地租改正と地域社会(奥田晴樹)
プリンセスミチコ |
「 」内は本文引用、( )内は小生補足、何れも原則。
*印と・印は補足したい少し詳しい説明の箇条書き
はじめに
地租改正は、明治国家の経済と財政基盤を創出する扇の要となる改革であり、地所の私的所有を前提した租税の徴収(地租)制度の改正であり、地価を前提する地券制度(程なく土地登記制で代替)を要するものであった。
一 地券調査
1 土地・租税制度改革の起動
「石高制」による「村請制」で徴収されていた近世の年貢諸役のしくみを、全国規模で近代的な土地制度とそれに基づく租税制度へ改革する国家事業が始まったが、理念の実施に際しては、村請制や石高制などの歴史の規定を受けることになった。
*土地は領主が「領知」し領民が「所持」し、経済的価値は米の「石高」で表示されていた
*明治政府の固有財源は、廃藩置県によって全国の貢租徴税権を完全に掌握することで可能となった
・当初は禁裏御料の3万石、次に「王土」論に基づく諸藩などからの「領知」の回収(幕府領、旗本領、寺社領、廃藩藩主領)で廃藩置県までには三府四一県の直轄地の獲得
・そして、廃藩置県で全国からの徴税による財源確保へ
・しかし、貢租の賦課内容や徴税方法は、個々の領主-領民関係の多様性に制約された
*村請制は、土地の私的所有と流通に基づく地価の評価およびその法的保証の妨げとなり、石高制では、土地の価格評価が出来ず、したがって貨幣による徴税もできなかった
*石高制と村請制に代替する土地、租税制度の模索は、近世国家の解体と並行して始まっており、これを推進していた旧幕僚の力量が新政府の力となっていた
・文久期以来、この問題に先駆的に取り組んできた旧幕臣の洋学者神田孝平により、明治2年には、地価を定めて定率課税をするという、地租改正の原型改革案が提議されていた
・町地の地所の売買は明治以前から行われており、その際には町役人の公証のもとで「沽券」が交わされていた(⇒沽券:地所の売買契約書。権利証としても機能した。江戸時代は火事が多く、家屋の価値は記載していない。「沽券にかかわる」の由来)
2 地券調査の開始
明治4年12月から翌年にかけて地券の調査が行われたが、途中で公布方針が変更されたり公布までの期日の設定が短すぎて非現実的であるなど、そのやり方は拙速に過ぎていた(1872年の干支に因んで「壬申地券」と呼ぶ)。だが、その理念は、従来の沽券に代わるものとして市街地の地所全体を対象に交付されるものであり、「所持」は近代的土地所有へと転化されるものであった。
*地券調査は町地からはじまり田畑(高請地)へと拡大されて行われた。というのは、町地は、近世において「領民」が「所持」していた地所のうちで、売買、相続、等々の処分や、使い方に関して、領主から特段の規制を受けなかったからである
・明治4年12月27日付、太政官布令:東京府管内で、武家地と町地の区分廃止及び地券の発行及び地租の上納の通達
・明治5年1月付、東京府宛て大蔵省達:太政官布告の実施手続
・明治5年2月15日付、太政官布告第50号:地所一般の永代売買の解禁と所持に対する身分規制の解除
・明治5年2月24日付、大蔵省達第25号:地券は地所の譲渡、売買時に交付となる
・明治5年7月4日付、大蔵省達第83号:地券は全ての地所に一斉交付と方針変更なり、しかも作業完了期限をわずか3ヶ月後の同年10月中とした
3 地価課税移行への動き
「壬申地券」による地価課税移行への動きは拙速なだけでは無く、田畑貢租の全面的金納化という政策的大転換も含んでいた。
そこには政府内の主導権争いがあった(毛利敏彦『明治六年政変』中公新書1979年)。明治4年11月12日、岩倉使節団が欧米回覧へ横浜港から出発した。留守を預かった政府首脳達は、使節団に近代化のそして政府の主導権を奪われることを懼れ、彼らが帰国する前に諸改革を実施しようとしたのである。
