2019年11月23日土曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ 地租改正と地域社会(奥田晴樹)



地租改正と地域社会(奥田晴樹)
プリンセスミチコ

「 」内は本文引用、( )内は小生補足、何れも原則。

*印と・印は補足したい少し詳しい説明の箇条書き


はじめに
地租改正は、明治国家の経済と財政基盤を創出する扇の要となる改革であり、地所の私的所有を前提した租税の徴収(地租)制度の改正であり、地価を前提する地券制度(程なく土地登記制で代替)を要するものであった。

一 地券調査
1 土地・租税制度改革の起動
「石高制」による「村請制」で徴収されていた近世の年貢諸役のしくみを、全国規模で近代的な土地制度とそれに基づく租税制度へ改革する国家事業が始まったが、理念の実施に際しては、村請制や石高制などの歴史の規定を受けることになった。

*土地は領主が「領知」し領民が「所持」し、経済的価値は米の「石高」で表示されていた
*明治政府の固有財源は、廃藩置県によって全国の貢租徴税権を完全に掌握することで可能となった
・当初は禁裏御料の3万石、次に「王土」論に基づく諸藩などからの「領知」の回収(幕府領、旗本領、寺社領、廃藩藩主領)で廃藩置県までには三府四一県の直轄地の獲得
・そして、廃藩置県で全国からの徴税による財源確保へ
・しかし、貢租の賦課内容や徴税方法は、個々の領主-領民関係の多様性に制約された
*村請制は、土地の私的所有と流通に基づく地価の評価およびその法的保証の妨げとなり、石高制では、土地の価格評価が出来ず、したがって貨幣による徴税もできなかった
*石高制と村請制に代替する土地、租税制度の模索は、近世国家の解体と並行して始まっており、これを推進していた旧幕僚の力量が新政府の力となっていた
・文久期以来、この問題に先駆的に取り組んできた旧幕臣の洋学者神田孝平により、明治2年には、地価を定めて定率課税をするという、地租改正の原型改革案が提議されていた
・町地の地所の売買は明治以前から行われており、その際には町役人の公証のもとで「沽券」が交わされていた(⇒沽券:地所の売買契約書。権利証としても機能した。江戸時代は火事が多く、家屋の価値は記載していない。「沽券にかかわる」の由来)

2 地券調査の開始
明治4年12月から翌年にかけて地券の調査が行われたが、途中で公布方針が変更されたり公布までの期日の設定が短すぎて非現実的であるなど、そのやり方は拙速に過ぎていた(1872年の干支に因んで「壬申地券」と呼ぶ)。だが、その理念は、従来の沽券に代わるものとして市街地の地所全体を対象に交付されるものであり、「所持」は近代的土地所有へと転化されるものであった。

*地券調査は町地からはじまり田畑(高請地)へと拡大されて行われた。というのは、町地は、近世において「領民」が「所持」していた地所のうちで、売買、相続、等々の処分や、使い方に関して、領主から特段の規制を受けなかったからである
・明治41227日付、太政官布令:東京府管内で、武家地と町地の区分廃止及び地券の発行及び地租の上納の通達
・明治51月付、東京府宛て大蔵省達:太政官布告の実施手続
・明治5215日付、太政官布告第50号:地所一般の永代売買の解禁と所持に対する身分規制の解除
・明治5224日付、大蔵省達第25号:地券は地所の譲渡、売買時に交付となる

・明治574日付、大蔵省達第83号:地券は全ての地所に一斉交付と方針変更なり、しかも作業完了期限をわずか3ヶ月後の同年10月中とした

3 地価課税移行への動き
「壬申地券」による地価課税移行への動きは拙速なだけでは無く、田畑貢租の全面的金納化という政策的大転換も含んでいた。
そこには政府内の主導権争いがあった(毛利敏彦『明治六年政変』中公新書1979年)。明治41112日、岩倉使節団が欧米回覧へ横浜港から出発した。留守を預かった政府首脳達は、使節団に近代化のそして政府の主導権を奪われることを懼れ、彼らが帰国する前に諸改革を実施しようとしたのである。

*早急な地券調査の促進措置の事例
・明治574日付の大蔵通達83号から21日後に再改正された「地券渡方規則」94号に、人民の希望に基づいて地券の合筆記載が許可された
・大蔵省租税寮は、明治59月付の各府県宛達で、政府中央で検討中の法案を参考に、府県の地券調査を進めさせようとしていた
*政策転換の目論みがなされたと思われる事例
・明治5812日の太政官布告第222号で、田の貢租は米納から希望があれば金納(石高納)を許可し、畑の貢租は明治458日付の太政官布告で全面的に金納化したが、米納を条件として例外が認められた
・明治510月中の地券公布完了期限の設定は、上記の政策転換と併せ読むことでも、同年分の貢租から地価定率納税への全面切り替えを目論んだことが推測される
*明治5年は改革ラッシュであり、結果は財政に跳ね返った
・「学制」の頒布、鉄道の開業、官営模範工場富岡製糸場の開設、「徴兵告諭」の交付など
・官吏の月報二ヶ月分を浮かせる算段として、翌年が閏年になるのを回避して明治5123日を明治6年1月1日(187311日)と制定したほどであった

4 地券調査の実態
地券調査の実施は困難な大事業であったが、その調査の終局状態の把握は(現時点では)困難である。増租であったのは確かのようだが、増租の形態や性格がどのようなものであったのかは、今後の事例研究の蓄積を待たなければならない。

*当初は全地所の区画(一筆)づつ交付することになっていたが、それに必要な用紙の調達さえもが困難であったと推測される
*地券調査の実態の研究例から
・全体の概況については、途中で作業を打ち切って地租改正へ直行したケースもあった
・市街地に対する作業は複雑な様相に遭遇した。例えば、町地と武家地の関係、高請地の市街化、寺社地や墓地、河岸や道路の処置など
・郡村地での調査例では、村で保管されてきた土地「所持」台帳(検地帳)に準拠して実地測量作業を最小限に抑えようとするケース、反対に検地帳と実地測量との乖離に気づいて実地測量作業に熱心に取り組んだケース、村請制規範下における村落秩序に基づいて村落の要望によって錯綜した耕地状況の解消を企てたケースなどがあった
・壬申地券が交付された地所に対する貢租が増租となったかどうかについては、例えば埼玉県域ではかなり増加した事例が見られるが、「増租は村落秩序の許容範囲内に止まる性格のものだ、との見方もある。」(つまり、村落秩序の現実に合わせて数字がつくられた?)

5 地券調査の難航
地券調査は、全国各地の歴史的・社会的実情把握が不十分なままに実施された政策であった。そのことは、例えば七尾県から大蔵省への申し立てとその回答や、各府県からの問い合わせに対する大蔵省達118号にみられる泥縄的対応(互いに無関係な問い合わせに対する回答の羅列など)からも伺うことが出来る。

6 地券課税移行の挫折
結局、全府県で壬申地券の交付を明治510月中に完了することは到底不可能となって、同年分からの地価定率金納税移行の企ても挫折した

二 地租改正

1 「地租改正法」の成立経過
「地租改正法」は明治6728日付で交付された。近代国家への途上において行われたその成立経過は「はなはだ不完全ながら租税協議権思想によって立法手続きが進められようとした点では、維新後最初の「近代法」と言えようか。」
同法公布の少し前には、太政官布告によって、田畑の数量表示に「石高」を用いることが禁止された(「石高」表示によるランク付けが終焉した)。

*大蔵省は、明治6年131日付の達7号で「地方官会同」の招集を達する(大蔵省という当時の行政の中心組織が、まだ確立していない議会の存在意義は理解していたのだろう)。
・大蔵省は4月12日に「地方官会同」を開会し、急遽策定した「地租改正方案」をそこでの審議に付す
・同年4月付で配布された地方官会同の「議事章程」の題言で、大蔵大輔井上馨(欧米回覧中の大蔵郷大久保の代理)は議員に「立法官」として審議臨むように求めている
・左院には地方官会同を国会開設の端緒にしようという動きもあった
*政府の各省は、管掌する近代化諸政策実施の優先順位と財源確保を巡って競合し、また大蔵省との対立を深めていた(権力闘争を巡る国家の調停機構・能力はまだ不足していただろう)
*会同開催中の57日付で、井上馨と大蔵省三等出仕の渋沢栄一(元幕僚)が、「このままでは財政破綻と増税は必至だと断定した」建議を正院内閣に提出し、この内容が政府の布達類などの普及にも一役買っていた『日新真事誌』に掲載された
*正院内閣は、59日付で参議の大隈重信を大蔵省事務総裁に任命し、同省の直接掌握をはかり、大隈は他の諸討議案をすべて棚上げにして「地租改正方案」を早急に議決するよう求め、これを受けて、地方官会同は、審議不十分な状態で512日に同案を可決する
*正院内閣は、514日付で、井上馨と渋沢栄一を罷免する(明治65月政変)
*大隈の大蔵省は、地租改正実施案を取り纏め、519日付で正院内閣に提出、同案は正院内閣でしばらく検討に付されるが大蔵省の督促で打ち切られ、明治6728日付で「地租改正法」として公布される

2 「地租改正法」の内容と問題点
「地租改正法」は、「上論」、太政官布告第272号、「地租改正条例」、「地租改正施行規則」、「地方官心得書」から成る。「上論」の目的は、税法を「公平画一」にすることであった。太政官布告第272号は、「地券調査」によって地価を決定すること、地租は地価の3%とすること、従来、官庁郡村の「入費」(経費)などで、地所に賦課したものについても、地租の三分の一を限度として、地価に賦課することが達せられていた。「地租改正条例」と「地租改正施行規則」には地価の決定作業手順などが記されていた。
「地租改正法」の問題点は、「人民申告依存方式」へ傾斜していたことに起因する。これは、地券調査が村請制の規範下にある近世以来の村落秩序に依存していたのと同様であった。この問題点の結果は、府県の大幅な減租をもたらすものと予想される。

