きく様相が違っている[24]。列島においての「氏」は氏族の名ではなくて政治的な集団の名であった。だから、天皇によって氏名が与えられることが可能であった[25]
律令制の建前とは違って、列島社会においては実質上の女性の権利は相当強かった。列島社会では西部においては確実に、東部においても基本的に双系制であった。律令制においては父系嫡々の相承の建前であったが、大宝令の部分改良である養老令では女性に相続資格が大幅に認められていたし、14世紀までは女性の不動産の相続は保持され、動産については古代から江戸時代を通じて女性の権利は男性よりも強かったと思われる。政治の世界でも、奈良時代までは女性の天皇・上皇が権力を持ち、平安以降も後宮・女房・女院も発言権を持ち、武家世界でも少なくとも15世紀までは将軍・執権などの妻は政治権力を持ち続けている[26]
「日本国」の国制の建前が実際とは異なっていたにもかかわらず、それを事実であると思い込み、誤った歴史観を抱く危険性は、天皇家に帰一する系図にも表れている。1213世紀に作成された信頼の置ける古系図にも、実際は女性の多い系図を藤原氏の男系系図や記紀神話から始まる系図に結びつけているし、14世紀後半の系図集においても、伝承に基づいて藤原氏、天皇家に出自する源氏や平氏等に結びつけられたものがある。15世紀以降とくに江戸時代に入って作られた系図は、源平藤橘の諸氏に祖先を結びつけている。それらは「大和民族はみな天皇の子孫」という敗戦までの意識を支える基盤をなしていた。
水田を基盤とした税制、班田制は、10世紀初頭をもってその実質を失っていた。8世紀前半における「日本国」政府は、この制度の完遂に強烈な意思を持って臨んでいたが、前提となる水田総量がまったく不足していた。そこで海民に水田を与えて農民にする努力等をしたが、無理なものは無理であった。実際「日本国」が貢納させていた租は収穫の3%でしかなかった。しかし、その一部は出挙といわれる利稲付資本として百姓に貸し付けられ国の財政を支えていた。
実際、都の政府に貢納された調・庸の中には米は殆どなく、多様な品目の物資(塩、鰒、堅魚、鮭、海鼠、烏賊、海藻、鉄、鍬、木器、焼物、紙、等々)が含まれていた。それらは成年男子の負担で運ばれた。つまり百姓はさまざまな生業に携わっていたのであり、水田耕作をする農民ではなかったのである。
天皇は、帝国の首長と神聖王という二つの顔をもっていた。このことは律令に規定された、水田の基礎とする税制とは別に、天皇に海の幸、山の幸の初尾を捧げる贄の制度があったことから覗える。つまり、天皇は律令制度を国制とし、水田を基礎とする中国大陸風の帝国の首長という一面と、太陽神を祖先とする神の子の子孫であり、自らも神の子として人民に臨む「神聖王」としての側面を持っていた。天皇は「無主」の山野河海、境界領域を支配し、そこを生活の舞台とする人々、海民や山民、後には遍歴する商人を直属させる神聖な存在でもあったのである。

3 「日本国」と列島の諸地域

列島の諸地域の特性を考えるときには、とくに半島と内海(うちうみ)、そして山と川の役割を十分認識する必要がある。内海(うちうみ)は河川を通じて、列島の脊梁をなす山脈の山岳地帯に繋がり、その山の世界には川の道、山の道があり盆地とも繋がっていた。列島の地形は、極めて多様な小世界を各地に形成させており、しかもその小世界は河海を通じて開かれていた。この小世界[27]には、「それぞれの自然に即した有力者、海の領主、平野の領主、山の領主など」が存在していた。
「日本国」による画一的な国制は、この国家の強烈な意思によって、約100年は継続した。しかし、列島諸地域の個性はそれによって窒息するどころか、むしろ国家支配による刺激を得て更に強靱になり、国家の規制が弱体化しはじめた9世紀後半には、それぞれの地域が独自に動き始め、「日本国」は分裂する気配を見せ始める。
9世紀末から10世紀にかけて、「日本国」の東部では騎馬の「群盗」が横行し、西部では瀬戸内海を舞台とする「海賊」が蜂起するという騒然たる状況が生じ、10世紀前半、西では(瀬戸内海の「海賊」)藤原純友の大反乱、東では平将門が自立した国家を建てるに至った。将門は武力による新国家樹立の拠り所を北東アジアにおける契丹国による渤海国制圧に求め[28]、本州東部全体を支配下に入れようとし、常総霞ヶ浦から東京湾、相模湾にかけての河海内海(うちうみ)を掌握し、馬のほかに独自な製鉄技術[29]に裏付けられた武力を持って、王権として「新皇」を名乗り、西の「本天皇」(=「天皇」)に対峙した。この国家は将門のあっけない戦死によって2ヶ月で滅びたが、列島西部を地盤とする「日本国」とは、その設立の意識が著しく異なっていた。将門の国家がもう12年続いていたら、純友の大蜂起と相俟って、京都の王朝が消し飛んでも不思議ではなかった。ともあれ、東の王権を樹立した影響は後年の列島東部社会の歴史に強い影響を残した。
純友の大蜂起には、直ちに独自国家を形成しようという動きは見られない。だが、ここでは、瀬戸内海から東シナ海につながる、海を媒介とした東アジア世界のダイナミックな活動が覗える。910世紀にかけての「日本人」「新羅人」「高麗人」「宋人」と呼ばれる人々によるその様な交易活動は、平安朝の弛緩した「日本国」の枠を超えていた。
東北においては、10世紀頃から、自立した政治勢力の形成が始まった。それはアイヌ世界を媒介とする交易[30]の利益を背景に、11世紀以降東北南部をも巻き込みつつ、安倍氏・清原氏から奥州藤原氏へと至ることになる。東北の政治勢力の見方には、京都王朝の出先から独立国家に至るまでさまざまな見方あるが、西日本からの影響も大きかったとはいえ、「やはり北方の世界を背景に「日本国」に抵抗し抜いた東北人「蝦夷」の伝統を、これらの政権が継承していることは間違いない。」
1012世紀には、南方においても生産活動や海を通じた交易活動(海賊とも呼ばれるが)において新たに活発な動きが始まっていた。例えば、女真人「刀伊」は北九州に襲来し、「宋人」商人の活動は博多や太宰府は言うに及ばず、日本海の若狭や越前、また南西諸島にまで及んだ。沖縄諸島や薩摩半島の持躰(もったい)(まつ)遺跡や沈没船遺跡からの、大陸製の青磁・白磁等々の遺物はそれらのことを物語っている。「11世紀以降の列島西部における摂関家、院、平家の動きはこうした状況を背景において、はじめて理解することができる。」
12世紀に入ると、「日本国」は、新たな分裂の「危機」に直面する。それは、伊勢の海の世界から姿を現し、純友の伝統を継承し、西国の内海を基盤とする独自な政治勢力「西国国家」の樹立を目指していた清盛が率いる平氏の勢力と、清盛が、400年続いた平安京を放棄して「西国国家」の都に相応しい「福原」に遷都したその時(1180年)に、以仁王の「宣旨」に応じて兵を挙げ、最初の東国西国戦争に勝利して、鎌倉の政府を樹立した源頼朝が率いる源氏の勢力と、この二つの勢力への分裂である。
東国の王権としての頼朝は、すでに房総の平忠常の乱や東北の前九年・後三年の役を通して、11世紀頃から形成されていた源氏の地盤を基礎にして、「日本国」自体を軍事的な実力の下に置く方向に動いていった。平氏を瀬戸内海において滅ぼし、四年後には第三次関東・東北戦争に勝利し(奥州藤原氏滅亡)、北は外の浜(陸奥湾)から南は鬼界島にいたる「日本国」全体の総追捕使・惣地頭の立場に立つこととなった。「日本国」は分裂しなかったが、統治権を分割する二人の王、二つの「国家」の対峙する構図が出来上がり、その後1221年の承久の乱(後鳥羽上皇vs頼朝。東国・西国戦争)において東国が勝利することで、この路線は軌道に乗った。

地域呼称の由来
例えば関東、関西、中国、四国、九州などの地域名は、「日本国」が分裂の徴候を見せ始めた頃にその起源があるものが多い。そのことは、その地域が政治的・社会的に自立していく動きを象徴している。
「奥羽」は、陸奥・出羽に独自な政治勢力が出現した11世紀以降、「板東」とは区分されたが、地域呼称として定着したのはおそらく15から16世紀頃ではないかと思われる。
「関東」は「板東」と同じく畿内・京都に視点を置いた呼称で、いわゆる「三関(さんげん)[31]の東の地域を指していたが、鎌倉幕府成立後はその直接の統治権の及ぶ範囲[32]の広域地名となっていた。「関西」の呼称は「関東」という呼称に対して現れた語であって、「関東」「関西」という地域呼称は「東国」「西国」と同様に「日本国」の中に、西の王権天皇と東の王権将軍という、二つの中心が出現したことを明示している。
「九州」、「四国」は独自な広域的地域と捉えられており、その傾向は東西王権が並立する時期よりはっきりと現れてくる。京都からの視点で呼ばれていた「鎮西九カ国」が「九州」と定着したのは、元寇以降鎌倉幕府の統治下に置かれたしばらく後の室町幕府になってからである。「四国」の場合には統括する行政・裁判機関がおかれることがなく、地理的に瀬戸内海と太平洋分かれるので、九州と比べると自立の度合いは弱いが、九州も四国も、その呼び名が、九州は「宇佐宮」、四国は「遍路」「巡礼」のような神仏との関連において出てくることが多いことは注目される。
「北国」は、もともと日本海の海上交通の中心的地域としての特質を持っていたので、敦賀を役所として置かれたモンゴルに対する警固番役が永続的に行われるなどすれば、自立した地域となったであろう。
「中国」という地域名称は、第一次モンゴル襲来(1274年)後に設置された、瀬戸内海沿岸の守護を超える権限を持つ「長門・周防探題」が後年「中国探題」と呼ばれたことが契機となっているとしても、山陽・山陰の広域にわたる地域名称となったのは、畿内と九州の中間地域とする意識のためではないかと考えている。