*早急な地券調査の促進措置の事例
・明治5年7月4日付の大蔵通達83号から21日後に再改正された「地券渡方規則」94号に、人民の希望に基づいて地券の合筆記載が許可された
・大蔵省租税寮は、明治5年9月付の各府県宛達で、政府中央で検討中の法案を参考に、府県の地券調査を進めさせようとしていた
*政策転換の目論みがなされたと思われる事例
・明治5年8月12日の太政官布告第222号で、田の貢租は米納から希望があれば金納(石高納)を許可し、畑の貢租は明治4年5月8日付の太政官布告で全面的に金納化したが、米納を条件として例外が認められた
・明治5年10月中の地券公布完了期限の設定は、上記の政策転換と併せ読むことでも、同年分の貢租から地価定率納税への全面切り替えを目論んだことが推測される
*明治5年は改革ラッシュであり、結果は財政に跳ね返った
・「学制」の頒布、鉄道の開業、官営模範工場富岡製糸場の開設、「徴兵告諭」の交付など
・官吏の月報二ヶ月分を浮かせる算段として、翌年が閏年になるのを回避して明治5年12月3日を明治6年1月1日(1873年1月1日)と制定したほどであった
4 地券調査の実態
地券調査の実施は困難な大事業であったが、その調査の終局状態の把握は(現時点では)困難である。増租であったのは確かのようだが、増租の形態や性格がどのようなものであったのかは、今後の事例研究の蓄積を待たなければならない。
*当初は全地所の区画(一筆)づつ交付することになっていたが、それに必要な用紙の調達さえもが困難であったと推測される
*地券調査の実態の研究例から
・全体の概況については、途中で作業を打ち切って地租改正へ直行したケースもあった
・市街地に対する作業は複雑な様相に遭遇した。例えば、町地と武家地の関係、高請地の市街化、寺社地や墓地、河岸や道路の処置など
・郡村地での調査例では、村で保管されてきた土地「所持」台帳(検地帳)に準拠して実地測量作業を最小限に抑えようとするケース、反対に検地帳と実地測量との乖離に気づいて実地測量作業に熱心に取り組んだケース、村請制規範下における村落秩序に基づいて村落の要望によって錯綜した耕地状況の解消を企てたケースなどがあった
・壬申地券が交付された地所に対する貢租が増租となったかどうかについては、例えば埼玉県域ではかなり増加した事例が見られるが、「増租は村落秩序の許容範囲内に止まる性格のものだ、との見方もある。」(つまり、村落秩序の現実に合わせて数字がつくられた?)
5 地券調査の難航
地券調査は、全国各地の歴史的・社会的実情把握が不十分なままに実施された政策であった。そのことは、例えば七尾県から大蔵省への申し立てとその回答や、各府県からの問い合わせに対する大蔵省達118号にみられる泥縄的対応(互いに無関係な問い合わせに対する回答の羅列など)からも伺うことが出来る。
6 地券課税移行の挫折
結局、全府県で壬申地券の交付を明治5年10月中に完了することは到底不可能となって、同年分からの地価定率金納税移行の企ても挫折した
二 地租改正
1 「地租改正法」の成立経過
「地租改正法」は明治6年7月28日付で交付された。近代国家への途上において行われたその成立経過は「はなはだ不完全ながら租税協議権思想によって立法手続きが進められようとした点では、維新後最初の「近代法」と言えようか。」
同法公布の少し前には、太政官布告によって、田畑の数量表示に「石高」を用いることが禁止された(「石高」表示によるランク付けが終焉した)。
*大蔵省は、明治6年1月31日付の達7号で「地方官会同」の招集を達する(大蔵省という当時の行政の中心組織が、まだ確立していない議会の存在意義は理解していたのだろう)。
・大蔵省は4月12日に「地方官会同」を開会し、急遽策定した「地租改正方案」をそこでの審議に付す