*「地租改正施行規則」には、地価は人民からの申告額を検査例による査定額と照合して決定することが定められていたが、実際は机上の空論であり、「人民申告依存方式」であった
・検査例では、地価は、収穫米の代金から種肥代と地租・村入費を控除した額を利子として、資本還元方式で算定することになっている
・検査例には、自作地の場合の第一則と小作地の場合の第二則があるが、実際の作業では自作地でも第二則を用いることが規定されている


3 改租事業の停滞と減租結果の見通し
改租事業は政局の影響を受けて停滞した。朝鮮遣使問題、岩倉使節団本体の帰国(明治6年9月13日)を機に激化した政府首脳間の政争、明治610月政変、翌7年は佐賀の乱と台湾出兵が続いた。台湾出兵処理のための北京談判で政府の実質的最高指導者である参議兼内務郷の大久保利通は殆ど東京に不在であった。しかも、その間に改租の結果が地租の大幅減収となる見通しが浮上してきた。

4 拙速方針への転換
明治71031日に台湾出兵を巡る日清交渉が妥結して同年1126日には大久保利通が帰国した。大久保は改租事業の停滞に対して、まず事業の促進措置を施していった。「地租改正法」が定める漸進主義が撤回され、地価の決定に関する官側の査定額決定方式も検査例第二則ではなくて第一則方式へと転換され、遅くとも明治9年分から改正地租へ移行すべく各管内一律の改租石代を用いた全管一致主義に立った拙速方針へと転じていく。

5 改租方針の転換と地域社会
改租方針の転換に対する地域社会の反応及び変化について、著者は明治8年から9年にかけて和歌山県那賀郡などで発生した三つの事例に即して次のように述べている。
「地域社会とその住民は、地租改正によって揚棄されようとする石高制---村請制の規範にあくまでも依拠しつつ、自分たちを「富民」化する契機へと、改組結果を導こうとしていたことがわかる。そして、改組事業の方針転換によってそれを阻止されたところでは、「独自プラン」提起の可能性をはらみつつ、場合によっては騒擾へと結果する民衆運動を起こす場合もある。しかし、「富民」化の可能性が存在するところでは、いわば「殖産興業運動」とでも称すべき動きが生起することもあろう。」

*和歌山県那賀郡粉河村周辺での事例(紀ノ川中流)。「これを要するに、騒擾の要求は貢租と地価の軽減にあり、その形態は正副戸長層に主導された村ぐるみの「惣百姓一揆」型の民衆運動だと言えよう。」
・和歌山県では、明治755日付で、「地租改正法」に則った大幅減必至の改租プランを作成して大蔵省に承認を求めたが、大蔵省は転換された改租方針に基づいてこれを承認せず、翌年4月には拙速主義の作業が再開・強行されていった
・明治8年分の貢租軽減運動が起こり、はじめは石代引き下げによる減租を目指した貢租石代決定方法の改善要求であったが、明治9年に入ると、改租石代決定方法の改善による改租石代引き下げへと発展する
・その要求内容は、政府が転換した改租方針に対する、農民的ないし豪農・地主的対案ともいうべき「独自プラン」へと成長する可能性を持っていた
・県当局は政府中央に拘束されて改租石代の全管一律方式と拙速主義の強硬方針を墨守し、民衆は県の自立した問題解決能力の欠如を把握できず、膠着状態のまま事態がエスカレートし、運動を主導する正副戸長層の検束を機に運動は騒擾となる
・騒擾化した運動が県側の武力と処分の脅迫の前に急速に崩壊したことは、運動自体が近世以来の村役人層である正副戸長層の指導なしでは成立しないことを如実に表していた
*和歌山県海部郡加太浦では、改租は減租となったことから旧貢租額で納入した明治8年分のとの差額を資金として、官有地を借用した開墾を企てる動きが戸長を中心に起こった
*先に事例に挙げた那珂郡では、その後、かっての運動の指導者たちが税制の地主的改作を要求する動きを起こしたが、民衆をそこに再結集することは出来なかった

6 拙速方針の影響
拙速方針への転換が減租結果を招いた場合もあった(要するに、急いだ結果は現実追従となった)。石川県の事例をもとに、著者は次のように述べている。
「しかし、耕地整理事業が同県内でも容易には進まない事情の下、割地慣行[1]の存在が村民の土地所有権の行使を実質的に制限し、また地主---小作関係を制約する事例もあり、一部の村落では第二次世界大戦後の農地改革前後まで割地慣行が存続している。」

7 明治10年減租
明治9年に発生した和歌山県那賀郡の騒擾は5月初旬に軍隊の出動などで沈静化するが、同年には茨城県や三重県で大規模な民衆騒擾が勃発する。これらの騒擾が政府首脳に与えた衝撃は深刻であり、明治10年1月4日付太政官布告第一号で「減租の詔勅」が公布された(明治10年減租)。しかしこの減租は、翌二月に発生した西南戦争の戦費負担と相まって国家財政に深刻な影響を与え、それが政治的にも様々な影響を及ぼし、地租改正への反作用を及ぼすことになる。

*明治10年減租の政治的影響例
・中央と地方の関係における統治構造の全般的な再編成を必至なものとした
・民衆及び自由民権派の更なる地租軽減を求める動きに火をつけることになった
・政府がかねて「漸次立憲政体樹立の詔」をもって約束した立憲政体導入を不可逆的なものとする政治的環境の形成した

三 地租改正の結果
1 改租事業の終結
地租改正事務局は、西南戦争の時期は改組作業を一時中断する一方、再開後に現地指導に入る諸府県、とりわけ関東について、明治10年減租以前の水準に戻すべく入念に準備していたようだが、諸府県の強い抵抗により、思うようには行かなかったようである。しかし、難渋した地価の設定に関しては5年間据え置くなどの対策を施して、とにかく改租事業を全府県で完了させることに注力し、明治1411月に愛媛県が最後に終了して、改租事業は終了した。

2 地租改正の結果
改租結果については、明治15年2月付で大蔵省が太政官内閣へ提出した「地租改正報告書」に添付されている「改正地租表」によって、その概略が述べられている。著者はその結果に基づいて今後の研究課題について次のように述べている。
「若干の地域的偏差はあるものの、全体として減租結果となっていることは明白である。この減租分がどのような形で社会の中に吸収され、さらにどう転形されていったかを探ることは、前述した「殖産興業運動」のような動きがどの程度まで一般的なものであったかを確かめ、さらにはわが国の近代化の歴史的な推進メカニズムを解読する上で、避けて通ることの出来ない研究課題ではなかろうか。」

3 改租結果の固定と修正
明治17315日付の太政官布告七号で「地租条例」が公布され、それに抵触する「地租改正条例」などの諸法令は廃止され、地価の定期的見直し規定は廃止されて地価修正手続きが一般的に定められるに留まり、地租率は地価の2.5%となった。かくして、地価と地租は固定された。また、関連して「第二回の改租」たる地押調査が実施され、明治20年には2府15県で特別地価修正が行われ、明治22年には340県で地価が修正された。しかし、これらによる減租は増租より遙かに大きく、かつ掛かった費用は莫大であって、「地租条例」制定目的が地租軽減阻止にあったとは言いがたく、「それはそれぞれ当該時期における、政党内部の問題をも含む、政局の動向に規定されたものと見るべきであろう。」

まとめにかえて
慶応三年末から明治23年度末までの23年間ほどの国家財政における地租額および地租額の割合の推移を一瞥しても、地租は明治初期の財政の柱ではあったとしても、地価改定や地租改正による増租の目論見は実現できず却って減租を招いていた。そして、「大日本帝国憲法」が制定され、帝国議会が開設されて、明治国家の国政が確立した、まさしくその前後の時点から、地租は主財源たる地位を失い始めた。
地租改正に伴う減租が地域社会どのような影響を与えたのかという問題についての探求は、今後の経済史的検討を待たねばならないが、「今までの研究に見受けられる、地租改正の経済史的結果を、明治10年代後半以降における松方財政のそれ(経済史的検討)と重複させ、地主への土地集積と、国家主導による「資本の原始的蓄積」(マルクス経済学用語、略して「原蓄」)という面にのみ収斂させて理解する向きへの、一定の反省が求められよう。」。その場合の経済史的検討は、前述した和歌山県海部郡における「殖産興業運動」のような経済的活用のケースを含めて、わが国の近代産業形成史に対する理解の視野を技術面のみならず資金面へと拡大することに関わり、更には明治10年前半における自由民権運動の地域社会への浸透と展開の歴史的理解とも関わってくるのではないだろうか。
地租改正が却って減租を結果しただけでなく、基本的に地租が法的に固定化されて国家財政の硬直化を招き、国家としての構造的欠陥を抱え込むこととなった。そのことが意味するのは、「地租改正が、その全過程を通じて、地域社会とその住民の協力や承諾なしにはなしえなかった事業だったことによろう。しかし、そのことは、この事業を経ることで、事実上、明治国家が「国民国家」ないし「租税国家」として成立しつつあったことの、一つの証左でもあろう。換言すれば、明治国家は、前述したような構造的欠陥を抱え込むことなしには、「国民国家」ないし「租税国家」たり得なかったのではあるまいか。」



[1] 村請負制と石高制の下で、村落内の納税負担均等化のため耕作田地を定期交換する慣習

2019年5月22日水曜日

岩波講座 日本歴史 第15巻 近現代Ⅰ 戊辰戦争と廃藩置県(松尾正人)

戊辰戦争と廃藩置県(松尾正人)
ハニーブーケ

「 」内は本文引用、( )内は小生補足、何れも原則。
*印と・印は補足したい少し詳しい説明の箇条書き


はじめに

慶応三年(1867)1014日の大政奉還、129日の王政復古[1]と続くが、新政権の基盤をなす内政、外交などの実権の掌握と、土地人民の掌握である「王土王民」の原則を貫徹するには、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争の勝利が不可欠であった。戊辰戦争は、翌明治2518日の函館の奪回まで続く。戊辰戦争と軌を一にして版籍奉還が企図されて明治26月に実行され、続いて明治47月に廃藩置県が断行される。戊辰戦争、版籍奉還、廃藩置県によって新政権の権力基盤が形成されていったが、これらについては尚研究が進行中である(⇒新政府の誕生や権力構造についての理解は、その後に形成された歴史意識によって曇らされているようだ。一般理解に至っては著名な歴史小説家の言説に依存しているのだろう)。