14世紀に入ると、「南北朝の動乱」の中で、東西王権の四分五裂が顕在化し、さらに「日本国」の枠を超えた海の領主・商人達の「倭寇」と呼ばれた活発な動きも顕在化し、「日本国」自体が動揺し始めた。
15世紀初頭には、将軍足利義満は明の皇帝の冊封を受け「日本国王」となるとともに、天皇位の簒奪を企図したが、本人の死により実現しなかった。15世紀以降の日本列島は、こうした「日本国」の権威と権力の動揺の中で激動期を迎えることになる。自立し始めた各地域を、有力な守護大名[33]があたかも「総督」のごとく支配する状況が進行した。
室町公方、鎌倉公方はこれらの有力な大名の合議に支えられる一方、明との貿易を始めとする「重商主義」的な政策によってしばらくは安定を保ったが、各地域の自立的な動向は更に顕著になり、鎌倉公方の討滅、室町公方(将軍)の暗殺などが相次ぎ、ついに起こった全国動乱(東国の享徳の乱[34]、西国の応仁の乱[35])の渦中で、天皇はもとより将軍の権威も地に落ち、15世紀後半以降、「日本国」は文字通りの四分五裂の状態に突入した。
このころ、海の領主達の中には、「日本国王」の権威の低落の中で「朝鮮国王」にも結びついておこうとする動きが見られ、これは彼らの志向をよく示している。その中には朝鮮半島との関わりの深い信濃の善光寺も含まれていた。
同じ頃、列島北部においては、室町将軍から「日本(ひのもと)将軍」という称号を与えられた安藤氏と推定される「蝦夷千島王」を称する人物が朝鮮国王に使者を送った。その後北半島に根拠を置く甲斐出身の豪族南部氏が安藤氏を打ち負かして北方の戦国大名となっていく。北海道においては、1457年のコシャマイン率いるアイヌとの戦いに勝利した、若狭武田氏の流れを汲む蠣崎氏など、本州人の館主達は、アイヌとの緊張関係を保ちつつも、アイヌとの交易に支えられて、道南に独自な世界を開いていった。
こうして 16世紀にかけて、日本列島の各地域には、琉球王国が「日本国」と並立するとともに、有力な戦国大名が独自な法と支配組織を持つ小国家を形成して相互に抗争する騒乱の時代が始まる。現代日本人の地域意識の直接の原点は、この時代の英雄に求められることが多い[36]。かれらは地域の期待を担って活躍するが、大名をはじめ、この時代の人々は必ずしも日本国にこだわっていなかった。
実際、16世紀の頃の後期倭寇は王直[37]に代表されるように、九州から中国大陸、朝鮮半島の人々までを広範に含み、東シナ海を舞台に極めて広域的に活動しており、いわゆる「大航海時代」の人と物の流れの中で、日本列島の多くの人々が東南アジアからアメリカ大陸まで活動するようになっていたのである。戦国大名達も、西国だけではなく東国においても「日本国」の枠を超えて世界の諸地域との独自の交流を更に深めていた[38]。この時代、「日本国」が分解し、「これまでとは異なったありかたの国家が生まれる可能性も十分にあり得た、といってもけっして過言ではない。」
しかし、長い歴史を持つ列島・大陸・半島のそれぞれの国家は、こうした海を基盤とする独自な秩序に対して、「海禁」の政策を持って臨み、これを抑圧しようとした。日本列島においては、四分五裂になった「日本国」再統一の動きは16世紀半ば以降顕著となり、織田信長によってその課題の達成に向かって大きな一歩が踏み出された。豊臣秀吉は「海禁」を推し進めるとともに、天皇の権威を背景にして、武力による「日本国」の再統一を実現した。この新たな「日本国」の成立に国民国家形成の端緒を見いだそうとする見方があるが、これは十分根拠のある見解と言うことができる。そしてそれを可能にした背景には、社会の中において、「日本国意識」の広がりがあったことは間違いない。
とはいえ、確立当初の「日本国」の自立と侵略の伝統は、正負ともども、この「日本国」に継承されていた。世界の中で「日本国」の自立は確立したが、同時に「世界帝国」を目指し、実際に朝鮮に対する侵略を強行して朝鮮・明の連合軍に完敗した。この豊臣氏を滅ぼして「日本国」の支配を継承した江戸幕府は、「海禁[39]」をしつつ国内の充実を図り、17世紀後半、北海道南部の海辺、本州、四国、九州、そして島津氏が琉球王国から奪った奄美大島までを領土とする「日本国」が軌道に乗った。しかし、この国家の下にあっても、列島東部と西部の社会の根深い差異、長い伝統を持つ諸地域の個性はけっして消え去ったわけではなく、平安末期以降、江戸時代に至る日本国の国制にも、その際、個性ははっきりと刻印されていた。

4 列島諸地域の差異

東国と西国の二つの王権は、「日本国」の国制によって定まった国郡制の機関を行政機関として、「荘園公領制」[40]を基盤として徴税を行っていた。統治権が東国と西国に別れた二つの王権が並立しても「日本国」の分裂に至らなかった理由はここにある。しかし、徴税単位、領主のあり方、年貢の品目など、この制度の内容において、東国と西国社会の差異や各地域の「日本国」に対する関わり方の違いが現れている。

荘園公領制における東西の相違
徴税単位について言えば、東北・関東などの東国、九州中南部については、令制[41]の郡から転化した郡・条・院などが基本単位となり、それ自体が荘となる事例が多く、従って規模も大きい。これらの内部は、多くの郷・村で構成されているが、村は国郡制外の単位[42]であり郷は平安末期に新たに設立されたものであった。九州中南部を除く西国においては、郡は徴税単位としてあまり機能せず、古代以来の郷[43]が生き続け、それが荘園となる場合が多く、従ってその規模は小さい。さらに国衙の現地役所のいろいろな役職を世襲する在庁官人などの領主や細工所[44]直属の職能民達の給与とか徴税を請け負う田畠を、郷から分け出して(みょう)あるいは()という単位で固定する場合も多かった。この(みょう)あるいは()が、東国では国衙の近傍だけなのに対し、西国では散在しているのが普通であった。従って、西国で()が荘に転化したときには、荘の中において田畠が散在することになった。
西国においては、平民百姓同士や侍身分の人々の間の横の繋がりが強く、荘における「(しき)の重層的体系」などと呼ばれる、職務分担と補任関係の重層した関わりにおいて、それぞれの取り結びによる支配・管理が行われていた。それに対して東国においては縦の繋がりが強く、郡・荘については、京都周辺に居る本家・領家とは別に、その国において有力的な領主が郡司・郡地頭となってその国全体を請負い、郡・荘には自らの一族を、主従関係を通じて配置し管理していた。戦陣に加わるときも、東国の郡地頭は総領としてその一族や従者を動員した。東日本は同族結合、西日本は年齢階梯制であると言えるが、それは、村落、家族の形態の差異によるものと思われる。もう一つ、東国と西国の差異をくっきりと浮かび上がらせるのは、荘園・公領の年貢である。まず、年貢は米で、山野河海の産物や手工業製品が公事[45]である、という通説は「日本国」令政に由来する思い込みであり、誤りである。荘園・公領の年貢は、その地域の特産物、「土産(どさん)」といわれる極めて多様な物産であった[46]。そして、東国においては米の年貢は例外的であり、西国においては米年貢が顕著である畿内付近においても米年貢は多く見ても40%を超えず、圧倒的とはいえない。「荘園公領制はその制度自体に交易を内包し、それを前提として成立していたのであるが、水田を中心とした「日本国」の制度がその実態をおおいかくし、「自給自足経済」「米年貢」という虚像が広く世に行われるという誤りを生み出しといわなくてはならない。」

