・日本語論―――和語と漢語の間(佐竹昭広)
ピンクパンサー |
・神話論(大林太良)
・日本民族論―――海からの視点(宮田登)
■日本語論―――和語と漢語の間(佐竹昭広)
一 祝言
l 正月には、めでたい言葉を交わす習慣が日本にはあったようだ。それがやがて婚礼の時などの言葉としても定着した。
Ø 「祝言」は和製漢語としては平安時代末ごろには普及していた
² 『古今著聞修』(1254年)「祝言20」など
Ø 和語としては、「祝い事」が1665年、仮名草子『大倭二十四孝』に記載の他、諸橋『大漢和辞典』、陳濤編『日漢辞典』(1972年)も日本語として掲載
Ø 「祝言」が喜びの言葉として用いられることは、1603年刊『日葡辞書』記載
Ø 正月に挨拶の言葉「おめでとう」は1592年に中国明朝『日本風土記』記載
l 「何人が発明しまた教えたとも無い比類の古い慣行は、やがてまた我々の祖先の子を思うと云う心理の、今より遙かに複雑にして且つ清浄であったことを語るものであります」柳田國男『小さき者の声』
二 婉言
l 「言霊」とは、その事物の名を口に出すと、その通りの事物が出現し、言ったとおりの結果が出来するという、古代日本語。「言」が「事」と表裏をなすアニミズム。
l 「忌み言葉」、例えば「死」
Ø 民族学で「死」の忌みは黒不浄、「血」の忌みは「赤不浄」でこの「忌み言葉」は方言にも枚挙に暇が無い
Ø 『万葉集』挽歌では、身分の高下、死や葬送の状態を十分考慮した婉曲表現が駆使されている
三 和訳
l 「量的には僅少ながら、仏足石歌は、古代における異文化の日本的摂取、日本語への翻訳に関する資料として頗る珍重に値する。」
Ø 五・七・五・七・七・七と、短歌に一句が加わっている歌体を一般に仏足石歌という。平安時代の神楽歌、古今和歌集、拾遺和歌集、万葉集にもあるが、これらは基本的に短歌の第五句の繰り返しが第六句となっている
Ø 753年、天武天皇の孫、文室真人智努が亡夫人追善のため、釈迦の足形と二十一首の賛歌を一字一音に刻んだ石碑を建てた(原所在地不明。現在地は薬師寺)。これも仏足石歌だが、第六句は単なる繰り返しや言い換えではなく、そこには仏典漢語の、意図的な作為に基づく日本語(訳)が記されている、と考えられる。一例として、18番の歌を下記すると
・比止乃微波衣賀多久阿礼婆乃利乃多能与須加止奈礼利都止米毛呂毛呂須々売毛呂毛呂
[人の身は得がたくあれば法の為の因縁となれりつとめ諸々、すすめ諸々]
第五・六句「つとめ諸々、すすめ諸々」の「つとめ」と「すすめ」は、「六波羅蜜」の一つ、「精進」のやわらげである
四 字音語
l 「倭歌」(「和歌」)を読む以上、和語の使用は大原則であった。これは明治時代まで続く。
Ø 和歌の別名は「やまとことば」という事実が端的にそれを示している
Ø 和歌が使用を戒めてきた言葉は八種類ある。俗語、卑語、音便の詞、鼻音の詞、拗音の詞、詰音の詞、半濁音、漢語、がそれである
Ø 正岡子規の短歌革新運動がなければ、あららぎ派、鉄幹、晶子、啄木といえども、旧派から見ればその詠むところは所詮、俳諧歌にすぎなかったであろう
² 「俵万智『サラダ記念日』を子規が何と評するか、叶うことなら傾聴してみたいという誘惑に駆られる」(筆者)
² 「和歌に漢語を避けるといっても「鉄道」を「まがねぢ」とよみ・・・とよむが如き・・・悪くすれば滑稽に陥るもあるべし。」(『歌の手引き』大和田健樹著、1909年)
Ø (音と訓を読み選ぶことで、格調や品位を変え、おかしみをもたらし、また婉曲語法にもなりうる)
² 落語の「たらちね」のおかしさ
² 「コノ小便ト云フト大便ト云フトヲ、貴人面前デハ音ニ読ムゾ(天文五年(1536年)環翠軒講『神代紀環翠抄』上)。『日本書紀』神代巻の一節を貴人の御前でどうしても講義しなければならないときにはユバリ、クソとは読まずに音読みするという配慮
l 漢語と和語の問題は、文字の次元に移せば、「漢字文化」と「平仮名文化」ということにもなろう
Ø 「・・・おれ、かねがね思うねんけど、漢字でモノ考えると、ロクなこと、ないな。これも発想、なんて漢字の熟語、使うのんキライや。モノ考える、でエエやないか」(田辺聖子「かあさん疲れたよ」読売新聞1992年3月13日朝刊)
l 「東西方言の表現効果の差異には当面触れないまでも、日本人が常に漢語と和語の間を揺れ動いてきたことは深刻な事実である。男性原理の漢語と女性原理の和語、両者混交の濃淡多少が実にさまざまの表現、数々の文体を創造し、今なお試行錯誤が繰り返されている」