一 王政復古と戊辰戦争

1 鳥羽・伏見戦争と徳川慶喜

慶応四年正月三日に始まった鳥羽・伏見の戦いは、幕府側が大敗し、「朝敵」と断じられた。王政復古が断行されると二条城から大阪城へ移っていた徳川慶喜は正月六日夜に大阪城を抜け出して天保山沖に出て米国の軍艦に助けられ、翌朝幕府の開陽丸に移り、八日に開纜(ともづな)して江戸に逃れた。大阪城中では七日になって慶喜脱出を知り愕然となった。

新政府は七日には徳川慶喜に対して征討令を発することで諸侯の去就を確定させた。次いで徳川諸藩の要職に就いていた姫路藩は帰順し、板倉老中の出身である備中松山藩は開城した。江戸詰の老中稲葉正邦の淀藩は戦い早々に撤退してきた幕府側の入城を拒んでいた。(⇒要するに幕府側は一体になって闘う状況には無かったのだろう。しかし、なぜ?の疑問に対しては前史に溯ることで理解が深まる)



*薩摩藩の西郷吉之助は、藩主島津忠義が3000人の兵を率いて京都に入った慶応三年1128日以後、倒幕に向けた武力行使の決意を固めていた。前後して、江戸周辺などで幕府側と反幕府側による小競り合いがあり、1224日には幕府による薩摩江戸藩邸の焼き打ちが起こっている(⇒大政奉還に対して武力行使を決意した西郷は、倒幕派と協力して実力行使のための諸手段を画し、また行使していたことは予測できる)

*慶喜が大阪城から逃亡したときに、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静も同行していた。(⇒大阪城から天保山まで、将軍と老中と藩主が夜中に逃亡していく経路は安治川を小舟で下り、沖へ出るのが妥当と思えるが結構みじめな様子、しかも米艦に連絡して助けられたとは?)



2 新政府軍と江戸開城

慶応四年正月六日に始まった鳥羽伏見の戦いがわずか数日で幕府側の大敗で終わった直後、新政府側は東征軍(⇒主力は薩長軍)を東海道、東山道、北陸道の各方面に分けて進軍させ、315日には江戸城進撃というその前日、幕府陸軍総督の勝海舟と新政府大総督府参謀西郷隆盛が江戸薩摩藩邸にて面談し、徳川氏処分と翌日の江戸城進撃中止と江戸開城について合意する。新政府側は勝との合意を無視して先鋒総督参謀海江田信義(⇒薩摩藩士、西郷、大久保の盟友)が411日明け方に兵力を動員して江戸城に入城した。

その間、新政府は、統治体制、官僚組織、財政政策、軍の掌握などに関連した施策を急速に進めた。しかし、外交的配慮が幕府側に比べて遅れていたために、東征に際しては幾つかの問題が発生した。江戸に逃げ帰った慶喜は、当初は新政府に反発していたが「朝敵」にされるや212日に寛永寺に閉居し、411日未明に江戸城を退去し水戸へ向かった。その後戊辰戦争終了までの幕府側の抵抗については、事項にて述べられる。



*新政府は、慶応四年正月六日以降、東海道、東山道、北陸道の各方面に鎮撫総督を任じ、26日にはその名称を先鋒総督兼鎮撫使と改め、2月10日には総裁有栖川親王を東征大総督とする

321日に天皇が発輦(⇒「輦」の音読みはレン。「てぐるま」という、人が担ぐ天皇の乗り物のこと)して本願寺別院を行在所(⇒「あんざいしょ」と読む。意味は天皇が外出したときの仮の御所のこと)として陸海軍を閲兵した(⇒施策を着々と打っているが、その物量的実態は幕府側以上とはとても思えない。要するに変化対応力の差か?)。

*土佐藩の板垣退助は東山道総督府参謀として活躍する

*新政府側の勤王誘引活動に赤報隊などの草莽が先発するが後に命令無視で粛正される

*正月二十一日には上﨟土御門藤子(⇒皇女和宮と同一者)が東海道鎮撫総督へ、221日には山王寺宮能久親王が大総督府へ慶喜の救済を求めて向かったが、成功していない

*一方、陸軍総裁に登用された勝海舟の意向を受けた、慶喜側近の精鋭部隊頭の山岡鉄舟が、薩摩藩士益満休之助を同伴して39日に駿府で大総督府参謀西郷隆盛に面会し、開城談判が可能になっている(⇒幕府による天皇家や寺社の権勢利用策は無力な一方、実力者が動かす世の中になっていたのだろう)

*西郷隆盛と勝海舟は313日に江戸高輪の薩摩藩邸、14日に蔵屋敷(⇒薩摩藩邸の一つで田町にあった)で面談し、徳川氏処分と翌日の江戸城進撃中止と江戸開城について合意するが、その内容は、慶喜の水戸謹慎以外は2月に大久保利通が岩倉具視に示した範囲内で西郷が山岡に示した内容に近い

*東征軍の進撃と江戸入城に際しては、外交配慮が幕府側に比べて遅れていたことに因る困難が生じたが、その事例として以下三点が挙げられている

①正月11日、新府側の備前兵が神戸を通行したとき、米兵を銃撃した神戸事件

219日、堺を警備中の土佐藩兵が上陸してきた仏国水兵12名を殺害、藩士11名切腹

③英国公使パークスが、横浜の安全にために江戸周辺の大規模戦争に反発

*上記出来事と軌を一にして、慶応四年正月から同年明治元年5月までに新政府は下記のような諸々の政治、経済策を講じていた(⇒この年は閏4月があるから、6ヶ月間くらい)

・正月十七日の政府改革。総裁に有栖川宮熾仁親王、副総裁に三条実美と岩倉具視、議定に宮、公卿、諸侯を、参与に公卿、諸藩士などを任じ、神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の7科を設置し23日には7科を8局に改めた

・政府中枢は、木戸孝允(長州藩士桂小五郎)、小松帯刀(薩摩藩家老)、大久保利通、後藤象二郎などの総裁局顧問が握る

・財政面は、参与兼会計係の由利公正(三岡八郎、福井藩士、横井小楠から財政学を学ぶ)が、紙幣準備金として国債300万両を募集して金札を発行して東征を支えた

・明治元年5月段階(⇒廃藩置県断行の2年以上前)で近畿に京都府、大阪府、兵庫、奈良、堺、大津、久美浜の5県が、中国地方に倉敷県、九州に長崎府、富岡、日田の2県を設置

・明治元年314日、政府は五箇条誓文を掲げ、旧来の弊習破り知識を広く世界に求めることを標榜し、翌日には旧来の規範をも重視した五榜の掲示を定めた

・五箇条誓文は由利公正の原文を木戸孝允が修正したもので、公卿、諸侯に制約署名を求め「今日ノ急務」「永世之基礎」と位置づけられた



3 関東の騒乱

江戸開城後も旧幕府勢力は、市中では上野に彰義隊が残り、江戸周辺では江戸周辺の旧幕府軍と連繋して新政府側と閏4月末ほどまで対峙したが、519日に彰義隊が半日で壊滅し、新政府は同日、江戸鎮台の設置と徳川家達を70万石にて駿河府中移封を命じた。



*(様々なエピソードが隠れているのだろうが、著者はその中で事実として判明している事例の内下記二点を挙げている)

①請西藩の藩主主林忠崇の反抗。請西藩は木更津の小さな藩であるが、藩主主林忠崇は、江戸を脱走した旧幕府遊撃隊と連繋して新政府軍に抵抗した。当時20歳程であった請西藩主は、近辺の勝山藩、飯野藩、館山藩等から出兵させ、小田原藩に協力を求め、韮山代官江川英武にも出兵協力を要請し、駿河藩や駿河勤番与力等の応援部隊と合流し、御殿場から甲府へ進撃して占拠を試みたが、山岡鉄舟等の出張などで断念し、上野の彰義隊の戦いに呼応して箱根の関所を守る小田原藩と戦い、最後は後述の東北戦争に参加中に降伏する(⇒請西藩は最後に改易された藩となった。かなり長い困窮生活の後、忠崇は1893年になってやっと華族に復権し、194192歳で最後に生き残った大名として逝去)

②旧幕府側の仁義隊は八王子に入って千人同心に協力を求めて甲府への進撃を企図した(⇒千人同心は、家康が信玄の家臣であった自分たちを日光方面への備えとして再雇用した恩義を感じていたのだろうか?)