・同年4月付で配布された地方官会同の「議事章程」の題言で、大蔵大輔井上馨(欧米回覧中の大蔵郷大久保の代理)は議員に「立法官」として審議臨むように求めている
・左院には地方官会同を国会開設の端緒にしようという動きもあった
*政府の各省は、管掌する近代化諸政策実施の優先順位と財源確保を巡って競合し、また大蔵省との対立を深めていた(権力闘争を巡る国家の調停機構・能力はまだ不足していただろう)
*会同開催中の5月7日付で、井上馨と大蔵省三等出仕の渋沢栄一(元幕僚)が、「このままでは財政破綻と増税は必至だと断定した」建議を正院内閣に提出し、この内容が政府の布達類などの普及にも一役買っていた『日新真事誌』に掲載された
*正院内閣は、5月9日付で参議の大隈重信を大蔵省事務総裁に任命し、同省の直接掌握をはかり、大隈は他の諸討議案をすべて棚上げにして「地租改正方案」を早急に議決するよう求め、これを受けて、地方官会同は、審議不十分な状態で5月12日に同案を可決する
*正院内閣は、5月14日付で、井上馨と渋沢栄一を罷免する(明治6年5月政変)
*大隈の大蔵省は、地租改正実施案を取り纏め、5月19日付で正院内閣に提出、同案は正院内閣でしばらく検討に付されるが大蔵省の督促で打ち切られ、明治6年7月28日付で「地租改正法」として公布される
2 「地租改正法」の内容と問題点
「地租改正法」は、「上論」、太政官布告第272号、「地租改正条例」、「地租改正施行規則」、「地方官心得書」から成る。「上論」の目的は、税法を「公平画一」にすることであった。太政官布告第272号は、「地券調査」によって地価を決定すること、地租は地価の3%とすること、従来、官庁郡村の「入費」(経費)などで、地所に賦課したものについても、地租の三分の一を限度として、地価に賦課することが達せられていた。「地租改正条例」と「地租改正施行規則」には地価の決定作業手順などが記されていた。
「地租改正法」の問題点は、「人民申告依存方式」へ傾斜していたことに起因する。これは、地券調査が村請制の規範下にある近世以来の村落秩序に依存していたのと同様であった。この問題点の結果は、府県の大幅な減租をもたらすものと予想される。
*「地租改正施行規則」には、地価は人民からの申告額を検査例による査定額と照合して決定することが定められていたが、実際は机上の空論であり、「人民申告依存方式」であった
・検査例では、地価は、収穫米の代金から種肥代と地租・村入費を控除した額を利子として、資本還元方式で算定することになっている
・検査例には、自作地の場合の第一則と小作地の場合の第二則があるが、実際の作業では自作地でも第二則を用いることが規定されている
3 改租事業の停滞と減租結果の見通し
改租事業は政局の影響を受けて停滞した。朝鮮遣使問題、岩倉使節団本体の帰国(明治6年9月13日)を機に激化した政府首脳間の政争、明治6年10月政変、翌7年は佐賀の乱と台湾出兵が続いた。台湾出兵処理のための北京談判で政府の実質的最高指導者である参議兼内務郷の大久保利通は殆ど東京に不在であった。しかも、その間に改租の結果が地租の大幅減収となる見通しが浮上してきた。
4 拙速方針への転換
明治7年10月31日に台湾出兵を巡る日清交渉が妥結して同年11月26日には大久保利通が帰国した。大久保は改租事業の停滞に対して、まず事業の促進措置を施していった。「地租改正法」が定める漸進主義が撤回され、地価の決定に関する官側の査定額決定方式も検査例第二則ではなくて第一則方式へと転換され、遅くとも明治9年分から改正地租へ移行すべく各管内一律の改租石代を用いた全管一致主義に立った拙速方針へと転じていく。
5 改租方針の転換と地域社会
改租方針の転換に対する地域社会の反応及び変化について、著者は明治8年から9年にかけて和歌山県那賀郡などで発生した三つの事例に即して次のように述べている。