五 和語と漢語の間
l 仏足石歌における漢語の和らげが受け入れられ、理解語彙から使用語彙にまで到達すると、訳された和語は必然的に多義的になり、極端にはもとの語彙書き得てしまう結果にもなる
l 「「世の中」「空し」「悲し」という和語に、仏教漢語「世間」「空」「悲」の意味が含まれるようになると、和語の意味の曖昧化という不便の事態を併発する。」
l 「漢語・漢文の訓読という翻訳を経て、和語の意味は拡張され、傍ら曖昧・不透明の度を濃くした。『類聚名義抄』に集録されたおびただしい和訓を見て思うことは、漢語に対する和語の融通性、良く言えばおおらかな寛容性である。」
l 「和語の「あはれ」は、感動の「あはれ」、哀惜・愛惜の「あはれ」、憐愍の「あはれ」、慈悲の「あはれ」.無常の「あはれ」等々、数え切れないくらい多様性に富む。」
l 本居宣長を代表とする近世の国学者は、和語・和文をもって文章を書くべく懸命に努力した。「やまとことば」の和歌とは違い、散文を和語で書こうとすると、宣長を持ってしてもなお漢学の下地が不可欠であった
l 「『源氏物語』すらも一概に「平仮名文化」とは規定しきれないのだ。私たちの前には、『源氏物語』という平仮名女流文学を精読しながら、「和語と漢語の間」という日本語の宿命的な問題を三思する道も開けてくるのである。」
■神話論(大林太良)
一 神出現の二つの類型
l 『古事記』『日本書紀』、ことにその神代巻には、天地開闢から大和の王権の確立、発展に至る神話体系が記録されている。このような体系的神話が現在古典に残っているのは、東アジアでは日本だけである
Ø 他の地域では、地域により異なる神話体系が並存したと考えられるが、体系的神をとしては残っていない
Ø 日本列島においても、かってはいくつもの地域的な神話体系が並存していたと思われる
² 国土創世神話の内容は、『出雲国風土記』と記紀とでは異なる
² 琉球とアイヌでは近年まで独自の文化的伝統と神話体系を持っていた
l 「本稿において記紀神話、琉球神話、アイヌ神話の三者を比較し・・・朝鮮古代神話も比較の枠に入れることにしたい。」
Ø 比較には記紀神話の基本性格を持ち、かつすべての神話に共通な項目が必要で、それを、神の出現の仕方、とする
Ø 神の出現の仕方は二通りある。天から地上に降臨するタイプと、地上あるいは海上から水平的に出現するタイプがある(詳細は各説ある)
二 瓊瓊杵尊の降臨と少彦名命の来訪
l いろいろある天降り神話の中で重要なのは天孫降臨神話で、これはまさに天皇家の由来を語っている
Ø 『日本書紀』『古事記』は、アマテラスの孫のニニギが地上の支配者として天降り、地上の住民と出会い、地上の美女と結婚する、という大筋は同じ
Ø 『古事記』では、ニニギの天降りに当たって、アマテラスは三種の神器(八尺の勾璁、鏡、草那芸剣)を与えたこと、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒と常世思金神、手力男神、天岩門別神が随伴したこと、天忍日命と天津久米命が一行の「御前に立ちて」仕えたことがでている
Ø 『日本書紀』でも神器の授与と、随伴神のことが記されている
l 『日本書紀』に記されている二つの神話は次のことを物語っている。「天孫(ニニギ)が高天原から稲をもたらしても、それは自分達支配者のためであって、一般民衆にそれを伝えるためではない。稲をもたらしても、天孫は文化英雄ではないのである。」(大林)
Ø 神話一。月夜見尊が天照大神の命令で葦原中国に保食神に会いに行ったが、保食神がその口から出した食物をご馳走しようとしたのを怒って、これを斬り殺した。天照大神は天野熊人を派遣して様子を見に行かせると、保食神の身体の各部分に作物が生っていた。天照大神喜びて曰わく、「是の物は、うつしき蒼生(民衆)の、食ひて活べきものなり」とのたまひて、乃ち粟稗麦豆を以て陸種子とす。稲を以て水田種子とす。
Ø 神話二。天照大神の息子の天忍穂耳尊が天降る予定だったとき、「吾が高天原にきこしめす斎庭の稲穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし」とのたまった。天降ったのは息子の天忍穂耳尊ではなくて孫の瓊瓊杵尊であったが、その時には、天から稲穂を持参したことが暗黙のうちに語られている