4 奥羽越列藩同盟と箱館戦争

新政府は鳥羽伏見の戦い直後の正月15日に奥羽諸藩に対して応援を要請する一方、江戸開城後も東征軍は東山道、北陸道を進軍し、奥羽鎮撫総督九条道孝以下は仙台へ派遣され、艦隊は兵を乗船させて太平洋沿岸を北上した。しかし、新政府側が奥羽と越後の諸藩を統治下に置くのは、紆余曲折を経た後、会津藩が降伏する922日頃となる。この内戦で、奥羽越列藩同盟を結んで抵抗した諸藩においては、その対応の様は多様であった。

旧幕府の海軍副総裁は、江戸開城後も軍艦の引き渡しに抵抗し、彰義隊に擁された輪王寺宮や関東近辺の旧幕府側抵抗勢力の一部を茨城県の平潟や福島県の小名浜に送っていた。そして、慶喜の静岡移封を見届けた上で前老中板倉勝重、同小笠原長行、前若年寄永井尚  志、前所司代松平定敬等、総勢2500名が819日に北海道へ向かい1025日に函館を占領したが、翌年518日に榎本が立てこもった五稜郭が降伏して箱館戦争は終結した。

この戊辰戦争による処罰については、会津藩主松平容保、喜徳父子が死一等を減じて永禁錮、継子とされた容保の子容大が削封に処され、仙台藩主伊達慶邦、庄内藩主酒井忠篤、南部藩主南部利剛、長岡藩主牧野忠訓、二本松藩主丹羽長国などが隠居、謹慎とされたほか、諸藩の首謀者は13人が斬罪と永禁錮に処された。また藩としての処分は石高の削減、転封、削封等に処された。(⇒戊辰戦争による戦死者は8500人程で、内新政府軍と旧幕府軍は大体同数、旧幕府軍の内会津藩が大体半数。近代の内戦としては極めて少ない。例えばアメリカの南北戦争では4年間で60万人程、フランス革命ではナポレオン戦争を含めてではあるが23年間で兵士と民間人がそれぞれ200万人ほどと言われている)。



*会津征討を命じられた仙台藩は、征討には消極的であっただけでなく、会津藩の嘆願書を提出することを図っている

*会津藩の松平容保は謝罪の姿勢を示す一方で庄内藩と提携して新政府軍と対決する姿勢を崩していなかった

*閏412日(⇒当該年は一年が13ヶ月で、4月が2回あった。グレゴリオ歴186854日)、仙台、米沢両藩は、二本松、久保田、弘前、南部等の奥羽諸藩を白石に召集し、奥羽諸藩重臣の署名を得て、に会津藩の嘆願書奥羽列藩嘆願書を九条総督に提出

*閏419日、奥羽諸藩の会津救済策が却下されると、仙台、米沢両藩は解兵を願い出る。翌日に仙台藩士が世良修蔵参謀を殺害する

53日、奥羽諸藩重臣が仙台にて同盟条約祖を議決し、太政官宛に建白書を作成。越後の新発田藩、長岡藩など六藩も加盟して、奥羽越列藩同盟を結成し、公議府を白石に置き、会津に逃れていた輪王寺宮を迎え、旧幕府老中小笠原長行や板倉勝重も加えて反新政府に向けた政治的軍事的な姿勢を強めていた

*会津藩は新政府側の東山道軍を阻止するための要衝である白河確保を企図して、仙台藩二本松藩などの列藩同盟諸藩と連合して白河城の包囲攻撃を続けていたが、616日に新政府の援軍が平潟に上陸し、棚倉、三春、二本松磐城平藩なども相次いで降伏

*越後方面は、3月晦日に前桑名藩主松平定敬が同藩分領地に柏崎に入り、会津や米沢藩等も新潟の確保を重視して柏崎に派兵した。長岡藩の家老河合継之助は、東山道先鋒総督軍監の強硬な姿勢に反発し、新政府側に敵対するようになっている。しかし、519日に新政府側は長岡を改めて奪取し、同時に柏崎近くの松ヶ崎に援軍を上陸させて新潟を確保していた

823日に白河口総督府の諸軍は若松城下に到達、828日に米沢藩降伏、その後仙台藩等の有力藩の降伏が続く

*箱根で小田原藩と戦っていた木更津の請西藩主林忠崇らは、榎本艦隊の支援を受けて小名浜に上陸して以降、湯長谷、磐城平などで戦っていたが最後は塩釜で降伏した(⇒味方も増えない少人数だと思うが、かなり北方までよく頑張った)

922日に会津城も藩主松平容保父子降伏で陥落、24日に南部藩主南部利剛、庄内藩主酒井忠篤が降伏

*榎本武揚は1025日に函館を占領した後、1210日付けで、新政府に対して「徳川血統ノ者」を奉じて開拓と北方警護に専念したいとの嘆願書を提出。その後士官の投票で総裁に選出された榎本は、英国や仏国などの各国領事に「事実上の政権」の認定を求めたが、各国は自国民の安全に必要な限りで交渉する「政権」と見なす以上の認定はしなかった

*その後、榎本側は旗艦開陽丸が江刺沖で座礁・沈没して海軍力が低下したのに対して、新政府側は諸外国の局外中立を撤廃させることに成功して、旧幕府が米国から購入した甲鉄艦を入手していた

*新政府側は、翌年明治2年4月9日には乙部に、15日には江差に上陸し、本格的な函館攻撃を開始した。函館湾においては榎本側の軍監が破壊され、弁天台場では救援に向かった土方歳三が戦死して515日降伏、五稜郭は518日降伏した



二 版籍奉還の上表

1        版籍奉還の論形成

慶応三年1014日の大政奉還以降翌年の明治元年末にかけて、薩摩藩、長州藩のキーマンが主導して版籍奉還の議論が煮詰まって行く(⇒幕末より、弱体化した徳川幕府に代わって近代に相応しい新政府を樹立すべきだという考えを持った勢力が力を蓄えつつあったが、その内実は多様であった。新勢力にとっては、慶喜の大政奉還という手に対して、300程の藩という組織体の統治権力を掌握して新しいコンセプトの下で再編成することは喫緊の課題であったものの、これをどのように実行するかと言う合意を得るには段階を踏む必要があった。しかも短時間の内に。そのことを新旧体制の一部の指導者達は理解していたのだろう)



*新政府発足直後の徳川慶喜の辞官納地の議論(⇒「小御所会議」での議論)において、前土佐藩主山内容堂(⇒山内豊信=藩主は豊範だが実権は容堂)は諸侯も倣うようにと主張したことは良く知られている(⇒しかし、容堂のこの時の発言は倒幕ではなく佐幕の立場であった)

*長州藩木戸孝允の一連の動きは下記のごとく注目すべきものである

・同藩が占領していた豊前、岩見両国を一旦朝廷に返上することを提起し、慶応三年十二月に藩主毛利敬親が「朝廷へ奉差上御処分奉仰候」とする願書を提出した

・慶応四年二月、副総裁の三条実美と岩倉具視に対して、版籍奉還の必要を建言

・封建割拠の弊害を説き、「至生至公」の精神に基づき「一新之名義」を正すことの急務を論じた

・同年閏四月には山口で、七月には京都で、毛利敬親に対して版籍奉還の必要を言上

・同年三月に参与の広沢真臣(⇒木戸と並び賞された長州藩の旗手、若くして暗殺される)に対し「王政御一新」の「実事」をあげることの急務を書き送り、四月に柏村信(⇒長州藩士、広沢真臣の兄)に対して諸侯の領地を安堵する旧体制の課題を説いていたが、木戸の版籍奉還建言にたいする藩内の反発は強かった

・同年九月十八日、京都で薩摩藩出身の大久保利通と会談し、版籍奉還の企図を伝えた。木戸によれば大久保は「一諾尽力」を約し、木戸は同日に土佐藩出身の参与後藤象二郎にもそれを語ったようである

*薩摩藩の動きは下記のようなものであった

・慶応三年十一月、寺島宗則は上京する藩主島津忠義に対し、大政奉還に応じて「封地」と「国人」を「朝廷」に奉還するように求めた意見書を提出

・慶応四年二月十一日、島津忠義は封建制度の弊害を指摘し、朝廷に親兵創設の費用として、封土10万石の「返献」願を提出。同月、大久保利通もこの「返献」を積極的に論じるようになる

・大久保利通は木戸孝允の版籍奉還論に同意し、小松清廉(帯刀)、伊地知貞馨、岩下方平など、在京の薩摩藩有力者の合意を取り付けることに尽力する

*長州藩出身で当時兵庫県知事の伊藤博文の動きも下記のごとく注目すべきものであった

・明治元年10月、木戸と同様な郡県制論に立ち、戊辰戦争後の凱旋兵を再編して新政府の常備隊とする意見書を岩倉具視に提出した

・同年11月、姫路藩主酒井忠邦が、「皇国御一体」を目的とし「藩」という名称を改めて府県とすべきという趣旨の版籍奉還願を提出したが、伊藤がその実現を建白する

・諸侯が「政治兵馬ノ権」を朝廷に「奉還」しなければ、「武威ヲ海外ニ輝」貸すことができないとして、領地は府県に倣って処置し、藩士を抜擢して「朝廷ノ兵」とするように求め、新政府が「一大会議」を開催し、「皇国」の基本を定めるように主張した

・明治2年正月、「立君ノ体裁」を維持するとともに、「万民ノ方嚮ヲ一定」にして、海外諸国に並立し、「文明開化ノ政治」を実現することなどを掲げた「国是綱目」を提出。その建白は「兵庫論」(⇒伊藤は当時兵庫県知事)と称され、新政府の内外に大きな衝撃を与えていく

*一方新政府動きは以下のような状況であった

・明治元年七月、江戸を東京と改め、天皇の「親臨」と万機の「親裁」を強調した勅書を発する

・同年十月十三日に東京(江戸)城に入り、十八日に鎮守府を廃し、十二月には会津、仙台等の諸藩処分、陸奥、出羽両国を七分国とすることなどを決める

・岩倉の信任を得ていた参与福岡孝弟は、伊藤の奉還実施論に注目し、議事体裁取調(⇒議院制度の調査)に積極的で、岩倉に対して伊藤の「一大会議」を開催するように求め、来春に諸侯が東京に集まる機会を逃さないようにと提言している

・同年十二月十四日、岩倉は木戸を招いて意見を聞いた。その際木戸は「一新之際」を強調し、「一旦束て朝廷」に奉還してその後に一定の規則を立てるように言上した



2 版籍奉還の上表

東京から京都に還幸する(明治元年12月8日~22日)天皇に同行していた大久保利通は、同年末から翌年正月にかけて、版籍奉還論に関し、岩倉具視、長州の木戸孝允・広沢真臣、薩摩の小松帯刀・吉井友美・伊地知貞聲らと会談を重ね、岩倉に対しては京都で木戸との調整を画策し、薩摩藩に対しては長州藩への「信宜」貫徹を強調していた。

長州藩の広沢は版籍奉還論に関して、明治元年12月に兵庫で伊藤博文に会った翌月1日に京都にて世子の毛利元徳から下問を受け、在京の土佐藩主山内豊範に呼びかけて同意をえていた(⇒同月14日以前のはず)。

