2019年3月20日水曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ 近現代史への招待(吉田裕)



近現代史への招待(吉田裕)

ピエール・ドゥ・ロンサール
「 」内は本文引用、(⇒ )内は小生補足、何れも原則。
*印と・印は補足したい少し詳しい説明の箇条書き



はじめに

歴史意識の現状を自覚することは時代に流されぬための最小限の前提である。歴史意識の現状には次のようなものがある。
1, 「歴史離れ」の急速な進行。(⇒この意味は、現在と過去との連続性の意識が失われて、無媒介に過去を現在に結びつける傾向を指しているようだ)
2, ナショナリズムの復権。「経済大国」や「先進国」としての自信に支えられたナショナリズムが1983年頃をピークに大きく低下し、歴史、伝統、文化を誇りとするナショナリズムが復権している。背景には経済や先進性の挫折や喪失に基づく屈折感がある。
3, アジア太平洋戦争の開戦原因や戦争責任に関する関心が持続している。しかし、問題関心が日米戦に矮小化され、また明治憲法にまで遡行していない。

次に、近現代史研究の中で大きな争点となった問題を取りあげる

一 国民国家論を巡って
国民国家自体の定義については共通理解が成立しているようだが、その内容についてはいくつもの考え方がある。

*国民国家とは「国境線に区切られた一定の領域からなる、主権を備えた国家で、その中に住む人々が国民的一体性の意識を共有している国家のこと」(木畑洋一)である
*西川長夫は、国民国家が各々の国家の特殊性を超える普遍性を有していると主張して、大きな影響力を持った。その説のポイントは以下の2点
①国民的一体性の意識を創出する政治文化の問題に着目して「歴史学と歴史記述が国家の制度であり、すぐれて国家イデオロギーであり、それ自体がナショナリズムであること」を指摘した点
②戦後歴史学(=マルクス主義的and/or近代市民主義的な研究潮流)から、近代国民国家という普遍の中で近代日本を捉える方向へと視座を転換したこと
*西川長夫の国民国家論に孕まれている問題点が以下二点指摘されている
①民衆被拘束性に関する大門正克の指摘。全体として国民国家論は、国民は受け身形でしか登場せず、国民国家システムの一方通行的説明となる。安丸良夫の見解も同様
②戦争責任否定論となっている。吉田裕は、この論では戦争責任論を主題化出来ないと指摘している。高橋哲哉は、国民国家の枠組みを絶対化した謝罪主体立ち上げ論(加藤典洋の『敗戦後論』)や西川の戦争責任否定論と一線を画して、戦争責任観念の精緻化に取り組んでいる。酒井直樹は「日本人の即自的な共同性に分裂性を持ち込むこと」としながら「国民、民族、人種といった同一性を横断して、未来に向けて、新しい関係をつくり出す」云々と述べ、戦争責任の問題を直視しながら国民国家の枠組みを乗り越えていく新たな可能性を示唆している
*牧原憲夫編『<私>にとっての国民国家論』は国民国家論の意義と限界について包括的に論じられている

二 総力戦体制論を巡って
近現代史研究の中で大きな争点になったのは、総力戦体制論である。総力戦 (⇒簡単に言えば近代国民国家が国民、経済、国家機構、教育等々を、全て戦争を遂行するために動員する体制)は第一次世界大戦で初めて出現する戦争形態である。