l 記紀神話体系では、天孫降臨は国譲りの後に行われたことになっている。この内容をよく見ると、天孫は支配者であっても文化的英雄ではなく、文化的英雄は少彦名神(≒大己貴神=大国主命)であったのではないかと思われる
Ø 国造り神話と天孫降臨神話は「マレビト的な挿話的な少彦名神が大己貴神とともに国造りを行い、下準備ができたところで、本筋の主人公としての天孫が新たな支配者として天降り、国をもらってしまう」という物語になっている
Ø 国造り神話と天孫降臨神話は本源的に結びついていないにもかかわらず、記紀神話体系ではこれが結びつけられて大きな神話体系になっている。このことが神話体系として重要なのである
Ø 少彦名神話は小さい神で海の彼方から渡り来て、大国主の国造りを助けた後、忽然と常世国(異郷)へ立ち去った神(つまりマレビト的存在であった)
Ø 大己貴神と少彦名命は対をなして国土を開拓した。「ナ」はアルタイ語系の大地を表す言葉である。オホナムチ、スクナビコナの名称の意味を考察すると、大小の国土や土地の主と解釈が可能で、結局は同じ意味となる(大林)
Ø 吉田敦彦は、大己貴神と少彦名命には、古代インドのアシュヴィンを想起させる豊穣性の機能の双生児神の俤がある、と論じた(1974、1976年)
Ø 少彦名神話の文化的背景としては粟作が想定される(大林1990年)
² 『日本書紀』では、瓊瓊杵尊が稲作と結びついているのに対して、少彦名命は粟作と結びつき、しかも豊穣の機能を顕著にもっている
Ø 天孫降臨神話では、高天原から地上への王権の移動は、不可欠の中心部分をなしているが、少彦名神話は傍系の地位にある
三 阿摩美久と天降りと来訪神たち
l 奄美諸島から八重山諸島に至るまでの琉球列島の神話には、史書に記された琉球王朝神話と、民間で語り継がれた民間神話があるが、琉球王朝神話にしても琉球列島全域を制覇するに至っていない
l 沖縄本島と付近離島における支配者の神話は天降りを語っており、記紀神話と比較することができるので、ここでは、これについて述べる
l 沖縄の王朝神話と記紀神話を比べると、支配者が天降ったという基本的な観念の共通性はあっても、いくつかの重要な点で相違する
Ø 国土の創造について、記紀神話にないモチーフがある
² 天から土石を下して国土を作る
² 性交ではなく、風を縁として妊娠する
Ø 先住民がいない
Ø 食用作物において、支配者用の区別がない
Ø 記紀神話の少彦名に相当する来訪神がない
² 原古の来訪神ではなく、17~18世紀(琉球王朝の存続時代)に数種の神がなお来臨して幸せを授けると考えられていた
² この来訪神は二つに分かられ、ひとつは国王や国家を守護し祝福する神であり、もう一つは海から現れて国土や全体社会を守る神であった
四 去来したオキクルミとコロポックル
l アイヌの神話は、口承で伝えられてきたものを近代になって和人により記録されたものだが、重要なことは、記紀神話の少彦名と天孫降臨神話の場合とは違って、一つの大きな神話体系に統合されなかったこと
Ø 本稿は北海道アイヌの神話(オキクルミの神話とコロボックル伝承)についての考察にとどまるが、それは、古代東北の蝦夷が現代のアイヌと形質、言語、伝統的生活様式において密接な関係はあるものの、古代蝦夷の神話は現代アイヌのそれとは恐らく大変違うものであろうと想像され、しかも直接そのことを証明することはできないから
l オキクルミの神話は天降る神の神話として代表的なものであり、文化的英雄オキクルミを中心とする神話的叙事詩である
Ø 天降ったオキクルミは、島内の魔神や海から来る魔神を退治して住民を守り、住民にいろいろな技術や祭祀の仕方を教えた。しかし、世も末になってアイヌが次第にずるくなると、オキクルミは彼らに愛想を尽かして去って行く
Ø オキクルミがもたらした文化的要素の多くが、沿海州系のものであった(金田一京助)
Ø オキクルミは垂直的に出現する神ではあるが、単なる支配者ではなく文化英雄であった
l コロボックル伝承は水平的に出現するマレビト的な文化英雄、正確に言えば文化英雄族の伝承である
Ø コロボックル伝承の興味深い特徴の一つは本土の山人伝承と比較ができること(「山の人」という側面を持つ点で)、もう一つはコロボックルが立ち去った理由がオキクルミのそれと同じであること
l 著者は、オキクルミ伝承とコロボックル伝承を比較して次のような仮説を立てた。
Ø 両方とも北のサハリンやアムールランドとの人間的・文化的交流を背景にして育ったものであり、ただその時代が違っていた