「地域社会とその住民は、地租改正によって揚棄されようとする石高制---村請制の規範にあくまでも依拠しつつ、自分たちを「富民」化する契機へと、改組結果を導こうとしていたことがわかる。そして、改組事業の方針転換によってそれを阻止されたところでは、「独自プラン」提起の可能性をはらみつつ、場合によっては騒擾へと結果する民衆運動を起こす場合もある。しかし、「富民」化の可能性が存在するところでは、いわば「殖産興業運動」とでも称すべき動きが生起することもあろう。」
*和歌山県那賀郡粉河村周辺での事例(紀ノ川中流)。「これを要するに、騒擾の要求は貢租と地価の軽減にあり、その形態は正副戸長層に主導された村ぐるみの「惣百姓一揆」型の民衆運動だと言えよう。」
・和歌山県では、明治7年5月5日付で、「地租改正法」に則った大幅減必至の改租プランを作成して大蔵省に承認を求めたが、大蔵省は転換された改租方針に基づいてこれを承認せず、翌年4月には拙速主義の作業が再開・強行されていった
・明治8年分の貢租軽減運動が起こり、はじめは石代引き下げによる減租を目指した貢租石代決定方法の改善要求であったが、明治9年に入ると、改租石代決定方法の改善による改租石代引き下げへと発展する
・その要求内容は、政府が転換した改租方針に対する、農民的ないし豪農・地主的対案ともいうべき「独自プラン」へと成長する可能性を持っていた
・県当局は政府中央に拘束されて改租石代の全管一律方式と拙速主義の強硬方針を墨守し、民衆は県の自立した問題解決能力の欠如を把握できず、膠着状態のまま事態がエスカレートし、運動を主導する正副戸長層の検束を機に運動は騒擾となる
・騒擾化した運動が県側の武力と処分の脅迫の前に急速に崩壊したことは、運動自体が近世以来の村役人層である正副戸長層の指導なしでは成立しないことを如実に表していた
*和歌山県海部郡加太浦では、改租は減租となったことから旧貢租額で納入した明治8年分のとの差額を資金として、官有地を借用した開墾を企てる動きが戸長を中心に起こった
*先に事例に挙げた那珂郡では、その後、かっての運動の指導者たちが税制の地主的改作を要求する動きを起こしたが、民衆をそこに再結集することは出来なかった
6 拙速方針の影響
拙速方針への転換が減租結果を招いた場合もあった(要するに、急いだ結果は現実追従となった)。石川県の事例をもとに、著者は次のように述べている。
「しかし、耕地整理事業が同県内でも容易には進まない事情の下、割地慣行[1]の存在が村民の土地所有権の行使を実質的に制限し、また地主---小作関係を制約する事例もあり、一部の村落では第二次世界大戦後の農地改革前後まで割地慣行が存続している。」
7 明治10年減租
明治9年に発生した和歌山県那賀郡の騒擾は5月初旬に軍隊の出動などで沈静化するが、同年には茨城県や三重県で大規模な民衆騒擾が勃発する。これらの騒擾が政府首脳に与えた衝撃は深刻であり、明治10年1月4日付太政官布告第一号で「減租の詔勅」が公布された(明治10年減租)。しかしこの減租は、翌二月に発生した西南戦争の戦費負担と相まって国家財政に深刻な影響を与え、それが政治的にも様々な影響を及ぼし、地租改正への反作用を及ぼすことになる。
*明治10年減租の政治的影響例
・中央と地方の関係における統治構造の全般的な再編成を必至なものとした
・民衆及び自由民権派の更なる地租軽減を求める動きに火をつけることになった
・政府がかねて「漸次立憲政体樹立の詔」をもって約束した立憲政体導入を不可逆的なものとする政治的環境の形成した
三 地租改正の結果
1 改租事業の終結