1970年代以降においてこの問題が注目されるようになったのは、ファシズムの文脈においてであった(⇒普通の総力戦体制論)。
1990年代以降になって新たな視角を提示する論が出てきた。国家が「国民共同体」の一体性を強化する必要に迫られた結果、社会の近代化や現代化が進行した、という視角である。この議論は、現代日本社会の原型が戦時体制下で形成されたとするから、戦前と戦後の断絶より連続を重視することになる
*連続を重視した視点からの総力戦体制論は、現代社会自体に対する批判的問題意識から出発していたので共感を呼び、近現代史に新たな地平を切り開いた。(⇒連続か断絶かの論争は問題の焦点をぼやかす恐れがあったが)
*総力戦体制論に残された課題がいくつかあり、以下三点が挙げられておる
①戦後の史学史における位置づけが曖昧である。 初期の戦後史研究ではそもそも連続説が主流であったが、高度経済成長が本格化して以降には戦後が肯定的に捉えられるようになり、国民意識の上でも断絶の意識が強くなった。(⇒高度経済成長期は1955年~1973年)
②総力戦体制下では、格差の是正や社会の平準化が一方的に生じるわけではなく、新たな格差を不断に生み出す矛盾と軋轢に満ちた過程でもある。(⇒コノ手の批判はもっともだから一応書いておく、が、新しい視点のどこに価値を見出すかの方が大事であると、著者は言っているようだ)
③連続から断絶は、いつ、どのレベルで決定的な転換があったのかが曖昧である。著者はその時期は高度経済成長期と考えている
*総力戦体制論をめぐる議論は退潮に向かっている。その理由の一つは、もともとこの論の出発点が戦後社会において支配的な地位を占めていた言説に対する批判的考察にあったのに、連続か断絶かの論争の背後に隠れてしまっているからである。だが、総力戦体制が退潮することで、総力戦体制論と植民地主義との関係性の問題は、それが大きな課題であるにもかかわらず、とり残されたままとなってしまった

三 明治時代の評価をめぐって
大きな争点となった問題の三つ目は明治時代の評価を巡っての論争である。歴史学界の大きな変化の一つは、近代日本の歴史的後進性に着目するよりは、国民国家という世界史的な普遍性のなかに近代日本を位置づけようとする気運が高まってきたことである。国民国家論は近代という時代そのものの批判を意図したものであるが(⇒例えば『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン著1983年。ポストモダン哲学、例えば『監獄の誕生』ミシェル・フーコー著1975年)、明治という時代の評価は逆に肯定的に捉えられる流れになっている。しかし、吉田裕は、明治憲法の評価はアジア太平洋戦争期まで視野に入れてなされなければならないと言う。

*上記のような気運をもたらした視点は、それが明治政府の無条件な肯定にならないとした上で、フランス史研究者によってすでに1993年に指摘されている(柴田三千雄19933月『思想』789号)
*明治憲法や明治期の国家指導者を肯定的方向に再評価する考え方の代表例、以下三点
①明治憲法の立憲主義的性格や明治天皇が身につけた「進歩の思想」に高い評価が与えられている(『明治天皇』伊藤之雄著、ミネルヴァ書房、2006年)
②天皇制を世界史的な普遍性の中に位置づけようとする研究がなされている(『文明史の中の明治憲法』瀧井一博著、講談社、2003年)
③君臨すれども統治せず、というイギリス王制に対する評価の変化、換言すれば、君主の政治関与は立憲君主制であることと矛盾しないという理解の出現(伊藤之雄等)。この点、佐々木隆は端的に「君主制が儀礼的、形式的な行動に終始することを以て「立憲君主制」「立憲政治」とする見方が流布しているが、それは政党政治、民主主義の側に引きつけた解釈である」と指摘している(『日本の歴史21』(講談社2002176177ページ)
*上記に対する異論2点
①立憲君主は政治的権力を有するという普遍性を認めた上で、天皇制国家(=明治国家)は、専制的性格と抑圧的性格という特殊性を持っているという異論(安田浩『近代天皇制国家の歴史的位置』大月書店、2011年)。専制的性格とは国家の意思決定が天皇に集中していること、抑圧的性格とは社会内の自立的行動を国家が抑圧すること、を指す
②明治憲法体制の歴史的評価をするには、明治憲法のみならず皇室典範もセットで論じなればならない、とする異論(吉田裕)
*アジア太平洋戦争との関連で考察した異論の取りあえずの提起3点(吉田裕)
①無謀な対英米開戦を日本は何故回避できなかったのかという問いに歴史家はどう答えるべきかという問題があり、それに明治時代の評価はかかわっている
②「昭和の戦争に至る道は、やはり明治期の国家形成のやり方やその結果に根本原因があったと考えざるを得ない」(古川隆久『敗者の日本史20ポツダム宣言と軍国日本』吉川弘文館、2012212ページ)
③要するに、明治憲法体制の下では、戦争回避ための政治力の一元化は実現できなかったのである