Ø コロボックル伝承は8世紀から13世紀にかけてのおオホーツク文化かもしれない(菊池徹夫0984年)
Ø オキクルミ伝承は三丹交易(18世紀から19世紀にかけて、アムール川下流からサハリンにかけての周辺民族とサハリン・蝦夷アイヌおよび松前藩(後に江戸幕府)の間で行われた交易)によって代表されるような交流を背景にしいているのかもしれない
五 支配者首露とトリックスター脱解
l 天降り神話は、古代朝鮮諸国の建国神話としても語られているので、日本の天孫降臨神話との関係が日本の研究者により推定されている(諸説あり)
Ø 古代朝鮮国の建国神話は、古朝鮮の『壇君神話』、駕洛(加耶)の『首露神話』、新羅の始祖赫居世王神話と新羅王家金氏の始祖金閼智神話。
Ø 岡正雄は、日本の天孫降臨神話を、朝鮮半島を経由して日本に入ったアルタイ系の支配者文化の特徴と考えた。しかし筆者は記紀神話と古代朝鮮諸国の建国神話との比較において、大きな二つの相違があると指摘している。一つは、作物の起源が天降り神話の一部として語られていないこと、もう一つは、天降った支配者の配偶者は、在地の先住民ではなく、渡来した、あるいは超自然的な仕方で出現した女性であること
l 駕洛(加耶)の『首露神話』には、垂直的に天降った支配者(首露王)と水平的に出現した者(脱解と王后)が登場するが、日本の少彦名命のような本格的なマレビトとは言い難く、脱解は王位を狙うトリックスターとして描かれている
l 首露王神話に登場する后は、土着の女ではなく外来者であることが強調されて語られており、また、そのことが首露廟で毎年行われていた「戯楽思慕」の祭儀としても行われていたが、この外来者はマレビト的存在という性格が表面には出てこない
Ø 「戯楽思慕」が毎年行われる祭儀という点では、沖縄の場合を想起させるが、マレビトが幸をもたらすという性格が表面に出ていないところは異なる
六 神話と歴史
l 「以上、垂直的な天降り神話と水平的なマレビト伝承を手がかりとして、記紀神話、琉球神話、アイヌ神話、駕洛(加耶)神話を検討してきた。その結果明らかになったことは、先住民がすでにいるところにまずマレビト的な神が現れて幸福を与えて去り、その後、支配者が天降って今日までつづく王朝の基礎をつくるという記紀神話の構想は、ここで論じた諸神話の中では、他に類のないユニークなものであることであった。」
l 神話・伝承は、歴史的環境の中で生まれ、育ち、主張される。ここで取り上げた諸神話で説かれている支配者の外来性が、単に神話の上だけの「お話」なのか、それとも支配者の来訪という歴史的事実を反映しているのかは、個々の場合について考えるべき問題であろう。
l 世界における神話研究の歴史を振り返ってみると、たとえば北欧神話におけるエシル神族とファニル神族の争いに、歴史的な民族抗争の反映を見ようとする試みがかっては安易に行われた。これに対して、フランスのジョルジュ・デュメジルは、それが印欧語族の神話において広く分布する一つの神話の型の一例であって、この型はおそらく印欧原神話にさかのぼることを、あきらかにした(吉田敦彦、1974年)
Ø 以降、この北欧神話は歴史とは関係ないただの神話だと見る傾向が強くなった。著者もこの見方には大体賛成するものの、それで割り切るには躊躇している
l 「日本においては、戦時中(太平洋戦争)における神話をそのまま歴史として教えたことなどに対する批判から、神話に歴史を読み取ろうとする立場が多くの研究者の支持を失い、私を含めて、神話と歴史を切り離して考え、せいぜい系統論から歴史を考えるのが普通であった.しかし、神話にどれだけ歴史的事実が反映しているかの問題は、一般論としてではなく、個々の問題に即して考え直すべき時期が来ているように思われる。」
l (アイヌ、駕洛、沖縄、記紀神話が、支配者の来訪という点において史実を反映したものなのかどうかについて、著者の見方は以下)
Ø アイヌ神話は、サハリン・沿海州地域との交流が問題になる
Ø 駕洛神話については、三世紀末から四世紀始めにかけて付与系支配者がこの地に入ったという説に結びつけて考えられるかもしれない
Ø 沖縄神話の場合は、無人の島に支配者と被支配者が一緒に天降ったという主張をどう見るかが大きな問題だが、この点においては、多分史実と違っている
Ø 記紀の天孫降臨神話は、邪馬台国以来の王権文化の伝統を重視して考えるので、支配者の移住があったとしても、多分九州内部であろう