貨幣などの交換手段にも地域的な特色があった。「皇朝十二銭」[47]の流通は平安時代後期には見られなくなったが、その代わりに西では米が、東では絹・布が貨幣として流通していた。12世紀に入り厖大な量の宋銭が輸入され始めると、東国では13世紀前半までにこれが絹・布に取って代わるようになる。西国では13世紀後半以降、ようやく流通し始めるが、その後も米を価値基準とする意識は社会に生き続けていた。15世紀になると明から洪武銭、永楽銭、宣徳銭などが輸入されるようになるが、大内氏の領国あたりからそれらの通用価値が下落しはじめると、西国では16世紀後半には一時期米が交換手段となった。これに対し東国では16世紀に半ば頃には、永楽通宝に高い通用価値を認める意識が生まれ、おおよそ伊勢以東の地域では、永楽銭を基準通貨とする独自の貨幣体系が成立したといわれている。豊臣秀吉から江戸幕府にいたる「日本国」再統一の後にも、西国の銀、東国の金のように、銭貨の地域的差異は解消されず、石高制が採用され、永楽銭の流通が公的に禁止された後においても、東国では永楽銭を意味する「永高」「永」はたやすく消えなかった。
156世紀の「日本国」の社会は、極めて活発な商品・貨幣流通の展開する社会であったが123世紀の荘園公領制の形成期においても年貢納入には交易が前提とされていたから、市庭(いちば)における交易も活発であり、そこにはさまざまな職能民(手工業者、商人、芸能民など)がいた。これら専業の職能民のあり方、これに対する国家の制度もまた東国と西国では大きく異なっていた。
西国の職能民集団は、人の力をこえた聖なる者としての神仏、天皇と結びつき、神仏の権威を背景に特権を保証されていた。また、次第に乱用され始める特権の拡大を防ぐ措置も講じられた。これは、土地制度としての荘園公領制とともに、王朝を支える組織・制度と言える(神人・共御人制[48])。注目すべきは、この職能民集団には非人の集団も属していたことである。興福寺・春日社の寄人、神人として、都市的な場の末宿を組織し、穢の払いや葬送を職能とし、「乞庭(こつば)」と呼ばれた縄張りを保持して乞食を行っていた。また、河原人、河原細工などと呼ばれて弊牛馬の皮の細工、土木などに携わっていた職能民が、祇園社、北野社の神人、寄人となっていた。
東国の鎌倉幕府は、職能民が自由な立場で幕府の機関の必要に応じて活動することを保証しており、彼らの主だった人々は将軍家や守護などによって特権を保証されて活動を展開していた。東国では多様な職能民が活動していたが、彼らは神としての天皇はもとより、神仏との結びつきを持った形跡を見いだすことはできない。確かに、例えば鹿島社のような大社には神人が居たが、それが職能民の組織であったとは考え難い。
従来、東国は「後進地域」であり、商工業が未発達で商人・工人も未分化であると言われてきたが、それは誤りであることが明らかにされてきた。

西国における職能民

西国における職能民は、もともとは律令国家政府の諸官司に所属していたが、国家の弛緩、弱体化と共に、自立した職能集団として、例えば蔵人所[49]に属する鋳物師(いもじ)集団などとして独自に活動していた。11世紀の後半になると、こうしたさまざまな職能集団は、それまでの歴史を背景に、天皇家、神社、寺院と結びつき、職能に即して神としての天皇に奉仕する()御人(ごにん)、神仏に直属する神人(じにん)寄人(よりうど)などの称号を与えられ、課役や通行税の免除など、平民百姓特別された特権を保証され、それぞれの「芸能」を営み、中には広域的に遍歴して交易に従事する集団もあった。これらの職能民は「木工道」「博打の道」など、それぞれに「道」をもっていたので「道々の者」と呼ばれ、また「職」を有する者として「職人」とも呼ばれ、「内財」に対して「外財」「外才」を身につけた人々といわれていた。これらの職能民集団は実に多種多様にわたり、活動内容も物作りから金融・廻船人まで幅広く、活動範囲も西国全域に及んでいた。
12世紀後半になると、人の力をこえた聖なる者としての神仏、天皇と結びつき、神仏の権威を背景に特権を保証されていた職能民の中に、特権を武力で貫徹する者や暴力的手段による債権の取り立てを行う者などが目立ってきたため、その増加を抑えたり、名簿を作成させたりするなどの措置を講じた。

東国と西国との職能民に関わる制度の差異は、各々の王権を支える社会そのもののあり方の違いを浮かび上がらせる。西の王権は、神話の神々の世界と結びついた天皇、それと不可分の神仏によって成り立っているのに対して、東の王権は世俗的な武人の首長なのである。このことは、武士の捉え方に対する根深い対立にも関係している。武士を「殺し」を芸能として天皇家、寺社等に仕える職能民としてとらえる見方と、社会自体から生まれた「武士団」といわれる社会集団としての軍事組織とする見方の対立である。それは東西の社会における武士の存在形態の相違に基づくものであろう。
また、東西の王権の差異は、社会の根底にある習俗、宗教の違いにも起因する。これはなお広く深く研究が必要な大きな問題ではあるが、当面次のことがいえるだろう。西の王権は顕密寺院の仏教[50]が支えていたが、東の王権は禅宗に支えられていた。

関東の日光はアジールだった

東国における守護神は地元のそれだけではなく、平将門が「新皇」に即位したときに託宣を下した八幡神であり、そのさいに位階を伝えたのが京の王朝の反逆者である菅原道真の天神であった。東国社会では独自の神に対する信仰と体系を形成しており、頼朝の巻き狩りによっても知られるように、狩猟を通じての山野の神々との交渉も西国とは異質であった。狩猟と深く関わる日光山は、東国の王権と早くから結びつきを持っており、永京の[51]乱の際には、鎌倉公方の子供は日光山に入って命を保った。聖地日光山がアジールだったのである。日光と東国の王権との不可分な結びつきを明確に制度化したのは江戸幕府であった。

鎌倉も江戸も早くから要津として都市的な場が展開していた

ここで、これまでの誤った歴史観を一つ指摘しておく。それは、「東国の都」の置かれた地域を「貧しく未開な漁村・農村」という見方は、畿内・西国こそ先進地帯と思い込んでいる「ヤマト中心史観」の誤りである、ということである。鎌倉については、「吾妻鏡」の記述が頼朝の事績を際立たせるためであることが明らかにされ、じつはこの地は鎌倉郡の郡衙所在地であり、早くから要津として都市的な場が展開していたのである。江戸についても同様であり、この地は関東の河海の世界、東国の交通の要衝であり、遅くとも平安後期には都市的な集落となっていた。

東国と西国の社会、習俗の差異は「被差別部落」のあり方の違いとしてもはっきりと現れている。西国において11世紀後半に出現してくる非人、河原者と呼ばれる職能集団は、史料において東国には殆ど見当たらない。これは東国では神人・共御人制が及んでいないこともあるが、穢に対する対処の仕方にも起因する。13世紀末以降、畿内・西国では、それまでは畏怖の対象であった「穢れ」への嫌悪感が強まるとともに、その「清目(きよめ)」に携わる非人、河原細工丸にたいする、社会の一部からの賤視が表面化し、ついに「()()」という明確な差別語まで登場する。156世紀頃になると、非人、河原者たちが自らを「人非人」「賤しき者」と言い始め、差別の進行、定着は否定しがたい動きとなった。
東国において被差別民がはっきり姿を現すのは、まだ検討の余地はあるが、江戸時代に入ってから、将軍綱吉の時代に生類憐れみ令や服忌令(ぶっきれい)[52]を定めるような動きの中で「穢多」「非人」が身分として固定されたことによる。しかし、西日本に比べて東日本の被差別民の人口は少なく、被差別部落もはるかに少数である。日本国の国制の下にあった地域には、濃淡はあれ、すべて被差別民は存在するが、その呼称はさまざまであり、江戸時代に制度化された呼称「穢多」「非人」が通用しているわけではないし、それに対する意識も異なっている。近代まで国制外であったアイヌ、沖縄には被差別明自体が居ない。東西における被差別民に対する意識の差異は社会自体の体質に起因する。この違いを「先進」「後進」の違いと考え、「社会的分業の未発達」な遅れた東日本には、被差別部落の発生する余地すらないとする見方があったが、それは誤りであり、
室町・戦国期から江戸時代にかけて、職能民の持ち伝えた自らの職能の由緒や特権を語る伝承もまた、東国・西国、九州など地域によってそれを裏付ける権威が異なっている。大体において西国は西の王権の天皇及びその伝説上の祖先、東国と九州は東の王権源頼朝に権威の源泉が求められている。

「連雀商人」の「連雀」は自由の象徴か、それとも差別の対象か

中世の史料「商人の巻物」には、千躰櫃を背負って各地を遍歴する商人「連雀商人」が登場する。東国各地の城下町には、その大手近くに開かれた市の伝統を受けて、「連雀」という地名が今も多く残っている。連雀商人が背負っている荷物は無税であるとされ、その荷物は「自由の象徴」であった。一方、中世の京都の寺院関係者によって著された「貞観政要格式目」では「差別戒名」の置き字として「連寂」が用いられており、この考え方は次第に関東にも浸透してきた。この違いもやはり、東西社会の体質の差異に淵源している。

東国社会と西国社会の体質の差異は戦国大名のあり方にも明確に現れている[53]。東国の大名は充実した行政制度を持ち、積極的に命令や掟を出しながら強力に支配するのに対し、西国大名は戦功を褒賞し、称号を与えるなど、家臣との繋がり・絆を重視する統治を行った。これは前述した東国の同族結合、タテ社会と西国の年齢階梯制、ヨコ社会にも照応している。
「これまで述べてきたように、平安後期以降、16世紀に至るまでの列島社会の歩みは、「日本国」の姿自体が明確でないほどに多様且つ流動的であり、列島外の動きとの関わりで「日本国」が分裂し、雲散霧消する可能性もけっしてなかったわけでは無い。」
「アジア・太平洋戦争での敗戦後、もしも北海道、九州、あるいは東日本と西日本などが分割占領され、冷戦下で朝鮮半島のようにそれが50年以上続くことになれば、この列島に二つ以上の国家はもとより、言語・文化も異なる二つ以上の「民族」の形成される可能性も、けっしてないとはいえない。列島内部の地域差はそのくらいの言語や生活文化に及ぶ深刻さを持っていることを、われわれは十分に知っておかなくてはならない。」
「そうした事態が現在まで現実化しなかった理由には、さまざまな偶然の作用していることを考えておく必要があるが、海という柔らかな障壁が周辺地域の政治的激動に対する緩衝の役割を果たしたことは間違いないといえよう。しかしそれだけでなく「日本国」の成立後、その国制とともに社会の中に。「日本人意識」とでもいうべき意識が、虚像をも含めて形成され、社会に広く浸透していたことが、分裂の要因をはらむ社会の再統一に当たって、これを支える基盤となったことは否定し難い。そうした「日本人意識」のどこまでが実像で、どこまでが虚像であるのかを、ここであらためて考え、あきらかにしておきたいと思う。」