地租改正事務局は、西南戦争の時期は改組作業を一時中断する一方、再開後に現地指導に入る諸府県、とりわけ関東について、明治10年減租以前の水準に戻すべく入念に準備していたようだが、諸府県の強い抵抗により、思うようには行かなかったようである。しかし、難渋した地価の設定に関しては5年間据え置くなどの対策を施して、とにかく改租事業を全府県で完了させることに注力し、明治14年11月に愛媛県が最後に終了して、改租事業は終了した。
2 地租改正の結果
改租結果については、明治15年2月付で大蔵省が太政官内閣へ提出した「地租改正報告書」に添付されている「改正地租表」によって、その概略が述べられている。著者はその結果に基づいて今後の研究課題について次のように述べている。
「若干の地域的偏差はあるものの、全体として減租結果となっていることは明白である。この減租分がどのような形で社会の中に吸収され、さらにどう転形されていったかを探ることは、前述した「殖産興業運動」のような動きがどの程度まで一般的なものであったかを確かめ、さらにはわが国の近代化の歴史的な推進メカニズムを解読する上で、避けて通ることの出来ない研究課題ではなかろうか。」
3 改租結果の固定と修正
明治17年3月15日付の太政官布告七号で「地租条例」が公布され、それに抵触する「地租改正条例」などの諸法令は廃止され、地価の定期的見直し規定は廃止されて地価修正手続きが一般的に定められるに留まり、地租率は地価の2.5%となった。かくして、地価と地租は固定された。また、関連して「第二回の改租」たる地押調査が実施され、明治20年には2府15県で特別地価修正が行われ、明治22年には3府40県で地価が修正された。しかし、これらによる減租は増租より遙かに大きく、かつ掛かった費用は莫大であって、「地租条例」制定目的が地租軽減阻止にあったとは言いがたく、「それはそれぞれ当該時期における、政党内部の問題をも含む、政局の動向に規定されたものと見るべきであろう。」
まとめにかえて
慶応三年末から明治23年度末までの23年間ほどの国家財政における地租額および地租額の割合の推移を一瞥しても、地租は明治初期の財政の柱ではあったとしても、地価改定や地租改正による増租の目論見は実現できず却って減租を招いていた。そして、「大日本帝国憲法」が制定され、帝国議会が開設されて、明治国家の国政が確立した、まさしくその前後の時点から、地租は主財源たる地位を失い始めた。
地租改正に伴う減租が地域社会どのような影響を与えたのかという問題についての探求は、今後の経済史的検討を待たねばならないが、「今までの研究に見受けられる、地租改正の経済史的結果を、明治10年代後半以降における松方財政のそれ(経済史的検討)と重複させ、地主への土地集積と、国家主導による「資本の原始的蓄積」(マルクス経済学用語、略して「原蓄」)という面にのみ収斂させて理解する向きへの、一定の反省が求められよう。」。その場合の経済史的検討は、前述した和歌山県海部郡における「殖産興業運動」のような経済的活用のケースを含めて、わが国の近代産業形成史に対する理解の視野を技術面のみならず資金面へと拡大することに関わり、更には明治10年前半における自由民権運動の地域社会への浸透と展開の歴史的理解とも関わってくるのではないだろうか。
地租改正が却って減租を結果しただけでなく、基本的に地租が法的に固定化されて国家財政の硬直化を招き、国家としての構造的欠陥を抱え込むこととなった。そのことが意味するのは、「地租改正が、その全過程を通じて、地域社会とその住民の協力や承諾なしにはなしえなかった事業だったことによろう。しかし、そのことは、この事業を経ることで、事実上、明治国家が「国民国家」ないし「租税国家」として成立しつつあったことの、一つの証左でもあろう。換言すれば、明治国家は、前述したような構造的欠陥を抱え込むことなしには、「国民国家」ないし「租税国家」たり得なかったのではあるまいか。」
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