■日本民族論―――海からの視点(宮田登)
はじめに
l 「民間伝承ははっきりと自覚されぬままに、慣習という形で、現代の私たちの日常生活の中に送り込まれてきている。それらは各民族がアイデンティティの問題として自己内省を試みるとききわめて有力な素材として浮上してくるのである。」
Ø 民俗学は民間伝承を研究対象とする
Ø 民間伝承は文化残留の形をとり、(そのことによって)現代文化を支える重要な要素の一つとなっている
Ø 民間伝承は、形とか機能を変容させながら時代に適応し、そして次の時代へ引き継がれていき、そうした営みの繰り返しが私たちの慣習を形成している
Ø 民俗は時代の枠組みを超えて成立し、現代の文化や社会を支えている
l 実例として、死者の肉の代用として餅が用いられている、というフォークロアの成立が挙げられる
Ø 岩手県遠野で葬儀の際に人形の餅を食すという風習と、代々祖母によって語り継がれた『遠野物語拾遺』に記された伝承の由来(五月五日に食べる薄餅は入水自殺した女の夫が妻の死肉を餅にしたもの、という)
Ø 沖縄県先島地方で、死者が出ると豚を殺して近親者で肉を食べたり骨をかじったりする習俗(四十九日に食べる餅が肉や骨の代用という解釈がある)
一 「海上の道」再考
l 民俗学における海からの視点を明確に示したのは柳田國男であったが、その仮説については、考古学や言語学からの批判がなされ、柳田の唱える「海上の道」という仮説はいまでは実証性に欠けるとされている(柳田の観取は下記)
Ø 毎年定期的に打ち寄せられてくる漂流物(魚類、海獣の残骸、椰子の実、海藻、貝や石など)が、沿岸の生活に影響を与えていた。というのは、漂着物が古い信仰を伴っていたから
Ø イルカの群行動が、海で生活をする人々に深い印象を与えたことから生じたフォークロアとして数多く語られている、(と考え)イルカに注目した
Ø 海際の聖地にイルカが参拝するという(人々の)考えが、海の彼方との間に心の交流をよみがえらせている
² この思考の延長に、「鹿島のミロク」という伝承の解釈がある。つまり、弥勒仏に対する古い信仰の名残が、弥勒の出現を海から迎えるという民間伝承として各地に残存している
² 常陸鹿島の「みろく舟」と八重山群島のニロー神はともに、「ニライの島から渡って来たまふ神」(柳田1961年)。
Ø 「海上の道」という構想は柳田の学説
² 南島(西南諸島)の島々を、稲を携えて北上したのが日本人の祖先たちであるという説で、黒潮に乗って漂着した人々が南島の宝貝の美しさに引かれて移住した、というのがその理由。以後、稲の栽培適地を求めて北上したとする
² 彼ら(日本人の祖先たち)は、海の彼方にニライカナイ=常世(楽園)という世界観をもち、稲魂再生の信仰を抱いていた(柳田民俗学の一つの帰結点)
l 考古学上の知識では、弥生文化は北から南下したと捉えられているが、中国江南地方とは直接は関係しない南島から赤米とその耕作方法(踏耕)が伝わったという説が、実証的に唱えられるようになり、「新海上の道」が提示されるようになった
Ø 北九州の遺跡から、南島の貝の装飾品が北九州に運ばれて加工されたことが実証された(貝の道の想定)
Ø 南島から畑作作物だけではなく、南方系の赤米もその栽培方法(踏耕)とともに次第に北上するルートも想定され始めた(渡辺忠世)
l 「餅なし正月」は民俗学上大きな課題を持つ対象とされてきた。その由来を説明する伝説の中で、そのモチーフ(血染めの餅)が注目され、ここから、いろいろな想起がなされている
Ø 赤色の食物はメタファーであり、これを火のイメージとしてとらえて、坪井は火の霊力に基づく原初の観念形態を担う焼畑農耕集団を想定した
Ø 赤色は小豆による着色で、赤飯、小豆飯、紅を付けた餅など多く行われており、この場合は死や血とは関係ないとしても、(正月にこれを食すのは)白米を忌避することに繋がり、これが重要な点となる
Ø 小豆で赤く着色した餅や米は赤米の存在を暗示し、柳田は小豆の赤と赤米の赤とが共通心意の上で関連し合っていると示唆している
l 民俗文化論として注目されるのは、儀礼食に赤色が用いられることの意味である
Ø 小豆飯や赤飯は、赤米ではない白米を赤く染めたものであるから、シンボリックな意味を内包している
Ø 赤色を死や血のメタファーとしてとらえれば、赤米の文化を異物として排除していると想像することもできる