5 「日本・日本人意識」の形成

「日本国」「日本人」の自己意識は、外交文書などの異国を意識した文書以外で多く現れる文書は、異界に対するものである。例えば神仏に対して何事かを宣誓する起請文の末尾に付された天判(てんばん)祭文(さいもん)(通称は神文(しんもん)[54]の中に現れる。
鎌倉時代に入る頃には、日本国の国制、行政制度についての認識は、僧侶や侍のみならず、百姓や女性にも及んでいた。そのことは起請文の世界だけではなく、少なくとも名主として年貢・公事を請け負い、「沙汰」する立場に立つほどの百姓の残した文書からも覗える。彼らは文字の読み書き、数字の計算能力、社会、「日本国」についての必要な知識を身につけていた。こうした知識が文字を通じて社会に浸透していたのである。
123世紀頃のさまざまな古文書には「日本第一の・・・」という記述が沢山見られ、「日本」全体に対する認識が、少なくとも百姓の上層の男女にまで及んでいたことが分かる。これらの知識は、活発な流通、交通を通じた情報がもたらしたものであり、当時の社会も「自給自足経済の上に立った農業社会」などではなかったことを物語っている。
中世の古文書において、異国と「日本」を対照させる際に、「日本」を「和州」「和国」、あるいは「大和」「倭」「和」と表現する場合がしばしば見られる。また、「和朝」「大和(倭)絵」「(やまと)歌」などの表現も多い。13世紀までに社会に広く認識されるようになった「日本」(という言葉)が「大和」(という言葉)と不可分であるという意識をも同時に浸透させていた。それは、例えば「大和民族」という言葉のように、排他的、差別的感覚の浸透[55]でもあり、「日本」が「神国」として「大和」に結びついた「天皇」の国であると言う認識の浸透でもあった[56]

日蓮の「日本」認識

日蓮は西方や北方の対外事情についての情報を入手していたと推測され、「他者」に対する強烈な意識と危機感の中で、この危機に真に対応しようとしない「日本国」の在り方に対する厳しい批判を通じて、「神国思想」を超えて「日本国」を「釈尊領」と言うまでになっていた。その意識は、『鎌倉遺文[57]』において、12751279年までの2040通の文書の中で「日本」の語が用いられた文書が91通あるが、そのうち日蓮の書状は78通ある、ということにも現れている。日蓮は、第一次蒙古襲来を予言し、「日本国」の「敗戦」によってはじめて「日本」は救われるとしており、この時期、これまでの『日本書紀』を基本とする「日本国」の常識的な捉え方を大きく変える可能性が生まれつつあった。現実は偶然の天災によって幸いにも元軍は撤退し、日蓮の予想した方向には進まなかった。著者は言う「とはいえその偶然の「幸」の結果、「日本人」が「日本は神国」という認識を乗り超え、現実を直視する絶好の機会を失ったという結果の、その後の「日本人」にもたらした「不幸」もけっして小さくない。」

「日本」についての認識が社会に浸透し始める平安後期頃から「日本国」の範囲を示す表現が見られるようになる。最も早い事例が『延喜式』で東方陸奥、西方遠値(おぢ)()、南方土佐、北方佐渡の外に疫鬼を追い払うというような表現がある。15世紀に入る頃になると、例えば「香川名字日本国一円」などと言うように、「日本国一円」という捉え方が、具体的な実態に即して、普通に用いられるようになる。これは遍歴する人々が「日本国一円」に及んでいるとともに、同じ名字の人々の間に結ばれる一族関係の絆もまた、「日本国一円」に広がっているという事実を背景にしているとみて間違いない。16世紀後半に作成されたと推定される「今堀日吉神社文書」には、近江商人たちは「東は日下(ひのもと)[58]、南は熊野の道、西は鎮西、北は佐渡嶋」の範囲を自由に往来することができる、と言う記述があるが、おそらくこれが中世末期の「日本国」常識的理解であったろう。

第四章 「瑞穗国日本」の虚像

1 「日本は農業社会」という常識

農業・農民に関する、日本史教科書の平均的記述

高校の日本史:弥生文化とともに稲作が本格的に列島に流入すると社会は水田中心の農耕社会となり、それを前提として班田収受の制度によって水田を与えられた「班田農民」を基礎とする律令国家が成立する。そして水田の開発が進行し、形成されてくる荘園は有力農民の経営する名によって構成され、全人口の80パーセントを占める農民は、耕地を持ち年貢を納める本百姓と、耕地を持たない貧しい水吞百姓に分かれ、年貢は収穫の40から50パーセントを米で納めたと記述されている。

中学の社会科:江戸時代の農民は「自給自足の生活」であったとされ、ようやくこの時代の後半になって、農民の商品作物の栽培や漁業・工業・織物業などの記述が現れる。そして農村への商品貨幣経済の浸透に伴って年貢の重圧の下に困窮に陥った農民はときに百姓一揆を起こし、半面、地主や商工業者の発展の中で次第に幕府の支配は動揺しはじめ、開国、倒幕を通じて、封建的な社会の「一新」を目指して明治政府が成立し、これ以後、日本は急速に工業国となり、産業革命を達成するとされるのである。しかし農村は地主の支配下にあって貧しく、敗戦後の農地改革によってようやく農民は自らの土地をもち、農業生産が高まったと言われているのである。

従来の研究者が前近代の社会を基本的に農業社会と考え、百姓は農民、あるいはその大部分は農民とみて、社会の構成を考えてきたことは否定しがたい事実であり、それは歴史教育に現在に至るまで決定的な影響を与え続け、「瑞穗の国日本」のイメージを日本人に深く植え付けてきたことは間違いない(しかし、それは基本的誤りである)。
このような先入見の基となった政府の公式統計がある。明治政府の壬申戸籍[59]の職業別人口統計である。この統計を基にした職業別の人口比率が1966年に研究者によって出され、「農」78%、「工」4%、「商」7%、「雑業」9%、「雇人」2%、であった。この結果は、先の先入見の裏付けのように見える。しかし、具体的に現地に赴いて調べてみると、「農」は農民ではないことは明確であり、またその様な誤解を生む区分なった理由も見えてきた。

愛媛県二神島の「農」の実態

著者は、二神村の、江戸時代後期から魚を商い、手広く交易に従事していた、村上水軍の流れを汲む村上家を訪ね、そこに残された、明治五年の壬申戸籍の草稿本を調べたところ、129軒の全戸が「農」と記載されていた。しかし、ここは典型的な海村であり、農業の比率の方が少ないのは明らかであった。
中世を通じて「海の領主」として活動し、江戸時代には代々庄屋を務めた二神家に伝わる文書によっても、この島の百姓たちが漁労、山海物の交易、商業・運輸などによって明らかであり、「天保郷帳」(1834年)による石高は83.177石で、先の129軒で割ると0.64石に過ぎず、農地面積の0.64反であり、これでは暮らせない[60]。また、明治11年に編纂された「伊予国風早郡地誌」(『中島町誌史史料集』)によれば、二神島は127戸のうち「農」が100戸、「漁労」207戸となっているが、一方、船の数は200[61]未満50石以上が八艘、50石以下の商船四艘、漁船九十六艘であり、「農」に分類された人々は農業よりは商業・運輸などに従事していたと推定されるが、この統計も壬申戸籍の影響が及んでいるのだろう。

山梨県は統計上「農業県」!