明治2年正月14日、京都の円山瑞療に薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助(⇒土佐藩参加の背景は戊辰戦争での活躍だろう)等が集まり、三藩による「土地人民返上」の会議が、広沢の主導で開かれた。まず三藩が同心・戮力して朝廷を輔翼することに合意した。会議の概要は大久保が岩倉に宛てた書面に記載されている。18日には肥前が加わった「薩長土肥御連盟御建白書一件」が「治定」となり、20日に「重臣一同」が参朝して、毛利敬親、島津忠義、鍋島直大、山内豊範の四藩主名の上表が行われた。その後、因習(鳥取)・佐土原(宮崎)・越前・肥後・大垣・米沢などの奉還願いが相次いだが、版籍奉還の上表は、諸藩が必ずしも大隈重信の「昔日譚」に記されたような、「判物の書換」に欺かれて提出したわけではない(⇒諸藩の上表提出には各藩なりの判断があった)。



*最終段階で肥前藩が加わったのは、広沢が同藩の戊辰戦争での活躍と前藩主鍋島閑叟の影響力を考慮し、19日に大久保と相談して同藩の副島種臣と大隈重信に呼びかけたようだ。副島・大隈は直ちに同意し、閑叟も「一夜御熟考」の後に合意したとのこと

*米沢藩の上表は3月14日に出されたが、可否判断の手順は下記のように妥当なものであった(⇒諸藩の検討の一例)

21日に、藩主上杉茂徳が東京藩邸において薩摩・長州両藩の上表提出を知る

・茂徳は外交方の宮島誠一郎等に諮問し、宮島は24日に四藩の版籍奉還を正しく評価して、同藩が新政府に協力する必要を進言

・宮島は6日に勝海舟を訪問、7日に上杉家と縁戚の土佐藩西野彦四郎に面会して、西野から郡県制が列強諸国に対峙するための良策であるとの説明を受ける

・宮島は215日に「版籍返上郡県論」を書き上げ、帰藩する奉行の中条豊前と御仲間之間年寄の木滑要人に手渡す

・米沢に帰着した茂徳は藩内の意見を徴し、時機を失しては上杉家の「瑕瑾」になると断じて、38日に中条と木滑が東京藩邸へ向かう

・宮島等が「献国之草案」を準備し、同藩の公議人(⇒公議所[2]の議員)が314日に願書を提出



3 侯伯大会議の開催

明治2年正月20日に行われた、薩長土肥藩主による版籍奉還の上表以後、木戸、岩倉、大久保は、その趣旨を全国にわたり実行可能にすべく迅速な行動を開始した。木戸は天皇の東京再幸にあわせての奉還を企図し、岩倉は上局会議[3]として「侯伯大会議」を予定するとともに薩長両藩への勅使を具体化した。しかし、京都や東京の政府内にも、薩摩、長州の藩内にも、木戸や岩倉や大久保などの思惑に反する状況も存在していた。

岩倉は東京での「侯伯大会議」の開催と、そこでの版籍奉還問題の推進に全力を傾注し、天皇は3月7日に発輦して3月28日に東京に到着した。版籍奉還問題について岩倉と密議を重ねていた木戸は、四藩の上表後の再幸にあわせて、数十藩が奉還上表を行い、政府がそれを断行できるように企図し、三条実美は54日、薩長土肥の公議人を招いて、版籍奉還に関する「機務」を下問し、郡県制の是非についての意見を徴し、517日に答申が行われた。

同時期に公議所では郡県制への移行が議論され、軍務官判事議事取調兼務の森有礼が54日に「御国体之儀ニ付問題四条」を提起して、それを「衆議院」連名の議案としてしている。版籍奉還問題に対する制度面については、制度療で具体案作成していた。岩倉は「侯伯大会議」に向けて腹心を参画させて原案の作成を試み「岩倉案」として政府会議に提示した。

東京での「侯伯大会議」は上局会議として開催され、521日に、行政官や六官の五等官以上、上級の公卿と有力諸侯の麝香間祗候(⇒名誉職)に対して、皇道興隆、知藩事選任、蝦夷地開拓の三件が諮詢[4]された(⇒知藩事選任が諮詢された。要するに天皇の命によって、廃藩置県の実行を目指したプランが動き始めた)。



*正月には、参与横井小楠が京都で暗殺され、輔相三条実美への配慮から岩倉は輔相を辞任して議定専務となっていた

*大久保は勅使を伴い2月に鹿児島入りした

*広沢は帰藩して藩政改革を進めたが奇兵隊などの諸隊の力が強いために困難が少なくなかった(⇒武力を伴った諸集団が藩の統治に影響力を持っていた)

*急進的な版籍奉還論を掲げていた伊藤博文に対しては藩内の反発が強くて兵庫県知事から同判事へ降格されていた(⇒521日)

*上京した薩摩の島津久光と敬親は3月から4月にかけて、版籍奉還の実施に際しての慎重論を強調した建白書の提出などをしていた

*東京政府においては、諸侯の議定が増員され、東久世宮と後藤象二郎が行政官機務取扱となって専権を揮っていたが、4月に東京へ戻った大久保と岩倉は「官吏公選」(⇒高級官僚による選挙)を建議し、入札(⇒選挙)を行い、議定と参与を限定して政府内の主導権を確定した(⇒公選はこの時限りであったが、明治初期は国家運営のルールが頻繁に変わった)

*森有礼(大久保より17歳年下)は大久保に対して郡県制により海外に応じることの必要性を積極的に論じていた



4 版籍奉還と諸務変革

版籍奉還は、その断行を巡って、政府内は改革に急進的な木戸孝允、後藤象二郎と漸進的な大久保利通と副島種臣の対立が生じたが、調整を重ねた結果、明治2617日に勅許され、同日、公卿、諸侯の称が廃されて「華族」に統一された。藩主は藩知事に任じられ、25日までの藩知事任用は262藩となった(⇒この段階では藩の実質的統治は前藩主である藩知事にある)。大藩の有力家臣の地方知行[5]が廃されて稟米支給[6]に改められた。この勅許の直後に、政府は諸務変革11カ条を提示した。

版籍奉還の断行は、知藩事任用と公卿、諸侯の廃止に伴う華族の勅許が最優先され、その後に藩政の在り方や改革が検討された。この諸務変革については、大久保の原案が政府内の主な検討案とされたようである。大久保の検討案文は、625日に知藩事等に対して出された行政官達の根幹となった。それは、政府が諸藩の職制、兵制、家禄などを把握してその改革を指示するものと理解され、奉還後の郡県制への移行や各藩の改革の推進に繋がるものであった。



62日、戊辰戦争の軍功章典が発表されたが、土地の分与は行われずに禄米の支給に換えられていた。これは版籍奉還の原則に従っている(⇒俸禄に関する政府の方針がこの時点ですでに決まっていた証拠)

5日、輔相三条実美は知藩事の交代を含む急進論を提案している

11日、大久保利通は三条実美を訪ねて、奉還後も藩主をそのまま知事に任じるように論じ、翌日の政府会議でも大久保と副島種臣は同様の主張をした

*大久保利通は島津久光等の守旧的な動向に配慮して「漸次の功」を重視していた

13日、遅れて東京に到着した木戸孝允は政府内の議論の内容を知り、「前途を推考し実に慨嘆不少」であった

*伊藤博文は613日以前に、岩倉に対して、版籍奉還が名分や名義を明らかにするだけでは不十分とする建言を行っており、副島や大久保の慎重な対応に憤って辞表(⇒政府の官職、参与の辞任であろう)を提出して抗議した

*岩倉は知藩事の帰藩前の6月24日に政体下問、25日に藩政改革箇条の下付を予定していたが、伊藤の辞任で政府は混乱した。岩倉は614日に木戸のもとに出向いて説得し、三条と議定の徳大寺等に対して17日に知藩事任用するように決定を促す

15日、大久保は岩倉と木戸を訪ね。岩倉に決断を求める

17日、後藤と徳大寺が木戸を訪ね、藩知事任用断行の件で木戸と調整を重ねた

24日、奉還を奏請していなかった徳島、宇都宮など14藩にも版籍の還納が命じられる

*地方知行制廃止を先行していた藩もあった。事例は下記

・因州藩は明治2年2月10日に、米子の荒尾成富や倉吉の荒尾光就など、「着座家」と称された重臣に与えられていた「自分手政治」(⇒当藩特有の制度)という制度を廃した

・土佐藩では上表提出後3月に帰藩した山内豊範は、佐川の土居付家老の深尾重先、宿毛の伊賀氏成、安芸の五藤内蔵助の地方知行を廃止した。伊賀氏成は士分や若党を呼び出して藩主の趣意遵守を命じており、深尾重先は7月に佐川を退去し、嗣子重愛も10月に高知へ移った(⇒この事実は、実施の状況を覗わせるものである)

*(⇒617日に勅許された版籍奉還は勅許による諮詢だから、諮詢された人々は自分の意見を表明出来ることになったので下記のような意見が出た。しかし前記したように政府内の主な検討案は大久保の原案に基づいていたようである)

・岩倉は知州事制を骨子とした12箇条の案分を作成し、いくつかの懸案を掲げている

・副島は藩内の経済的情報調査、報告の実施を提起した

・三条実美は七カ条の調査項目の記した改革案を提出した

・麝香間祗候からも蜂須賀茂韶や毛利元徳らの答申も出された

*版籍奉還の勅許後に政府から出された、行政官達の諸務変革11カ条の概要は下記

・諸藩に対する、管轄地の現米総高、諸産物、年間支出、職制職員、藩士兵卒員数、支配地人口戸数などの概要の提出の命令及び家禄相応の家令[7]や家扶持数[8]の指示

・知藩事の家禄を「現石十分一」と定める

・「一門以下平士[9]」まですべて士族とする身分体系の抜本改革の命令と「給禄適宜改革」の要求

・城主格未満の末家や旧御三卿[10]に対する知藩事任用は見送られる

・知藩事の地方官的性格が強調されている



三 廃藩置県と維新政権

1        藩体制の解体

明治22月段階の新政府は、関東に東京府と神奈川県など9県を、中部には度会府(わたらいふ)と5県を、北陸には新潟府と新潟県を置いている[11]。この(⇒この地域を指すと思う)府県行政に関しては、大隈重信が政府財政の確保に向けて、明治元年から翌年78日の太政官制の改革で大蔵大輔(⇒読み方は、たゆうorたいふ)に任じられるまで[12]、監督強化と租税収奪を強行している。大隈の元には井上馨、伊藤博文、五代友厚らの「西洋主義者」が結集していた。39月には参議[13]に任じられた大隈が大輔を務める大蔵省は政府の財政難救済のために全国的増税策を進めたが、この新政府の地方政策に対しては、戦禍や軍事負担に伴う蜂起、農民闘争が多発していた。明治2年は特に東北地方が凶作で、3年末にかけて、帰農に伴う諸負担に反発した仙台藩士の蜂起を含めた農民闘争が発生した。4年の2月に発生した福島県の伊達郡での暴動には二万人が参加したと言われている。