Ø 一方で赤色は、排除だけではなく融合とも捉えられる。つまり、白米と赤米を包摂・並存させて、赤飯や赤色餅の民俗を形成した、と
l 餅なし正月は、畑作文化の存在根拠の強調として捉えることもできるが、白米と赤米の対比と融合という主題に捉え直せば、赤米は消滅の方向を辿りつつも、赤飯・赤餅となって再生しているものと読み取ることもできる
二 海の彼方から
l 日本列島は、その太平洋沿岸を通り鹿島灘から太平洋へと抜ける黒潮本流と日本海を北上する対馬海流に囲まれている
l 「柳田や折口信夫が設定したテーマは、海の彼方の世界であった」
Ø 折口は、先祖たちの故郷は異郷の子孫の潜在意識裡に伝承されている、と考え「彼らの故郷の地を「常世」に想定し、「常世の浪」が海流となって押し寄せて来るという(折口の)認識は、これまた柳田の描く「海上の道」にもオーバーラップしてくるのである。」
l 「みろくの舟」は、現在も踊られている鹿島踊の中で歌われているが、そのモチーフは鹿島灘から相模湾にかけて、鹿島神人が活躍した範囲に分布している
l マレビトの概念は来訪神として意義づけられるが、これは太平洋沿岸部に点在する漂着神のイメージから想像される
Ø 静岡県の御前崎には、その社伝に漂着神を伝える駒形神社があり、またアカウミガメ産卵の最北端地でもある
l 地震に関する神話や信仰には、大地を支える巨人や神が地底などにいる竜蛇や鯰などの大魚を押さえ込んでいるというモチーフが多い
Ø (弥勒仏に対する古い信仰の名残が、弥勒の出現を海から迎えるという民間伝承として伝えられたという、柳田國男の説と整合性がある、「みろくの舟」が歌い込まれている)鹿島踊の発祥地点の鹿島地方には、鹿島大神が祭られている。この神は境界を守護するものであるが、地底の大鯰を要石で押さえ込んでいるという俗信がある(地底の大鯰が暴れると地震が起こる)
Ø 大地を支えている動物が身動きすると地震が起きるという考え方は、地震に関する神話や信仰は共通なモチーフを持って世界的に分布しており、その動物は、牛か蛇か魚で、大鯰はその類型(大林太良)
Ø 鯰の生息地はインドネシアから中国を経て日本列島に及ぶ地帯に限定されるが、蛇(世界蛇)はより普遍的で、例えばインドでは竜蛇がグルリと世界をとりまいているという考え方になっている
Ø 世界蛇の変形と思われる日本の地震鯰は、江戸時代に通称「地震鯰の暦」と呼ばれる伊勢暦の表紙絵に描かれていたが、その最古のものは1664年である(岩切信一郎)。そこには中央にデフォルメされた日本国図が描かれ、それをグルリと竜蛇が取り巻いていて、首尾の一致する地点が「鹿島」で、そこに要石が打ち付けられていた。竜蛇の発想は京都の知識人で、竜蛇が鯰になるのは江戸後期であるが、これを江戸の俳諧師たちの洒落と指摘する人もいる(気谷誠1987年)
l 大地を支える巨人や神と地底などにいる竜蛇や鯰などの大魚の関係が、地震からは離れて神とその眷属(神に従う小神)という関係のモチーフもある
Ø 鹿島大神、あるいは鹿島明神(明神とは、神を尊重しての仏教側からのネーミング)が大鯰を要石で押さえ込むというモチーフで重要なことは、(地震を押さえ込むことを超えて)巨魚を巨人が石か剣で押さえているという点であり、その点において阿蘇山の神話にも共通性がある
Ø 阿蘇の大神は建磐竜命で、巨魚は鯰だが、この鯰は大神の眷属なので食べてはいけないとか、大神が蹴破ったとする外輪山からあふれた湖水による洪水や洪水によって流された鯰にちなんだ伝承・地名も存在する。阿蘇山神話の大魚は大神の国土建設以前の地主神とする考え方もある(村崎真智子1993年)
Ø 阿蘇山の神話を、大地を支える巨人の変形したモチーフと見なすと、朝鮮半島に多くの類話がある。だがこの類話は押さえ込まれているはずの竜蛇や大魚の影が薄い
Ø 佐賀県佐賀郡大和町の河上神社の祭神と鯰の伝説では、祭神は神功皇后の妹の淀姫で、大鯰に乗って竜宮へ行ったことになっており、大鯰は眷属で海神の化身でもある
Ø 鯰の生息地である福岡県筑紫郡那珂川町の伏見神社に、この淀姫が勧請されているが、国土に異変が生じるときには鯰の群れをなして出現して予兆を知らせると伝えられている
² 「鯰による異変の予兆は、鯰の出現を海の彼方と結びつける思考が語られていたと言えるだろう」
Ø 淀姫と鯰の関係は神と神使のモチーフとなっている
Ø 「物言う魚」としては、鰻と鯰、イワナなどが古来より知られていた。とらえた大魚が声を発したので水中に戻したから大雨や洪水や津波が起こらないで済む、つまり大魚は人間に化けてこちらの世界に危険を告げようと働きかけるが、人間の方でそのことを解読できないと災厄を蒙るという伝説は多い