山梨出身の著者には信じられない明治政府の統計があった。明治7年に山梨県令藤村紫朗が内務卿大久保利通に当てて報告した、管内の戸籍に基づく総計、等を詳細に記して具申した、公式集計表である。それによると、山梨県全部についての「農」は88.8%で全国平均の78%より大きく、更に山梨県内で比較しても山と川とわずかな耕地しかない都留郡のそれは94.8%であった。都留郡について、「天保郷帳」(1834年)による石高の国内比率は7.5%、壬申戸籍による県内の戸数比率18%であり、「農」比率を上記藤村報告書とすると、都留郡は山梨の中での極めて貧しい地区と言うことになる。しかし実態はまったく異なっている。ここは甲州街道交通の要衝であり、宿が発達し富士参詣の御師(祈願の仲立ちをする職能民)の集住し、農作物については米を採る田は無く麦・粟・稗などの畠地だけであるが、煙草を作り、柿を育て、男は富士山に入って馬の鞍を作る「ほた木」を伐って売り、女は麻布、紬を織るとともに、盛んに養蚕を行い、良い年には金百両もの収入になったと言われている。

壬申戸籍のように、まったく偏った職業別人口統計を政府が公式に作成することになった、直接の理由は簡単である。明治政府が、江戸時代には「士農工商」という基本的身分制度があったからこれを撤廃すると称して、町人・百姓という身分用語を否定してこれを「平民」とする一方、百姓・水吞などは「農」とし、町人は「工」と「商」に区分けした。その結果、虚像としての職業区分である「士農工商」が創出されたのである。
「「士農工商」は果たして江戸時代の基本的身分制度なのか。「百姓は農民」という、現在もほとんど誰一人とも疑っていないともいえる「常識」は真実なのか。「日本」の社会の実態を真に正確に捉えるためには、まずこの疑問から出発する必要がある。「日本は農業社会」という常識が本当なのかどうかを、徹底的に追求しなくてはならない。」

2 「百姓=農民」という思い込み

1990年までは、百姓が農民であることは、まったく疑問の余地のない理解として、教科書は編纂されていた。しかし、江戸時代までの「百姓」はけっして農民だけでなく、極めて多様な生業を営む人々が含まれていた。著自身も20年ほど前までは、江戸時代の百姓は農民であると認識していた。しかしその誤りは、能登の時国家の文書を丹念に読み進めている過程においてに気付き、またそれは能登だけの事情ではないことも明確になった。
「百姓」のみならす、「水吞」「頭振(あたまぶり)」等々各地で呼称される田畑を持たない無高民や、中世の名残「下人」「名子」などとよばれていた百姓の隷属民と理解されていた人々は、実は、多彩な職能民であったり、商業、運送業、を営む人々であったり、中には豪商であったりしたことが明らかになった。「村」と呼ばれていたものは、実は農業的生産に従事する人々が住む農村とは限らず、無高民の比率が高く、一軒当たりの耕地面積も従って石高も小さく、石高基準で算出されている年貢率も大きいために、一見極めて貧しいように見える河海交易の要衝地、海村などは、富裕で開かれた「都市」であった。
例えば、近年の研究により、亨保二十年(1735年)時点での、能登の河井町鳳至(ふげし)町村(現在、輪島)という「村」は621軒(人口は45千人)が住み、「百姓」と「頭振」の比率は29%71%、年貢率は88%、一軒あたりの石数は1.21石であることが分かった。ここから見えてくるこの「村」の姿は、一戸平均四反程度の百姓が29%で88%もの年貢率に耐え、無高の頭振が71%もいる極貧状態に見える。しかし、実態は非農業的生産者の住む能登最大の都市であり、「頭振」の多くは土地を持つ必要のない豊かな都市民であった。「壬申戸籍ではおそらく「農」が90%に近いとみられる奥能登が、このような実態であったということは、これまでの江戸時代像、近世社会像そのものの根本的な見直しを迫るもの、とわれわれは考えた。」

『奥能登時国家文書』(第一巻、1954年)から分かった事例

17世紀初め頃には、松前で昆布を買付、京都・大阪に運んで売却する廻船交易を行う一方、塩浜を経営して製塩を行い、これを能代などの北方に運び交易し、さらに鉛山の開発を前田家に申請していたことが判明した。同じ時期、時国家の負った借金百両の返済を援助した柴草屋という屋号を持ち、港に根拠を持つ廻船商人が、「頭振」と位置づけられていた。時国家の近くの海辺や潟湖の曾々木・港に住む「百姓」たちにも、廻船、商業、塩浜経営など多様な生業に従事する人々が居たことも確認された。「頭振や水吞はそのすべてが貧しい農民などではなく、その中には田畑をまったく持つ必要のない極めて裕福な商人、職人、廻船人も少なからず居た」のである。

上時国家[62]に保管されていた襖の下張り文書の中から分かった事例

襖の下張り文書の中から、「百姓円次郎願書」とも言うべき文書を見いだした。そこから江戸末期の時国家の円次郎の父である廻船商人円次郎が海で遭難したことで生じた借財の保証人が、出羽庄内、若狭小浜、能登輪島、珠洲郡など東部日本海沿岸地域に広く及んでいたことが判明した。つまり、父円次郎の活動範囲が分かった。尚、息子円次郎が債権者に対し、父の死後、母と幼少の兄弟を残されて苦難の生活の生活を送り・・・など「貧苦」に苦しむ状況を訴え、50年賦!を願い出ていながら、松屋円次郎の名前で二艘の船を持ち日本海沿岸で手広く商売を、しかも先の債権者で、時国家近くの百姓三郎兵衛と一緒に行っていたことは、他の史料(『新修七尾市史9 海運編』)より分かっている。「百姓」が身につけているらしい、訴状や願書を有効に作用させるためのテクニックは、子供の頃から教育されてきたらしいことは、古文書で残された、村の肝煎りとして身につけておかねばならない知識などが文例となっている手習いのお手本の文章からも覗える。
江戸末期には、上時国家は延べ五艘の廻船を持ち、そのうち四艘は「千石船」と言われる船で、所謂「北前船」の交易に従事し、一公開で二百両前後の純益を上げていた。輪島市の個人宅に保管されていた「襖の下張り文書」によって、その船足はサハリン南部にまで及んでいたことも明らかになった。
上時国家の「北前船」の船頭として、千両に及ぶ交易・取引を一任された中谷友之助という人は上時国家の「譜代下人」であり、蔵に保存されている大福帳では、田畑を借りて小作料10石を負担している「小作農民」として姿を現している。時国家の下人のあり方についての詳細な検討により、下人の多くは船頭、製塩、牛馬飼育、石工、大工、鍛冶、桶結などの多彩な職能をもつ人々で、「多角的な企業家」とも言うべき時国家の経営に即して「雇用」された人々であった。
網野先生は、時国家は厖大な文書を蔵に伝えているが、意識的に保管され、伝来した文書には田畑関係のことが圧倒的に多く、廻船・交易活動の実態は「襖の下張り文書」に多く書かれていることは興味あることである、と述べているが、ここにも日本国と日本社会との関係性が覗えるような気がする。

「能登輪島住吉神社文書」天保149月、諸商売并家内人数調理書上申帳より、泉雅博氏引用例

輪島の一部である、鳳至(ふげし)町村の天保14年(1843年)における総軒数は550軒、そのうち百姓と頭振の比率はそれぞれ15%と85%。百姓の職業は、塗師、素麺など多岐にわたり、内兼業でないのは15%(つまり85%は非農業的生産に携わっている)。頭振の職業は更に多岐にわたっているようで、塗師、鍛冶、大工等々の職人、食品や日用品の製造・販売、宿屋・髪結い・洗濯・医業などのサービス業、中には裕福な船問屋も一軒あり、日雇・奉公人などの貧民と見られる人々は26%にすぎず、農人は皆無である。
ここで、網野先生は「こうして調査を始める前にわれわれの持っていた、田畑が少なく「頭振」(水吞)が多く、「能登乞食」とすら地元でいわれるほどに貧しく、辺鄙で後進的であるがゆえに中世の伝統を伝える奥能登というイメージは、完全に雲散霧消した。それにかわって、漁業、塩業、薪炭業、林業、鉱山業、漆器・食品生産をはじめとする手工業などの多様な生業を営み、日本海の広域的な海上交通、廻船・交易に携わる商人、廻船人が縦横に活動し、海辺・河辺に多くの繁栄した都市、都市的集落が形成されている豊かな奥能登像、そうした豊かさを背景に棚田、谷田などの古い水田を大切に維持し続けている奥能登のあり方が浮かび上がってきたのである。」と述べている。

「奥能登は例外」でない事例

潟や海の埋め立て、開発の進んだ江戸時代後期はともあれ、それ以前の列島社会はその自然の地形から見て「農業社会」と考えること自体不自然である。
近世には「村」であった、大阪泉の佐野村も中世末には都市であった。例えば井原西鶴の「日本永代蔵」の最初に現れる、「唐かね屋」食野氏は和泉の百姓であった。また佐野浦や周辺の海民は漁労のみならず廻船交易、商業に携わっていた。
九頭竜川の河口にあり、中世以来、越前の重要な港町として知られていた「三国湊」も、元禄12(1699)における全体の惣家数1039軒のうち「雑家」が64.3%、船は「北国大船」五艘を入れて五十四艘を持ち、半年間に二千二百艘が来港していたにもかかわらず、「村」として扱われていた。
江戸時代の隠岐は孤立した貧しい村などではなく、海上交通の要衝として多くの船の出入りする活気に満ちた地位であった。そこでは「間脇」の比率が高い集落は都市的な性格の色濃い場と見ることが出来る。
出羽の大石田は最上川舟運のいわば終点として繁栄し、その町並みは川沿いに並行した何本かの道の両側に短冊系の地割りを持つ家が並んだ典型的な集落だが、江戸末期に、その住人はわずかな百姓と水吞、それに多くの「名子」から成り立っていると報告されている。