政府では、昨年提示した諸務変革11カ条に続き、明治39月に「藩制」を頒布(はんぷ)して、三治一致を進めた。これは要するに府県藩の経営合理化を政府が指導する事で、特に藩については大中小の三ランクに分けた上で、職員数、藩高に対する海陸軍資、公廨費[14]などを定めている他、藩債の「償却」義務化、藩札回収指示などがなされた。集議院[15]での禄制改革の審議において、無条件に禄米の平均化を主張した藩が23藩あった(⇒多分、小藩の茹でガエル状態の事例としての記述だろう)。また、有力藩も旧禄の十分の一程度の削減を余儀なくされた。

政府の府県藩三治政策、版籍奉還とその後の諸務改革のなかで、中小藩の廃藩が現実化し、明治4年7月14日の廃藩置県に至るまでに16藩が廃藩となり他藩への併合や県へ移行した(⇒藩の経済的破綻の明確化が改革の要)。御三卿の一橋家と田安家を除く大藩では盛岡藩が含まれている。盛岡藩と対照をなすのは米沢藩で、戊辰戦争で四万石の冊封処分を受けたにもかかわらず、明治3年以降の急進的な改革によって切り抜けている。



*大隈参議大蔵大輔の大蔵省は、戊辰戦争の当初に掲げた年貢半減令を撤回し、旧幕府や旗本領などの年貢納入分に対する免除額を三分の一以内に留めた

*明治2年の東北地方の凶作で、旧仙台藩に設置された白石(角田)県では、戊辰戦争の戦禍と凶作を理由に貢租の軽減を求める農民闘争が激化した。胆沢藩では3年に減祖を要求する農民、さらに帰農に伴う諸負担に反発した仙台藩士が蜂起した

*明治42月には福島県の伊達郡で暴動が発生し、参加者は二万人に達したという。権知事[16]や県の官員を攻撃し、菊紋入りの「御旗」を焼き捨てた

*大隈重信は明治38月、大蔵省内に改正掛を創設し、自身も312月にいわゆる「大隈参議全国一致之論議」を作成し、理財、会計を一致して大蔵省が管掌し、「庶務百事」を民部省の管轄とするなど、「画一ノ政体ヲ立定シテ之ヲ全国ニ施行ス可キ」ことを企図した

*廃藩を願い出て府県や本藩に併合された後は、旧藩主に家禄として現石の十分の一が与えられ、士卒は合併後の藩や県の貫族[17]とされた

*明治4年時点で、諸藩の債務残高は少なめに見ても1年間の歳入全額を超えていた。債務と歳入の比率は鹿児島藩や山口藩等の「勤王」有力藩は相対的に低く、小藩ほど高い

*大藩の盛岡藩の場合には、戊辰戦争の処分で20万石が13万石に削られて磐城国白石に転封を命じられていたが、旧領復帰の運動をくり返し、70万両の献金を約することで、27月に盛岡への復帰が許された。しかし同藩の献金は滞り、藩内の旧守派に対する処分も十分ではなかったことから、白石に設置された三陸磐城両羽按察使の巡回、弾正台の出張、糺問(⇒糾問)を受け、35月に廃藩を願い出て、7月に許可され、盛岡県となった

*大藩の米沢藩の場合は、戊辰戦争で四万石の削封処分を受けたが(⇒結果147千石に)、明治3年に入り、情報収集を進めながら急進的な改革を進めていた。それは、「朝敵」とされた米沢藩の復活を企図したもので、高知藩に倣った方策であると同時に改革派の諸藩と連繋したもので、「皇国一致」を掲げる積極的な施策となっている。概要は下記

・「藩政」公布後は、宮島誠一郎(吉久)らが収集した情報を元に、藩重役が三条実美、大久保利通等と頻繁に接触している

11月には藩知事上杉茂徳が板垣退助や鹿児島藩の吉井友美らを東京藩邸に招き

・明治4年以降は、「人民平均之理」を掲げた高知藩との連携を強めていた

・明治44月には「四民平均」の改革を「決評」し、515日に四カ条の「闔藩士民[18]自主自由ノ権ヲ得セシムル伺い」を政府に提出している。その内容は、士族や卒の「常職」を解いて自主自由とし、「禄券」を発行して家産と見なし、数年後に買い上げること、「廃刀」「活業」を許すことなどの願い出であり、政府がこれを許可していた(⇒当時から100年ほど前の上杉鷹山の米沢藩改革を思い出す)



2 三藩親兵と廃藩論

明治2617日に勅許された版籍奉還と政府が提示した諸務変革11カ条および翌年9月に頒布された「藩制」によって藩体制の解体は現実化していく、と同時に諸抵抗も顕在化してくる。藩経済の破綻やそれに基づいた秩序破壊や新政府の集権的施策に対する反発の他にも、攘夷から開国へと方向を転換した新政府に対する攘夷論者や守旧論者の反政府的行動も少なくなく、また、新政府内における政府改革についての意見も統一されているとは必ずしも言えなかった。

従って、新政府にとっては、統一した意思決定の仕組みの模索、廃藩後の地方統治方法、政府の軍事力確保は根本的課題であった(⇒薩長によるクーデター直後のこの時期における喫緊の課題は、暴力的反政府行動を新政府として制圧可能な軍事力の保持であったろう)。そのためには、鹿児島、山口、高知の三藩はもとより、戊辰戦争で新政府側に協力した名古屋、福井、徳島、鳥取などの有力大藩、新政府にとって役立つ力を持つとともに改革に積極的とみられた熊本、佐賀、彦根および米沢などの藩の取り込み、そして強力な改革推進者達の参画と合意が必要であった。

大納言[19]岩倉具視は明治3年中頃には政府の将来的な在り方の追求や郡県制を基本とした「政令一途」を企図するようになり、明治4年初め頃には有力大藩を集めた会議を計画している。高知藩を筆頭とする改革派の諸藩の中では、明治4年春頃には「人民平均」を具体化した上で、政府が議院を開くという考えも醸成されていた。

明治2年正月の横井小楠の暗殺に続き、同年9月に兵部大輔[20]大村永敏(⇒長州藩出身、益二郎)が山口藩関係者に襲撃されて11月に死去する。明治211月、山口藩は諸隊改編令[21]を発し、そのことで多数の兵士が脱退し、明治3年正月に知藩事の山口公館を包囲する「脱隊騒動」が発生した(⇒2月11日、木戸孝允は藩兵を率いて脱隊兵を鎮圧している)。山口藩脱退兵の大楽源太郎[22]は、日田県[23]庁襲撃を企図した周防大島襲撃後に、九州の反政府士族河上彦斎[24]のもとに逃れ、久留米藩[25]大参事水野正名[26]、応変隊[27]参謀小河真文[28]らに匿われていた。明治2年~3年にかけての、このような反政府運動に対して、参議木戸孝允は大楽らの暗躍を憂慮し、政府は2年12月に陸軍少将四条隆謌を巡察使任じて兵部省直属の兵員を派遣し、また、弾正少忠[29]の河野敏鎌[30]を日田県に出張させた(⇒山口県脱退兵の策動を鎮圧するため。311月)。明治4年正月に参議広沢真臣が暗殺され、同年3月に華族の外山光輔と愛宕通旭を盟主とする攘夷派の政府打倒計画が発覚し、政府は弾圧の徹底を余儀なくされていた(⇒外山と愛宕は37日に逮捕後12月に自刃の処断、久留米藩大参事水野正名は314日に河野敏鎌に捉えられ、後に弘前監獄で獄死)。

このような状況において、岩倉は島津久光や毛利敬親、そして鹿児島藩士族に絶大な影響力を持つ西郷隆盛を政府に取り込むことに尽力し、参議大久保利通も鹿児島藩の取り込みに注力し、兵部少輔山県有朋も、政府の軍隊について重視する部分には相違があるものの西郷隆盛を上京させることについては同意している。明治31218日、勅使として岩倉は大久保と山県とともに鹿児島に入り、忠義と久光へ勅書を与え、両者が「王室ノ羽翼」「国家の柱石」であることを強調している(⇒承認欲求を満たす力の行使だろう)。明治3年末頃に西郷隆盛の政府への取り込みに成功した後、明治4年正月7日に岩倉は西郷を伴って山口に入り、敬親にも勅語を授けて上京を促した。大久保と木戸の両参議らは西郷の意向を受けて高知藩に赴き、明治4年正月19日、高知藩大参事板垣退助らと会談し、高知藩にも政府改革に参加するように求めた。かくして大久保、西郷、木戸、そして岩倉が東京に帰着すると、明治428日に三藩親兵の上京に向けた会議が三条実美の屋敷で開催された。翌日の三職会議[31]で鹿児島、山口、高知の三藩の兵を徴して御親兵[32]とすることが合意されている。