² 沖縄のヨナマタという人魚は海神の変化で、ヨナマタが人語をささやいたのを聞き取った母子だけが、一村全滅の危機から救われた
Ø 大鯰が海神や竜神の変化でありかつ水界の主であって、神の信託や予言を伝えるという信仰もある
² 滋賀県の琵琶湖の主は鯰で、国土に異変が生じるときには大群となって出現するが、この鯰はかっては推定に潜んでいた竜蛇の変化という伝承(『竹生島縁起』)
l 以上の問題を、海からの視点で捉え直してみると共通したモチーフが見えてくる
Ø フィリピンのミンダナオ島のマノボ属の神話では、先祖の巨人は中心の天柱とそのまわりの柱を立てて、自分は大蛇と伴って天柱に住んでいたが、大蛇が柱を揺すると大地震が起きることになっている
² 同じミンダナオ島のマンダヤ族の神話では、大蛇でなくて巨大な鰻で、大地はこの背中に乗っていて、この鰻が身動きすると地震が起こることになっている
Ø (黒潮海流をいう共通の環境を持った)フィリピン南部のミンダナオの諸島、鹿島神宮、伊勢神宮、日本列島の太平洋沿岸部、福岡、佐賀、熊本、香川、には、ここで紹介していないものを含めて、その地での神話・伝承・信仰には、複数に地域にまたがる共通のモチーフがある
三 民俗の都市化・都市の民俗
l 米露の黒船来航と大地震が続いて発生した1854年~55年にかけて作られた江戸の鯰絵から、民俗文化の本質を読み取ることができる
Ø 1855年の安政大地震直後に江戸市中に出回った地震鯰絵は、例えば、「世直し」という表現や鯰に七福神が乗っている宝船の表現から、海の彼方から幸運が訪れるという潜在意識のもとに、新しい世界が訪れるというテーマの提示がなされている
Ø 1854年にペリーの艦隊が横浜と下田に入港し、次いで来港したロシアの船が下田で幕府と交渉中に東海沖に大地震が起こって、大津波によりロシアの黒船が難破沈没した。この時の鯰絵では、黒船が「異国の大なまず」としてとらえれれた(気谷誠1987年)。しかし、その構図の表現からは、厄災の追放と幸福の来訪という反対のモチーフが読み取れる
l 上記鯰絵のイメージは怪獣ゴジラの姿にも通じている
Ø ビキニ環礁での核実験でよみがえったゴジラが、海の彼方より東京上陸を目指して出現するという想定は、海の彼方から来訪する大魚というイメージと同類
Ø 鯰絵もゴジラ映画も、都市の崩壊というテーマが海の彼方からの得体の知れない何ものかによって行われるというモチーフにより成立している
l 「大都市の終焉という世紀末的なモチーフは、都市の語り出すフォークロアとして伝承されてきた。」
Ø 渋沢敬三が、都市生活者の生活文化を捉えることが民俗文化論としても肝要であると考えていた一方、柳田國男は村落生活に密着していた
Ø 都市は異質性の高い社会であり、農村はその反対(だから、農村での生活様式を研究することだけでは、民俗学として都市を取り扱うことはできない)
l 「民俗の都市化と、都市の民俗とをとらえる基準は異なっている。しかし都市の民俗文化の全体像をとらえる場合には、この両者をトータルにおさめる視点を定立しなければならない。」
Ø (ここで言われている「基準」とは何であるかについて明確には述べられていないが、多分、過去と現在における「民俗」とは何であるかと判断する基準のことなのではなかろうか。そうすると、本稿冒頭で著者述べている「民俗学は民間伝承を研究対象とする」という民俗学の定義において、過去の人々の生活における現実・現象に基づいている「民間伝承」を、将来の人々から「伝承」と呼ばれるに相応しい、今ここを生きている人々の生活における現実・現象と解釈し直せば良いことになる。更にいえば、著者はこのような基準で「都市の民俗」を研究することは、「民俗の都市化」の「都市化」というプロセスを研究することと殆ど同義である、と言いたいのではないだろうか。)
l 民俗の都市化と、都市の民俗とをトータルにおさめる視点を定立するための一例として、妖怪現象がある
Ø 「妖怪は人と自然、人と神との交流を語る重要な民俗資料の資料とされてきた。従来の考えから見ると、妖怪は自然に近い存在であり、都市よりも農山漁村に多く存在する民俗である。」
Ø 「妖怪譚で最も多く語られる狐に化かされる話のモチーフは「民俗の都市化」にヒントを与えている。」