無高民に関して注目すべき点がある。それは、彼らの呼称が被差別民の呼称と同様、地域によって異なる点である。天領では「水吞」、加賀・能登・越中の前田領では「頭振」、越前では「雑家」、萩藩領では「(もうと)」(亡人)、伊豆では「無田」、隠岐では「間脇」、と呼ばれている。「水吞」「頭振」の語源は明らかではないが、他の語にはマイナスの評価が含まれており、そこに江戸時代の石高中心の制度「農本主義」が作用している。
では、近世における農業の社会的比重の実像はどうだったのだろうか。明確な答えは難しいが、長門国の萩藩、毛利家の編纂した地誌など諸史料を基に考察・算出した結果、農業を穀物の生産量とすると、40%台であろう。これは中世、古代に溯っても同様であろう。
古代から近世に至るまで、「百姓」は少なくとも公的な制度の上では文字通り「普通の人」であり、農業に従事する人は百姓と呼ばれていた人の一部に過ぎず、その農業に携わる人々は、水田で作る米と畑で作る穀物を併せてもせいぜい40%台であって圧倒的比率とは到底いえなかった。それなのに現在の日本において「百姓が農民」である思い込む理由な何であろうか。この「誤解」の根源を本当に突き詰めるのはたやすいことではない。おそらくその出発点は「日本国」の成立そのものに溯る(が、それだけではない)。
古代から中世にかけては、律令国家としての「農本主義」とそれを税制として引き継いだ荘園公領制のもとで、自ずと農業以外の生業に携わる人々や租税負担者でない人々は公的な制度の外に置かれることとなった。しかし、古代においては、令政の外の制度であるとは言え、海民・山民からの天皇への贄・菓子の貢献が行われており、こうした人々を社会的に排除、阻害することは全くなかったといってよい。中世においても、当時の国衙が百姓の営む多様な生業や職能民を広く網羅的に掌握しおり、国司は「百姓」を農民などとはけっしてとらえてはいなかった。
13世紀に入ると、無高民をマイナスに評価する意識が生まれてくる。田畠を持たずに屋敷だけ持っている「在家」の百姓である「在家人」は、相論[63]や資格[64]において不利となるとか、田畠に固執する百姓達から、その富裕さゆえに批判と羨望の目を向けられた事例も見られる。ここには、「農本主義」と「重商主義」の対立が覗える。
14から15世紀には、田畠を持たない都市的な生業を営む人々の立場からの、いわば「重傷主義」的ともいうべき主張は、強力な社会基盤を背景に社会に大きな影響を与えており、ときに「農本主義」を圧倒し、「農人」や「田作り」をいやしめ、嫌う風潮も見られた。
天正十六年(1588年)に発せられた豊臣秀吉による「刀狩令」には「百姓は農具さへ持ち、耕作専に仕候へハ、子々孫々まて長久に候」と明言され、百姓を農民としようとする国家意思が、露骨に示される。江戸幕府の土地・租税制度は、「石高制」が基本的に採用されていたが、ここには建前としての「農本主義」が貫徹されていた。しかし、制度としては幕府も大名も「百姓」をほぼ語義どおりに用いており、けっして農民と同義とはしていない。
それにもかかわらず、建前とされた「農本主義」は儒者などの言説を通じて社会に浸透し、百姓と農民とは同じという見方が通俗の「常識」として広がっていった。そして儒学の影響を受けた官僚の多い明治政府において、「田舎者」という「差別語」の語感を持つようになっていた「百姓」の語を制度的に用いることは止めて「平民」とする一方、「百姓」「水吞」等をすべて「農」とし、「士農工商」によって戸籍の職業区分とする制度が実施されるに至った。「百姓=農民」は制度化された。公式統計の「農」は「農民」とおなじではない、という事態がここに生まれた。
しかし、少し踏み込んで考えれば直ちに明らかになるはずのこの事実について、誤った思い込みに陥り、この誤りを自覚的に認識できない理由の背景には、近代以前の儒学の影響に加え、マルクス主義史学の作用があった。20世紀に入って、社会主義思想の影響で活発化する社会運動は、労働者、「農民」の運動として展開され、そこには漁民、林業民などの独自の運動の入る余地はなかった。また、マルクス主義史学を含む近代史学が、生産力の発展にこそ社会の進歩の原動力がある、という見方であったがゆえに、前近代の社会については、専ら農業に焦点を合わせてその発展の実態を考えたのもその理由の一つだろう。

3 山野と樹木の文化

平安時代後期から鎌倉期にかけて「栗林」が文書に多く見いだされるようになる。特に注目すべきは、荘園・公領の公式の検注が栗林を対象としていることである。古代、中世において栗林に対する公的な賦課は栗の果実であった。丹波や山城の甘栗御園共御人などの職能民も現れ、栗は商品として広く流通していた。栗は材木としても利用された。
中世においては材木を年貢とする荘園・公領が少なからず見られる。これを負担する百姓は、農民ではなくむしろ(そま)人、山民であり、飛騨・木曽などで活発に活動していた。番匠(大工)・鍛冶・壁塗など、建築に携わる百姓達もいた。百姓達の家の研究は少ないが、これらの木材は百姓達の家にも使われていただろう。
材木輸送路としては河川が使われたが、12世紀頃になると筏に組むのが普通になっていた。筏師、木守などの職業集団が形成され、津料・率分・河手などの名目で「関料」を徴収していた。鎌倉期には、筏師は神人、寄人としての立場を明確にして免税特権を保証されるようになっていった。中国大陸への輸出も、平安時代後期から盛んに行われていた。
果物については『延喜式』にも多種多様に記載されているが、平安から中世にかけての文書には柿以外はほとんど見当たらない。柿の利用方法が、渋柿の酒・酢の製造、読流し漁法、染料、薬用などの多岐にわたるからだろう。
漆についての常識的な見解は、中国大陸から渡来した漆とそれに関わる技術を用いた高級な漆器が対象であり、漆の栽培目的はもっぱら政府への貢上である、というものである。しかし、三内丸山遺跡の漆がDNA分析により中国産ではないことがあきらかになった。『延喜式』においても漆を貢進する国は14カ国におよび、荘園公領制下でも漆を年貢とする荘園があり、例えば備中国新見荘では8,150本の漆の木が植栽され、「漆掻」「塗師」などの職能民もいて、中世諸都市からは厖大な漆器が発掘されている。漆器は高級品だけでなく広範な百姓的漆生産と消費が行われていたことは明らかである。
桑についても、絹の高級織物用で、政府への貢上品のための植栽という見方が常識となっているが、漆と同様にこれも誤っている。桑は漆とともに令制において栽培量が把握されており、全国的に膨大な量が栽培されていた。極めて重要なことは、中世以前の養蚕は農業と明確に区別され、()(かい)は女性、農耕は男性の仕事とされていた点である。荘園・公領の公的検注では田畠と桑とは別に扱われていた。最近まで「養蚕農家」「果樹農家」という言葉が用いられ、「養蚕」も「果樹」の農業であり、「農家」の副業に過ぎないという見方が常識となっているが、この偏った捉え方の直接の源流は江戸時代にある。もとより江戸時代においても養蚕をはじめ絹織物、更には綿織物も基本的に女性の仕事であったが、養蚕が「農間稼」といわれていたことが象徴しているように、(農本主義の思想に基づく)石高制の下では、女性の生業の価値と社会的役割が、男性が中心の農業の陰に隠されていく状況が進行し、この状況は明治以降更に露骨になっていく。女性独自の社会的活動に正面から目を向けた研究は少ない。「日本列島の社会に即したこの分野の研究は、列島のみにとどまらず、人類社会の全体をとらえる上でも、大きな寄与をなしうるものではなかろうか。」

第五章 「日本論」の展望

1 「進歩史観」の克服

本項ついてはすでに繰り返し述べられているので省略する。ここでは、森巣博氏の『無境界家族』(集英社、2000年)を引用して著者の考えを述べた箇所のみ引用する。
森巣氏は「日本国籍所有者[65]という意味以外では、日本人なんてものは、ない」と主張する。前にも述べたとおり、私もまったくその通りだと思う。・・・「そしてもし、日本国籍所有者が日本人であるとするなら、『日本人論』『日本文化論』『日本文明論』は成立し得ない」と、つづけて森巣氏は断ずる。ここで同氏の言う「日本人論」は、別の箇所で森巣氏が厳しい批判を加えた「日本人としての真性の自己同一性」を模索した江藤淳氏の「日本人論」をはじめ、「日本人のアイデンティティー」を求めてやまない「日本文化論」をさしているが、そうした論者に対し、森巣氏は烈しく詰問する。あなたの議論の対象としている「日本人」の中に「アイヌやウイルタやニブヒ」[66]などの「少数民族が含まれているか。「沖縄や小笠原の人々を包摂して」いるのか。さらに「『元在日』であった20万人を超す『帰化人』たる『元』朝鮮・韓国人たちはどうなるのだ」。この森巣氏の糾弾に、私は心から拍手を送る。

2 時代区分を巡って

戦後紆余曲折あったが、1960年代以降、原始、古代、中世、近世、近代、現代という区分が定着している。この区分は、「日本国」の制度の変遷に即した時代区分としては事実に即しており、有効な区分と考えている。しかしそれはあくまでも「日本国」の制度についてであり、琉球王国、アイヌの社会に関してはまったく通用しない。例えば「日本国」の中世後期は「琉球王国」に即してみれば古代の開始に当たるといる。さらに立ち入ってみると、江戸時代までの「日本国」の東部と西部、東国と西国とでは制度的にも社会的にも、別個の区分をすることが事実に即していると言えるし、「東国」の中でも、とくに東北、そして関東、北陸、さらに中部、東海、「西国」の中でも、とくに南九州、そして九州、四国、中国、さらに山陰、紀伊半島など、これらの各地域は、その歴史に即した時期区分も可能である。このように時代区分についても、「一国史観」は事実に即してみて、成立しえないのである。