三藩の兵の東京集結が具体化した後に東京に戻った木戸孝允は、611日に岩倉に対して「天下速に一途に帰し諸藩の方向弥一定する」ことの必要を伝えた。これは版籍奉還を第一段とし、第二段に「此期を以て諸藩へ同一の命を下し、帰一の実を挙げん」という廃藩へ向けた思いであった。政府改革案に関して大久保等と木戸孝允は対立していた。木戸は伊藤の進言もあって、大納言と参議の必要を強調し、それを上院にあたる議政官にすることを主張している(⇒木戸は議会の重視、大久保と岩倉は行政制度重視であったと思う)。大久保は木戸を参議に擁立することを提起したが、木戸はこれを固持して膠着状態となった(⇒木戸以外の参議[33]は全員辞任して、三藩の行政参加代表を木戸に一人にするという意味だと思う)。しかし、木戸は6月25日には西郷とともに参議を受諾し、7月には制度取調会議[34]を開催していた(⇒意見の相違があったとしても、国家のルール作りに大久保も木戸も岩倉も西郷も参加したことに意味があるのだろう)。



*明治36月、大納言岩倉具視は中弁[35]江藤新平に華士族の処遇、公家や諸官人の奮起など「皇国ヲ超スノ旨」の作成を指示していた

*鹿児島の意向にも配慮した政府改革の方策を岩倉に提示していた参議大久保利通は、明治21027日の政府会議でその意向に沿った合意を獲得していた

*大久保は、明治32月に帰藩していたが、(⇒東京に戻っていたので)改めて兵部大丞西郷従道を鹿児島に派遣している

*三藩親兵上京についての西郷隆盛の意向は、諸藩の精兵を上京させて「禁闕ノ兵」とすることにあった

*兵部少輔山県有朋は「国民皆兵」を原則としながらも「徴兵規則」に基づく兵制確立の困難に苦心していた。鹿児島藩兵を親兵とすることについては、同藩兵を政府の「傭兵」に切り替えることを重視していた

*三藩親兵の財源については、山県が兵員要請のための新たな費用を「藩力平均ノ配当」とする腹案を示し、西郷も同意した。

*鹿児島藩は明治4311日~12日に五小隊を東上させ、29日には藩知事島津忠義が上京し、同藩の親兵数は四大隊、四砲隊で3174人となった

*山口藩は木戸が藩力動員に慎重で、また前藩知事毛利敬親の死去があり、大久保が山口へ出張することで、木戸と山口藩知事毛利元徳が528日に着京した

*岩倉や三条は、久光・敬親を政府顧問あるいは麝香間祇候に任じ、「納言同様之心得」を命じて、「大政ニ参与」させることを企図していた(⇒天皇がトップだから政府への参加を命じる)

*明治4年初め頃、岩倉は鹿児島、山口、高知に加えて名古屋[36]、福井[37]など国事諮詢に任じることし、有力大藩会議を計画している。正月27日には大徳寺大納言邸で徳島藩主蜂須賀茂韶、鳥取藩主池田慶徳を招請した会議が開かれ、徳島、鳥取両藩[38]などから急進的な建言があったようだ

*同時期、岩倉は、上京した藩に対する「御下問案」を準備し、藩側の意見となる案文作成に着手している

・岩倉のもとで大隈が作成した「大藩同心意見書」では、藩名を廃止し、州、郡、県の三つを置くこと、現石二万石以下の小藩や県を廃止、合併するなど郡県体制を重視している

・岩倉はこの「大藩同心意見書」作成過程で、名古屋、徳島両藩の意見を集め、大藩側の合意としてとりまとめ、「廟議之根本」とすること企図していた

・岩倉は鳥取、熊本、佐賀、徳島あるいは米沢藩の「大ニ進歩」にも注目し、「集義」に加えることを画策している

*岩倉は、要するに、大藩の知事や大参事を召集して政府から「御下問」を行い、その上で藩政「一途」と前途の目的を確定させることを提案したのである

*同時期には改革派の動きも積極的であった。明治四年以降、米沢、福井、彦根などの改革派諸藩は政府改革を企図した運動を展開している(⇒高知藩はそれ以前より運動していたのだろう)

・明治4414日、高知県を中核としたいわゆる改革派の諸藩が一堂に会した集義には、板垣退助をはじめ、熊本藩の権大参事米田虎夫(⇒後に宮内省官僚など)、徳島藩の大参事小室信夫(⇒後に実業家、代議士)、彦根藩の大参事谷退鉄臣(⇒医者から藩士へ、後に、左院一等議官、宮内省官僚)、福井藩の大参事小笠原幹(⇒後に、秋田、埼玉県知事)、三条家の家令森寺邦之助、そして米沢藩の権大参事森三郎と宮島誠一郎(⇒前出。後に官僚、貴族院議員、民権運動で板垣と対立)が出席していた

53日に福井藩の小笠原が鹿児島藩出身の吉井友美民部大丞に会い、「人民平均」を具体化した上で民政と兵制を確立する必要を主張し、政府が議院を開くように要請している。吉井は西郷隆盛にそれを伝えたようで、「議院之事件」については、小笠原を通じて鹿児島藩を説得することが確認された[39]

・改革派諸藩会の目的は、「薩之方角決定ト議院御開之両条」となり、510日と14日には改めて小笠原が吉井に面談している

58日には板垣と西郷が対談していた

・岩倉への「議院云々」を小室が担当し、三条には森寺らが説得にあたっている

・岩倉も、板垣が「公平論」を唱えて諸藩の大参事が進歩し、「公論」が行われるようになったと理解していた



3 廃藩置県の決断

明治479日夕刻から、鹿児島藩と山口藩による廃藩を決断する密議が木戸邸にて行われた。参加者は山口藩から木戸と井上と山県、薩摩藩からは西郷と大久保と西郷従道と大山巌が参加し、主役は木戸と西郷及び大久保であった。軍事力行使もいとわないことも決められ、兵員は西郷が、資金は井上が担当した。廃藩の発表は、知事を上京させてから行うのではなく、直ちに行うことに決まった(⇒版籍奉還は天皇に土地を返還することを意味するが、廃藩とは藩という一つのクニが消滅することを意味する。薩長だけでこれを決断した新政府の実力者達の、この時点での夫々の本当の判断根拠には興味がある)。

この密議の内容は712日に三条と岩倉に伝えられた。鹿児島、山口両藩をはじめとする有力藩の一大会議の開催を準備し「大藩同心意見書」(⇒大隈が岩倉のもとで作成)作成などに尽力していた岩倉は狼狽し「恭悦と申迄もなく候得共狼狽」[40]であった。同日三条のもとへ向かう岩倉に対して、大久保は、王政復古の際の心境を伝え、必ず廃藩断行の裁断を下されるよう釘をさし、「大を取而小を去ル之趣意」で決断、同意したと岩倉を説得した[41]



*ことのきっかけは、山口藩出身の兵部省出仕鳥尾小弥太と野村靖(和作)が、兵部少輔山県有朋の麹町の屋敷で語っていた「封建を廃し郡県の治」を求める議論であったらしい[42](⇒間接情報が根拠だが)。しかしこの事態の急変はいくつもの背景から理解することができる

・山県はこの論に直ちに同意したが、それは以前から兵制の統一を急務と考えていたからだろう。そして次のような手順を示したという。長州藩出身の大蔵少輔[43]井上馨を通じて木戸に廃藩実行を迫り、つぎに参議の西郷隆盛に持ちかけると

・井上は直ちに同意した(⇒大隈の元で急進的政府改革実施中だから当然だろう)。山県は井上の同意を確認してから西郷隆盛の屋敷へ出向き、兵制改革を進めるためにも、「封建を打破し郡県の治」が不可欠な旨を述べたという。「廃藩置県に着手」されてはどうかと山県が話すと、西郷はその通りだと答え、「木戸の意見はとうか」と述べた。

・山県が西郷に重ねて廃藩について問うと、西郷の返答は「それは宜しい」の一言であったという。西郷が直ちに同意したのは、廃藩置県へ向けた動きを理解していたからだと思われる(⇒前述の米沢藩関係者と鹿児島藩関係者との会談等)。また、このことは後日の鹿児島の桂久武に宛てた書状でも確認できる

・木戸は明治4年7月7日に井上馨から廃藩へ向けた急展開の状況を聞かされた。かねてから木戸は「尾大の弊」を指摘し、三藩の協力で廃藩の方向へ進めようとしていたから、西郷の同意を聞いて快心の思いであったに違いない

・大久保の廃藩置県に対する心境は、井上が後年に、「やりたいと伝ふ心は皆あるけれども、やって是が遂げられるゝや否やといふ事が、非常に苦心であった」と評したのが妥当である



2        廃藩置県と維新政権

明治4714日、京都の宮城にて廃藩置県の勅語が下された。勅語と勅書が出される順番や形式には、薩長土肥の四藩の版籍奉還以来の実績が強調され、「天下一般帰着する所」を確然とさせる姿勢が貫徹されていた。

薩長による廃藩置県と言ってよい状況に対しては、当然様々な反発が起こったものの、「天下一般帰着する所」という理解は浸透していたようだ。従ってその時には大きな抵抗が生じることなく断行された。しかしながら、急激な変革がその後に与えた影響は少なくない。それは、士族の特権の喪失によるものはもとより、農商工民の生活全般に関わるものであり、廃藩置県後の新政あるいは急速な開化にたいする不安と反発を増幅し、府県はもとより明治国家の大きな課題となった。



*最初に勅語が下されたのは、鹿児島藩知事島津忠義、山口藩知事毛利元徳、佐賀藩知事鍋島直大、高知藩知事山内豊範の代理板垣退助に対してだった。天皇が宮城(⇒当時はまだ京都)の小御所代に「出御」して彼らを招見し、右大臣三条実美が勅語を宣した

・岩倉が廃藩断行の特別な藩と位置づけたのは、名古屋、福井、鹿児島、山口、高知の各藩であったが、最初に勅語が下されたのは、鹿児島、山口、高知、佐賀の四藩であった

*次いで、名古屋藩知事徳川慶勝、熊本藩知事細川護久、鳥取藩知事池田慶徳、徳島藩知事蜂須賀茂韶に対して勅語を宣し、午後には、天皇が大広間に「出御」し、在京中の藩知事五十六人を前に、三条が詔書を宣した。