² 昭和10年頃以前には、多くの人々が狐に化かされたことを体験的に物語ることができたが、それ以降はそれができなくなった。この現象を「民俗の都市化」と捉えると、昭和10年頃は日本人の大きな意識変化の折り目である、ということになる(桜田勝徳1976年、1980年。小川博1990年)。
Ø 「狐狸と人間社会の関連を示すフォークロアには、おおよそ四つの類型があげられる。」
² 一類:狐狸と人間との間の境界が明確で、相互に棲み分け、交流に調和が取れている。狐狸が人間を化かすことはない
² 第二類:人間が多少狐狸に対して防御する姿勢をもち、化かされるかもしれないと感じるとしても、彼らによって人間に害が生じたとは考えられていない
² 第三類:狐狸の生息地に人間が侵入し、狐狸も人家近くに出没して鶏をさらったりする。狐と人間との対決が表面化し、強力な呪術者に狐狸退治を行わせ、狐狸は棲みかを追われ、狐の場合は野狐と称される
² 第四類:狐が人間に対して祟りをなすもの、野狐の悪霊が人間に取り憑いて病死させると考えるようになる(狐憑きの現象)。「狐憑きは、高熱を発し、取り憑いた悪霊は超能力を発揮し、人間側は祈祷術を持つ行者・巫女が、取り憑いた狐を落とそうと祈祷する
² この四類は全国的に普遍的な現象であるが、狐憑き現象の場合には濃厚に分布する地域がある
Ø 「狐に化かされるというフォークロアには、「都市化」が反映していることが想像される。」
² 第三類に入るフォークロアはきわめて普遍的で、このことは昭和初期以降に列島に現象した「都市化」という社会変動と関わっている
² 江戸の頃、江戸市域内に稲荷の祠が急増した時期があった。急増の由来を調べると、狐の霊が土地や屋敷の守護霊として稲荷の本体に祀られる時期と、やたらに女性や子供に取り憑く時期とに別れる。後者は幕末に集中し、前者は住宅開発が盛んになり始めた時期の古社の縁起に顕著である
Ø 「すなわち、民俗の都市化が次第に定着していき、都市民俗が次第に顕在化していくコースが読み取れる。稲荷・狐信仰における狐憑きが流行神化して頻発するのは、世紀末とか時代の変化に敏感に反応した都市生活者の心意が基底にあったと思われる。」
Ø 「同様なプロセスは、都市の破壊者としてイメージされる妖怪フォークロアの中に見つけられる。」また、彼ら妖怪は、水界の王の表現であり、かっては水神や海神の、神使の扱いを受けたものである
² 幕末の江戸にクローズアップされた鯰男。物言う魚、異変を予知する存在、大地震との結びつき、大都市に蓄積されたケガレの排除としての「世直し鯰」
² メディアにのって流行するゴジラ。海の彼方から襲来し、大都市を破壊して再び海に戻っていく
Ø モダン・フォークロアとして注目されている現代の民話のうちで「学校の怪談」もまた、「都市の民俗」に位置づけられて意味を持つ
² 都市は発生プロセスにおいて闇の部分を胚胎しており(自然破壊とか)、だから繁栄の影にケガレを蓄積しており、その排除のためにハレが強調され、ケガレに相当する異物排除の装置が設けられ、それは絶えざる不安によって支えられている(都市民俗の主たる特徴)
² 学校は、現代都市の闇の部分を仮想現実化させて都市民俗を作りだしている、と考えることができる
² 赤いはんてんを着た老婆や女の子、赤いちり紙、赤い水、赤いマント、「赤」へのこだわりは血のケガレの象徴
² 便所・厠は異界との境界を占める空間と見なされていた。便所神や雪隠参りの民俗は、とくに出産や子育てに結びつけられて伝承されており、田舎の民家にある外便所が妖怪出現の場所となることはごく自然であった。学校のトイレの妖怪譚も同類であろう
l 「都市民俗」の研究対象として、現代都市の「マツリ」が注目されている
Ø 公権力が推進することの多い「ふるさと再生」的マツリとボランティアが集まって企画した自主的なマツリがある。前者は祭りの復活であるが、後者は都市生活のリズムの中から自然発生的に生じたマツリである
Ø これらの「マツリ」は「都市民俗」であるが、伝統的な民俗の意味からいえば「セコンド・ハンド現象」である。しかし、表面的には神や自然との交流を無視したように見える「マツリ」であったとしても、都市文化の価値を再発見する意図に基づいたものは、中古品ではなく新しい「都市民俗」の範疇に入れるという思考も必要である
Ø 「日本の民族文化をトータルにとらえるためには、従来の里=農村を中心とする視点を持つ日本の民俗学のあり方を大きく修正すべき段階に至っている。」