事実に即してみれば、貢納制、奴隷制、封建制、資本制という枠組みでもまた収まりきらず、それぞれの社会の多彩な生業や生活、人と人との関係、その独自な構成に目を向け、新しい社会の規定、概念を創りだし、時代を区分してみることこそ、現在、最も必要とされている課題であろう[67]

例えば、「封建制」については、従来のような、「自給自足の農村」を基盤に、経済外的強制によって農民を土地に緊縛し、地代を収得する封建領主、という捉え方は、もはやそのままでは成立し得ない。「自給自足の農村」という誤認についてはすでに述べたので、「封建領主像」について補足すれば、封建領主を在地領主と捉える「領主像」は、海上交通によって広く各地に所領を持つ鎌倉期の地頭・御家人がその一般的なあり方であるという事実に即して見れば、一面的見方であることは明らかである。
さらに封建社会論に即してみると、近世-江戸時代の社会についても、「兵農・商農分離」に基づく「自立した小農民」によって構成される「自給自足の農村」を基盤とした「純粋封建制」とする捉え方が、かっては「通説」で、今なお最有力な学説である。しかし私はこれを、明治以後の支配者層によって捏造された「虚像」を、近代歴史学から戦後歴史学までが乗り超えることなく踏襲してきた結果として生まれた、重大な誤りと考える。確かに近世においても所領給与を媒介とした主従関係や身分制度が生きていることは事実であるが、その社会実態は極めて流動的、都市的で、「高度な経済社会」と言っても言いすぎではない。それゆえ、従来のように封建制の視点からだけでは、この社会を的確に捉えることは不可能であり、むしろ資本主義、官僚制の角度を加えて、全面的にとらえ直されなくてはなるまい。
そしてこのように、前近代の「日本」、列島社会のあり方を再検討しつつ、明治以降の近代、さらに敗戦後、高度成長期以降の現代を根本的に再考し、今われわれがどこにいて、何をすべきかを正確に見定める必要がある。そのために解決すべき問題は無数にあるが、さしあたり、私自身の時代区分の試案を提示する。
「日本国」の制度の時代区分ではなく、日本列島の社会の全体を視野に入れた時代区分を考えるならば、列島の自然と社会との関係、列島外の地域との交流に即してとらえる必要があろう。縄文時代への転換期、弥生人と縄文人との並存、対立、交流の時代、そして6世紀から8世紀にかけての「日本国」の確立が画期であろう。その後、13世紀後半以降15世紀にかけて列島社会は全体として大きな転換期に入り、政治的には14世紀から16世紀にかけて「日本国」は四分五裂の状況となり、16世紀末から17世紀初頭にかけて「日本国」が再統一されるが、この国民国家が形成されていく背景となった「日本人意識」は、文字の深い浸透によって支えられていた。「日本国」の再統一に次ぐ大きな転換期は20世紀後半の高度成長期以降に始まった。現在もまさしくその渦中に置かれている。列島の社会に即して見ると、この現代の転換期において根底から変わりつつあるものとは、村落と都市のあり方、それを支えてきた生活形態そのもの全体であり、これらは145世紀にその基盤が形成されたものである。5600年間続いてきた生活形態全体が変わるという、その理由には情報伝達力の大変化が関係しているのは間違いない。しかし、社会が今後いかに成り行くのか、それは想像を絶していると言わなくてはならない。この新たな動きが「国民国家」の枠を超えることは確実であるとはいえ、極めて長い歴史を持つ列島社会、その諸地域の個性をまったく消し去ってしまうかどうかについては、やはり私には疑問である。
「とはいえ、浅薄な「進歩史観」や「農村中心主義」のために、これまでの歴史学の研究がほとんど無視してきた結果、生まれた空白は極めて広大と言わざるを得ない。・・・このような「進歩」の担い手達の勝利の歴史から取り残された人々、「敗者」の実態、また「基本的な生産関係」から外れるとされ、無視されてきたさまざまな生業とそれを担った人々に目を向け、そこに生きている人間の叡智を余すところなく汲み尽くすことは、本当の意味での人間の「進歩」とは何かを考えるためにも、現代において、特に大切ではないかと思われる。」
「そしてその上で、改めて列島社会と「日本国」との関わりの歴史を偏りなくとらえ、「日本国」の歴史を徹底的に総括しなくてはならない。これは単に「国民国家」を克服すべきものとして対象化するだけにとどまらない。先も述べたとおり、「日本」という国号を持つ国家、それと不可分に結びついた「天皇」をその称号とする王朝は、もとよりさまざまな変遷を経ているとは言え、ともあれ1300年余りの間、間違いなく続いてきたのである。これは人類社会、世界の「諸民族」の歴史の中でも、余り例のない事柄であることは間違いない。しかしそれだけに、逆に言って、この国家と王朝の歴史を真に対象化[68]し、徹底的に総括することが出来るならば、それは人類社会の歴史全体の中での「国家」そのものの果たした役割、また「王権」の持ってきた意味を、根底から解明し、その克服を含む未来への道を解明する上で、大きな貢献をすることが出来るのではなかろうか。」