・詔書では、廃藩置県を国家的な課題と強調し、廃藩の断行によって、万民の保全と万国への対峙を実現することを掲げている

・当日、政府は旧藩大参事に対して、追って指令があるまでは従来通りの事務取扱をすべきと達し、東京を離れていた旧藩知事に対しては9月中に「帰京」するよう命じている

・旧藩知事の家禄は47月以前に廃藩を願い出た旧藩知事と同様に旧版現行高の十分の一、諸藩の藩札は廃藩置県当日の相場で後日に引き換えると達している

*翌15日、知事が帰藩中の旧藩に対して代理の大参事の召集が行われ、すべての藩に廃藩置県の詔書が宣せられた。旧来の府県と併せて、全国が3302県となったのである

・この15日は、廃藩置県の処置を巡る政府会議が紛糾したが、最後は参議西郷隆盛の威力が論客を圧倒した。皇居の「御舞台」で開催された大臣、納言、参議、諸省の郷と大輔の集会は、議論が声高になっていたが、それでも遅れて参加した西郷は大声で、「此ノ上若シ各藩ニテ異議等起リ候ハゝ、兵ヲ以テ撃チ潰シマスノ外アリマセン」と一喝している。西郷のこの大声で、「忽チ議論止ム」であったようだ[44]

*廃藩置県を「天下一般帰着する所」とする理解は、福井藩(⇒親藩で有力大藩)、米沢藩(⇒戊辰戦争時は反新政府側であったが、的確な情勢判断に基づいていち早く藩政奉還の上表を提出するとともに基本的に新政府側の方針に沿った行動をとった)においても確かであったようである。詔書が出された後の各藩内の状況を示すいくつかの事例を下記

・福井の城下町で廃藩置県に直面した御雇い米国人教師のウイリアム・エリオット・グリフィスは、その当日「武士の家には激しい興奮が渦巻」き、「少数の乱暴者」の反発があったことを記している。一方で、福井の「ちゃんとした武士や有力者」は、廃藩ついて「異口同音に天皇の命令を褒めた」という。彼らが廃藩置県を「福井のためでなく、国のために必要なことで、国状の変化と時代の要求」と語ったとグリフィスは書いている[45]

・米沢藩の宮島誠一郎(⇒前出の米沢藩キーマン)は、改革派諸藩の尽力とは別に、鹿児島と山口両藩の出身者が進めた廃藩置県に対しては憤慨するも、廃藩置県自体については「先此一挙アッテ一層之進歩ナリ」と評価している

・米沢藩主上杉茂徳と隠居斉憲が73日に旧藩重役を召集し、茂徳は「皇国御大事」として、朝廷ノ「御趣意」にしたがって忠節を尽くすことが、それまでの米沢藩の運動、宿志の達成に繋がると諭していた

・しかし、米沢藩大属の池田成章は、「霹靂一声」の廃藩を「土民の驚愕一方ならず、恰も暗夜に燈火を失うものゝ如し」と評していた。池田自身が「旧君を懐ふの情」が強く、新政府への士官の勧誘を辞退したという



おわりに

714日の廃藩置県で藩が廃され3302県が設置され、旧藩知事の生計と華族の地位が保証されたが、政府にとっては旧藩の統廃合を伴う新県の設置は大きな課題であった。結果としては、明治51月中には372県が設置されたが、最終決定の場である正院の参議である西郷、木戸、板垣、大隈の四人の出身藩、鹿児島、山口、高知、佐賀藩の利害が反映されたものであった。

府県の地方官については、明治4715日に有栖川宮熾仁親王が福岡県知事、20日に渡辺昇(⇒肥前大村藩出身)が盛岡県知事、22日に由利公正(⇒福井藩出身、前出)が東京府知事に任じられた。旧藩大参事は免じられて新府県の県令、参事が任命され、有力大藩は別として知事や大参事には多地域の出身者が任用された。県名の変更も行われた。これらは、旧藩の影響を少なくして中央集権的な府県行政を徹底するための政府の方針の反映であった。

多くが廃藩置県の断行を天下の大勢と見なしたが、旧鹿児島藩知事島津忠義の実父久光はそれに反発していた。大久保、西郷を含めて政府はその対策に苦慮し、俸禄や名誉などで懐柔したが容易に収まらず、これは西郷とともに上京した親兵にとっても同様であった。士族問題は政府にとって引き続きの課題となった。



*木戸は明治488日の政府会議で、元大藩の県を23にする案を発議したが、結果はこれと異なって、鹿児島、熊本、和歌山、広島などの旧大藩の領域は近隣の中小藩を吸収する程度でそのまま県域が形成された

*大蔵省は、旧山口藩は3県に旧高知藩は2県に分割して373県とする府県区画案を作成しているが、結果はこれと異なって、旧山口藩や高知藩は分割されなかった

*有力大藩は別として、大蔵省は政府の趣旨に沿った地方官の任用を行っていた(⇒この時の大蔵省の権限は内政や地方行政にも及んでいた)

*島津久光の反発に苦慮した在京の大久保や西郷らは、久光を分家させ、島津家の戊辰戦争賞典麓10万石から5万石を久光に分与させるように岩倉に要請し、政府は明治4910日にこれを許可している。また久光を従二位、忠義を従三位に叙し、岩倉も側近の山本復一を鹿児島に派遣している



[1] 慶応三年129日に京都の小御所で行われた、徳川政権に対するクーデター後の初会議、「小御所会議」において「王政復古の大号令」が発せられた。この会議には、明治天皇をトップとして、総裁の有栖川宮、藩主や高位の公家の一部からなる議定、岩倉等の低位の公家の一部や末席を占めている各藩のキーマンからなる参与が参加した
[2] 公議所は明治23月の開院し7月に集議院に改組されるまで存在した国家の会議体で、各藩一名の公議人で構成され法案制定権があったようだ
[3] 明治初年の立法機関。議定・参与などで構成され、政体の創立、法律の制定、条約の締結などを職掌した
[4] 上位の者が同等か下位の者に相談すること。明治期の諮詢機関は発案できず諮詢後に意見を述べられる
[5] 家臣に土地の支配権、つまりその土地からの収益に対する処分権を与えること
[6] 蓄えられた米の支給
[7] 執事のこと
[8] 俸禄米量のこと
[9] 平士は公的権力を持つ職務についてはいないが、戦いとなれば馬に乗って出陣するような、身分としては普通の侍というイメー)
[10] 御三卿は、八代将軍徳川吉宗の次男が始祖の田安家、同じく四男が始祖の一橋家、吉宗の長男で九代将軍徳川家重の次男を始祖とする清水家
[11] 府県は明治元年より旧幕府の直轄地で、この時点でも全国に多数存在した
[12] この間、大隈は政府の金札通用と外交問題の処理に尽力し、元年12月には外国官副知事、二年正月に参与となり及び会計官副知事を兼任
[13] 参議は実質的に政府の最高幹部。この時の参議は、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允等6
[14] 公廨費(くげひ、給与)
[15] 集議院は明治27月に公議所が改組されて発足した(⇒公議所と異なり立法権は剥奪されていた)
[16] 規模の小さな地方行政区画の知事
[17] 明治時代の戸籍上の居住地方行政区画に住んでいる士卒。士卒と士族の区分は多様
[18] 闔藩(こうはん)は全藩、士民(しみん)は士族と平民
[19] 明治278日に太政官に設置され明治4729日に廃止された行政の重要役職
[20] 国の防衛と治安維持を管轄する機関である兵部省の次官
[21] 版籍奉還後の山口藩の兵士削減策、奇兵隊など平民出身者が冷遇された
[22] 尊皇攘夷派の長州藩士、反政府分子の嫌疑多く、明治4年に応変隊員により斬殺される
[23] 明治政府が慶応四年に設置した県、現在の大分県と福岡県東部に相当する
[24] 攘夷派の熊本藩士、佐久間象山の暗殺者、危険人物と見られ明治4年に小伝馬町で斬首
[25] 幕末には攘夷派と佐幕派の争いで消耗し、反政府分子の土壌あり、廃藩置県で消滅
[26] 大参事として藩の立て直し実施中、尊王攘夷派への藩の関与嫌疑で自身が調査中捕縛され、明治五年11月に弘前監獄で獄死
[27] 久留米藩尊皇攘夷派水野正名が創設した、武士・町民・農民混成軍団
[28] 新政府に対するクーデター計画に連座した尊攘派久留米藩士で、新政府に逮捕され斬罪
[29] 警察官僚16等級中8等級
[30] 1844年生まれの土佐藩郷士、後に立憲改進党副総理、文部大臣等歴任
[31] 総裁、議定、参与による当時の政府の意思決定会議
[32] 新政府直属の軍隊で、当面天皇及び御所の護衛を目的とする
[33] 岩倉、大隈、広沢が暗殺されているから他二名だと思う
[34] 明治憲法制定のために設置された「制度取調局」の前身だと思う
[35] 明治時代初期の太政官制下で明治2年7月に制定されていた太政官に使える官職名
[36] 御三家筆頭藩だが、戊辰戦争以降新政府側で活躍。何故それが可能であったのかの謎は未解明と思う
[37] 親藩かつ御家門だが、戊辰戦争以降新政府側で活躍する。由利公正、橋本左内等輩出
[38] 鳥取は池田家の大藩で家格も準親藩、戊辰戦争でも活躍。徳島藩は藍商人の経済力かな?
[39] 「明治四年日誌」国立国会図書館憲政資料室『宮島誠一郎文書』
[40] 「岩倉具視書翰」明治四年七月十二日『岩倉具視関係文書587
[41] 『大久保利通日記2』明治四年七月十三日の条、178
[42] 徳富猪一郎編『公爵山県有朋伝 中』
[43] この時点では、大輔は大隈重信と思うが、廃藩置県後に井上は大輔となる
[44] 『保古飛呂比 佐々木高行日記5』東京大学出版会⇒現場にいた著者の記録なので事実だろう
[45] グリフィス『明治日本体験記』山下英一訳、平凡社、1984