四 歴史学における認識論の問題
この間の歴史学における際立った特徴は、「客観的事実」とは何か、という深刻な問いかけが歴史学を揺さぶったことである。それは認識論を巡る「言語論的転回」影響の下で生じた。(⇒「言語論的転回」は、大辞林では「デカルト以降の近代哲学が「意識」を考察の出発点としたのに対し、二〇世紀の現代哲学が「言語」を基盤にして展開されたことをさす」とある。しかし、「言語」を基盤にして展開するのも「意識」ではないのか、という簡単な反論があり得る。だから、歴史学を揺さぶったのは「言語論的転回」という現代哲学の潮流を契機として、「客観的事実」とは何かという、哲学が問い続けてきた問いがあることに、歴史学が気付いたことであろう。それは歴史学に限らず社会科学一般に言える)

*「歴史に事実も真実もない、ただ特定の視角からの問題化による再構成された現実だけがある、という見方は、社会科学の中では一つの「共有の知」とされてきた」(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998年、12頁)
*歴史叙述もまた「物語」の一つであるとしての批判(岩崎稔「忘却のための「国民の物語」」小森陽一、高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを越えて』東京大学出版会、1998年)は、要するに理論負荷性という考え方からの批判だが、その批判自体がいまだ曖昧で性急にすぎると述べている(⇒理論負荷性とは科学哲学上の概念で、事実は科学理論(記述)で変わり得る、という主張⇒理論というものは、事実として人間が認識する仕方を変えるものである、と言う方がいいかもね)
1990年代半ばから台頭してきた歴史修正主義の潮流の中に、構成主義の立場に立つ主張が出現してきたことは、状況を複雑にした。例えば、ホローコースはなかったと言う主張の理論付けに構成主義が使われた場合にどう反論できるか、という問題が生じた
*認識論上の本質的問題を歴史上の事実に適用しようとした場合の問題について、著者は、結論は出ていないと述べた上で、安丸良夫の「存在拘束性」やジョイス・アプルビーなどが主張する「条件付き客観性」などが恣意性を逃れ得るという考えが紹介されている
*(⇒歴史の事実に対する認識論問題は、誰も指摘していないが竹田青嗣の先進的な「現象学的な認識論」が有効に思える、歴史学界が早くそれに気付くことが期待される)

おわりに

歴史家の果たすべき固有の役割について、いくつかの考え方が述べられている。

*山田朗は、昭和という時代が<歴史>になりつつあるとしながら、「<歴史>になるとは、その時代を支配した空気のような価値観から人々が自由になり、その時代を突き放してみることが出来るようになることである。」(山田朗『歴史修正主義の克服』髙文研、2001年、93-94頁)と紹介している。つまり、過去を振り返れば比較的容易に諸事実の因果関係などが分かると
*安田武は、山田と重なり合いながらも「だが、歴史をその中に生きていた者には、構成が明々白々と指摘してみせるほど、現実は見えていないものだった。<中略>「政治」的現実だけが、生きている人々の日々の「現実」ではなかった。」(安田武『昭和 東京 私史』中公文庫、1987年、93-94頁)と紹介し、著者は「安田が言いたいのは、人々の日常的な意識のようなものを後世の人々が資料から再構成するのは難しいということである。」と述べている(⇒、安田も吉田も、人々の日常的意識が歴史を動かすのだというニュアンスを持っているから、山田の論に付け加えていると思う)
*有馬学、宮地正人の論を引用して、歴史家が過去を再構成する行為には、先入見を排除し、異なった認識の枠組みを理解し、史料等々から過去の社会を現前させる力が必要で、著者個人としては、それらの力を磨く職人的歴史家として修行が肝要と述べている。「(職人的歴史家としての)その程度のプライドを持つことなしに、歴史意識を無化する、この新自由主義の時代を生きていくことは、少なくとも私にはできない。」(pp.20