[1] 1966年に「建国記念の日」が国民の祝日と定められた。「建国記念日」ではないことに注意。尚、この日だけは、その具体的日にちが他の祝日とは違って政令で定めることになっている。政令は政府の恣意性を排除する工夫がされているが、その工夫に中味が伴っているかについて注意する必要がある
[2] 著者のこの感覚は、歴史上のさまざまな出来事において、その当事者である人々が感じ取った偽らざる気持ちと同じである。歴史学はここから学ぶことが重要である、と著者は言っている。
[3] このために1300年も溯るというのは世界的にも珍しいと思う
[4] なぜ独自なのか、そして形成されえたのか?それは海を介しているから、独自性を損なわず、且つ物と人と情報が束縛されずに適量に交換されるから、ということなのだろう。
[5] 異質な地域と感じ取る理由がある。それを一言で言えば文化・価値観の違いだろう
[6] 歴史学においても、エポケーして現象を記述し、本質観取を行え
[7] 著者は、海を介した人々の交流の歴史を学ぶことから、自由ということの本質を学ぶことができるということを言いたいのかもしれない
[8] 縄文人の由来を語るには、3万年~19千年前の最終氷期最盛期(LGM:Last Glacial Maximam)まで溯ることになる。この時期にはインドネシア付近に巨大陸域スンダランドが存在し、そこは数十万年かけてアフリカから移動してきたホモサピエンスが繁殖し、アジア系民族移動の拠点となっていた。そこから北ルートの陸地と南ルートの海との二手に分かれて日本列島に到達したのがいわゆる縄文人らしい。因みに19千年前以降数千年をかけて溶けた氷河は140mの平均的海面上昇を引き起こし、スンダランドを水没させ7千年ほど前の縄文海進の一因となった。縄文海進時の海岸線は、その後7千年ほどかけて、地球のアイソスタシー現象(溶けた水の重さが梃子の原理で、マントルの物性に依存した地殻の継時的変形を起こす現象)により後退していく。
[9] ここ数年来、弥生時代の開始が500年ほど溯り紀元前1000年程となった(AMS法)。
[10] 速水融氏によれば、4世紀頃の人口は100万人、奈良時代で560万人、とのこと(日本通史 岩波第一巻 1993年)
[11] 新潟から関東の間はかって海であったが、そこに堆積した地層が、列島東西の地殻の折れ曲がりながらの圧縮により、隆起した山岳地帯。その地下の隙間に、高温高圧下における水との反応で溶けたマントルがマグマとして溜まり、多くの火山をつくっている
[12] 「穢れ」とは、「人間の属する秩序を攪乱するような事象に対して、社会成員の抱く不安・恐怖の念が、そうした事象を忌避した結果、社会的な観念として定着していったもの」(山本幸司『穢れと大祓』平凡社1992年)
[13] 律令の細則施行令。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により編纂を始め『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年完成。その後改訂を重ね、967年施行
[14] 世界史的に見れば、ユーラシア大陸北部草原地帯を東西に貫き、中国北部から欧州東部まで活発に展開していた遊牧民族、騎馬民族に対する偏見も同様であろう。
[15] 前期倭寇は14世紀頃に活躍し、後期倭寇は16世紀頃により広く活躍した
[16] 古墳時代に含まれる46世紀にかけての日本列島と朝鮮半島における国家の区分は明確ではなく、倭人と呼ばれた人々の内容も両方の地域にまたがっていた。5世紀の倭の五王の最後に位置する倭王武(雄略)は朝鮮半島南部における支配権を中国皇帝から認可され、それに続く6世紀の継体は朝鮮半島勢力がその強力な支持基盤であった、等々、日本国建国前夜における列島西部と朝鮮半島南部を併せた支配構造の実体には謎が多い。
[17] 則天武后は国名を唐から周に変えていた
[18] 平安時代末期に成立したと見られる説話集
[19] 698 - 926年、大陸の東北部にかつて存在した国家
[20] 要するにそれが許されないのは、彼我の国家としての力の差があったということだろう
[21] この強力な意思の源は、「日本国」建国前夜の数百年にわたって、「倭国」の指導者達が大陸から学んだ国家独立の必要性と、征服・侵略という帝国の思想、の両方だろう。
[22] 豊臣秀吉によって全国規模で行われた所謂太閤検地による土地改革基づいて、貨幣としての米の価値を基準とする課税方式
[23] 国も郡も、その区分は縄文時代、弥生時代、古墳時代、そして「日本国」へと至る歴史が作り上げてきた、共同体の事実に基づいていることが、改めて認識される
[24] だからどうだというと、多分大陸的な帝国主義、力による侵略という価値観とはそぐわない部分が二律背反的に、この列島にはある、というと視点に繋げたいのかも
[25] 小生の私見だが、インセストタブーに関するレヴィストロースの指摘「閉じられた共同体は生き残りにくい」のなら、「日本国」が生き残っているのは幸運の賜なのかもしれない。
[26] 例えば尼将軍平政子、日野富子
[27] 律令制の国郡とは、この小世界に条件付けられている。自然や社会を改造する能力が、多分何かの必要に応じて、著しく増大した現代においても、人間であるかぎりこの“小世界”でしかできない“多様性”が根本的に重要だと、著者は指摘しているのだろう
[28] 渤海国(698926年)の謎は多い。もともとその地には北方ツングース系民族が住んでおり、国家設立時は唐や高麗から逃れた人々が核となった。列島との関係で言えば、「日本国」建国前夜の7世紀中葉には「倭国」の支配者達は「蝦夷」、「(みし)(はせ)」の征服に乗り出し、一応「朝貢」をさせていたが(105p)、この粛慎はオホーツク文化の担い手であったのだが、骨の研究から、北方ツングース系民族であったという説もある(北大、菊池俊彦)。つまり、ツングースは北海道にも住んでいて、彼らを介した列島と北方の交流関係にはオホーツク海や日本海を通じた長い歴史があった。将門が独立国家を設立しようとした意識にはそのような感覚もあったのだろう。
[29] 独自な製鉄技術を持っていたのは、500年以上前の渡来人が深く関係しているのだろう
[30] この交易は、列島西部のへの交易ルートとも結びついていた
[31] 伊勢国鈴鹿、美濃国不破、越前国愛発(あらち)
[32] 三河・信濃・越後から東、ときに尾張、能登・越中を含む
[33] 九州・中国・瀬戸内海圏には島津氏、大友氏、大内氏、細川氏、中国には山名氏、佐々木氏、近畿・中部・北陸には斯波氏、一色氏、畠山氏、東海は今川氏、常陸の佐竹氏、下総の千葉氏、下野の結城氏、甲斐の武田氏、越後・伊豆を含む関東諸国は上杉氏
[34] 鎌倉公方足利成氏による関東管領上杉憲忠暗殺を契機に、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が1455年から28年間にわたり争った
[35] 足利義政の継嗣争い等の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と、山名持豊らの有力守護大名が1467年から10年にわたり争った、九州などを除く全国に及んだ戦乱
[36] 東北の伊達氏と政宗、芦名氏(相模国蘆名(現在横須賀市芦名)の地名に由来する会津芦名氏)、関東の後北条氏と早雲・氏綱、甲斐・信濃の武田氏と信玄、駿河・遠江・三河の今川氏と義元、越後の上杉氏と謙信、加賀・能登・越中の一向一揆、越前の朝倉氏、美濃の土岐氏・斉藤氏と道三、尾張の織田氏と信長、近江の浅井氏と長政、中国の大内氏と義隆、毛利氏と元就、山陰の尼子氏、豊後の大友氏、肥前の大村氏、南九州の島津氏等々
[37] 中国人の海商、1557年に中国巡撫総督胡宗憲によって逮捕され1559年に処刑された
[38] 島津氏の琉球と中国交易、大友氏・大村氏・有馬氏などの「キリシタン大名」のポルトガル人との交易、対馬の宗氏は朝鮮王国との更なる関係強化、大内氏・毛利氏・尼子氏の朝鮮半島交易、蠣崎氏や南部氏はアイヌの交易活動を媒介とした北東アジア交易、伊達氏の太平洋航路計画(支倉常長がメキシコからスペイン、イタリア派遣)
[39] 最近、「鎖国」のかわりに「海禁」という言葉が使われるようになってきたのは、このような“歴史観”の変遷によるものである
[40] 律令制のもとでの徴税システムは、土地を国有化し、戸籍を作成し、それによって分配した口分田に基づくものであったが、現実の経済や政治と乖離していたため100年ほどで破綻した。8世紀中頃には事実上土地の私有を認めることになり(墾田永年私財法、743年)。以降、天皇家、貴族、寺院、が全国に「荘園」を持つことになる。11世紀後半頃からは武士による土地支配が始まり、1213世紀には天皇と武士という二つの王権の二重性を内包した土地支配構造、「荘園公領制」(網野善彦提唱)が形成され始める。
[41] 律令の中の行政法にあたる令に基づく諸制度
[42] 小生注:村は、住民が生活のために組織した自治組織で惣村といわれるものだと思う。
[43] 10世紀に編纂された日本最初の分類百科事典&国語辞典&漢和辞典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に記載されている郷。この辞書には大きく二種類あって、国・郡・郷の分類が記載されているのは、二十巻本のうちの高山寺本
[44] 中世権門が設置した手工業のための機関、工房
[45] 大雑把に言えば年貢は土地を公事は人を対象にしたものだが、土地を対象にすることがそこから産出される米を対象とするわけではなかった
[46] たとえば、瀬戸内海の島嶼の荘園の年貢は塩であり、それを負担した百姓は海民、製塩民であった。中国山地の年貢には鉄が多く、村の百姓は製鉄民と考えねばならない。武蔵・下野、とくに陸奥・出羽では馬が、長門では牛が、紀伊、淡路、阿波・讃岐の炭や榑(板材)・材木、但馬や播磨の紙、伊勢・尾張・美濃から東の絹・糸・綿や布、等々。米年貢は畿内が顕著だがそれでも文書等によって年貢の判明する荘園の年貢品目676の中で米が260であったにすぎず、しかもこの地方の荘園規模は小さかった
[47] 708年の和同開珎から958年の乾元大宝までの間に造られた12種類の銅銭。鋳造方法が幼稚で、模造し易く、偽造する者が多くなったので、銭文を次々と変えて改鋳した。その後日本国において全国に流通するような通貨がつくられるようになるのは江戸時代
[48] 国制としての国郡制や官制等々は変化しながら継続してはいる。しかし、日本列島の社会を実際に動かしていた制度・仕組みはそれだけではなく、また地域より異なっている。その内容や理由を理解することが、日本国や日本人を理解するために必須である
[49] 令外官。桓武の改革以降、律令官制を補うために積極的に設置されるようになった
[50] 奈良の南都六宗と平安二宗(天台宗、真言宗)は異なる仏教の並立ではなく、ともに王朝を支える正当な仏教と捉える黒田俊雄の権門態勢・顕密体制という考えに基づく用語
[51] 鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件
[52] 近親の死に際して喪に服すべき期間を定めた法
[53] 山室恭子「戦国の地域性」『岩波講座 日本通史第10巻』1994
[54] 宣誓の内容に誤りはなく、もしそれが破られた場合にはたちどころに厳しい神仏・仏罰をけるであろうという内容が書かれている文章
[55] 浸透の具合は時代により異なる。「大日本帝国」の下では日本の植民地とされた地域の人々及び沖縄、アイヌの人々であるが、「日本国」建国時から見れば、畿内(大和、ヤマト)に対する関東、東北、九州等であり、先進地域「大和」に対する「未開」な「異種」な地域に住む「東夷」「蝦夷」「熊襲」「隼人」であった。
[56] 第三章の1で著者は「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団を指す言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。・・・「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。」とのべており、著者の言う「日本」は明確。だが、「倭」(そこから繋がるヤマト)の方は日本列島社会に住んでいる人々の「国家」に対する自己意識、それは自他に対する「区別」の意識、換言すると「差別意識」の歴史が詰まっている。著者は、「日本」つまり「国家」について語るときにはこの視点は特に大切であると考えているから再三取り上げられているのだと思う
[57] 鎌倉時代の古文書の網羅を目指して編集された史料集で、竹内理三が1995年まで25年間に編纂した
[58] この日下(ひのもと)とは、東北北部、あるいは北海道南部を指す地名。「ひのもと」の地域は、かっては「日出づる国・・・」の「日本」の中心地ヤマトであったが、その後段々北・東にずれていって、関東から陸奥そして最北・東へと至った。この意識の変化が「日本」の中心がヤマト・畿内にあって、西国が先進で、東国が後進であるという意識の範囲の変遷をしめしている
[59] 江戸時代の宗門改帳の代わりに、明治五年(1872年)に最初の全国的人口統計としてつくられた。現在で言えば国勢調査みたいなものだが、直接調査ではなく、役所の戸籍を集めたものなので不備が多くその後次第に改定されていった。身分差別も記載されているため、1968年以降封印されて研究者も閲覧できない。
[60] 大体一人一反(平均的に一石が採れる)必要
[61] 積載量については一石は10立方尺(278リットル)
[62] 時国家は畠が家の前に広がっている上時国家と町野川の川沿いにある下時国家がある
[63] 土地などを巡って、訴訟して争うこと
[64] 荘園の代官、預所などの職につく資格
[65] 網野善彦は本書で「日本国の国制の下におかれた人」と表現している
[66] ウイルタやニブヒは、ツングース系北方民族。ニブヒは以前ギリヤークとも呼ばれた
[67] 分節することが概念を創り出すことは、歴史の時代区分においてもまったく同様である
[68] 対象を概念化し、概念を対象化する、弁証法的展開なのだろう