2016年3月3日木曜日

岩波講座 日本通史01巻(日本列島と人類社会)【生活と交流】

【生活と交流】
ジャスミーナ
・山の生活(千葉徳爾)
・海の生活―――玄界・瀚海の海人(森浩一)
畑作文化と稲作文化(佐々木高明)



山の生活(千葉徳爾)

一 山村とは何か
1 ヤマという日本語
ヤマという日本語は、その地域における相対的に高い場所という意味と、樹木の群生する地域という意味の両方を持っている。個の両方の地域の村を山村としよう。山村の集落は、歴史的にみれば、山岳宗教集団や特殊な工業集団などの例外はあっても政治権力の関心を引かなかった。

2 近代山村の労働類型
経済生活からみた山間集落には実に多様な生活がある(注:そのような生活を強いられていると言った方が良い)。例えば、狩猟、焼畑農業、雑穀生産、果樹栽培、行商、造林、動植物薬品、など。

二 山地居住者
柳田國男は、一般の山民と異なる気質を持った山人とよばれる人々の存在を考えた。例えばマタギ、旅の行商人、宗教家など、その気質は正直、潔癖、剛気、片意地、執着、負けず嫌い、復讐心などがあげられる(著者は放浪癖を加えている)。気質が原因か結果か、両方考えられるが。
宗教じみた人々は修験者、山伏と呼ばれ、山伏の妻の多くは巫女として託宣をこととした。古代には鬼、中世には天狗とも呼ばれた。折口信夫らが説く鬼、山人、山姥なども。
彼らはその特殊に見える能力から、平地の人々からは異なる世界の住民として諸々の不思議に包まれた生活を営む人々と思われた。

三 近代の山村生活
1 山村生活の事例
1930年代まで、交通路の未整備のために古い山村生活が営まれていた

2 狩猟生活の位置づけ
日本列島における狩猟専業という業態は、商業経済社会がある程度発達していることが条件である。

3 技能集団としての山民
山中の尾根筋を通る近路が戦国土豪の情報伝達路であり、文字文書の利用がやや知的な活動に従う山地住民必須の条件であった。山民の活動が専門的な情報伝達業となったのが、京都・奈良を中心とした伊賀・甲賀の忍者であり、その一部が鎌倉から関東・信越に広まったのが、スッパ・ラッパと呼ばれた人々であろう。

四 山民のロマンティシズム
1 山中異界観
(『遠野物語』に出て来る不思議な出来事は、それに出合った人にとっては本当であろう。科学的な言葉で説明すれば、幻覚、幻聴などとなるが、これらは山中異界観と呼ばれる)
柳田は「山小屋などに多人数で泊まれば全員が聞く幻聴がこれで、幼いときからそのような事柄を事実として認め、精神的な共通感覚に支配されているためであり、それが消失したのは、山民の間の共同感が失われた時である」と指摘している。

2 山中異界の生活慣行
山中異界の生活慣行とは次のようなものである
・特定のものについて、他の言葉に言いかえて日常用語が禁止される
・山中のみで行われる習俗としての社会組織で、狩猟の指揮者の選定など
・獲物の分配法。平等原則
山の神の支配領域での慎みに従わねば事故に遭う、神の賜を独り占めにすると不幸を招く、と信じられた(生活慣行の理由は自然崇拝)。

3 ヤマとタケ
山中異界の中でも、特別に一般山民が立ち入らない空間がある。霊界とも言うべきもので、タケと呼ばれる高山である。

4 平家谷の話
(数多あるが、殆ど偽りである。その理由は一言で言えば、山民の歴史的智恵である。注目すべきは、その智恵が効果を発揮した条件であろう。著者はロマンティシズムという表現で説明しようとしているように思えるが?)



海の生活―――玄界・(かん)(かい)の海人(森浩一)

はじめに
「遺物も重要だが、あくまでも遺跡の中で遺物が何を物語るかと言うことである」紙数の関係で、主として玄界灘と北部九州を扱うが、それは海人の活躍がよく分かる大陸に近い土地であり、「倭人伝」の世界であり、新王朝の創始者とも言われる継体大王と戦争を起こした磐井の活躍の舞台でもあるからである。

一 「倭人伝」と島々
1 「倭人伝」と対馬・壱岐
(筆者が対馬と壱岐を訪ねた)「このとき、非常に驚いたことがある。それまで古代史についての単なる一史料としか見ていなかった「倭人伝」の対馬や壱岐についての簡潔な記事が、心憎いばかりにそれぞれの土地の状況と特色を描写しきっており、今日でもこの二島についてのこれ以上の文章を作ることはむつかしいと痛感した。」

2 山島にいた倭人
弥生時代末から古墳時代初め頃に「倭人伝」が伝えた(玄界灘と北部九州)の人々は、伝統的な大勢の考えでは、稲作を基盤にした農村(=ムラ)で暮らしていた、というものであった。しかし、「倭人伝」の描写からは、倭人は良田なき山島に住んで海産物を食べ舟で交易していた人々、となる(倭人は海人でもあったのではないだろうか)。

3 情報を掌握すべき島々
「「倭人伝」で臨場感をともなっての地域描写が行われているのは、対馬国、壱岐国の他、今日の佐賀県の呼子から唐津にかけての土地を含むとみられる末盧(松浦)の三カ所にすぎない。このことは、これらの土地が北部九州と朝鮮半島、ひいては華北(魏)や華中(呉)を結ぶ上での交通の要地であり・・・やはり中国人にとって十分情報を掌握しておくべき土地だったのであろう。」

二 対馬と南北の交流
1 対馬の佐賀貝塚
佐賀貝塚(縄文時代の中期~後期)には、岩礁で採れるものの他に深い水深で採れるものもあり、「倭人伝」の潜水漁法の記述と一致する。埋葬された人骨の頭部を覆う大きな鰒は、伊勢神宮の神饌や大嘗祭に欠かせない伝統食品であることとの関連が覗える。またここは、弥生時代から古墳時代にかけては日本海地域でよくみられる潟港が早期に形成されていたと推定される。

2 貝塚にみる海幸と山幸
佐賀貝塚出土品は、ここでの人々の生活が、海幸彦・山幸彦の神話を思い起こさせるような、漁労と狩猟が同時に行われていたものであったことを伺わせる。また、東北・北海道に類例がある獣骨製の銛の使用や、北海道の恵山貝塚出土の鹿笛と類似の鹿角製品の出土から、日本海における海の交流があったことが推定できる。

3 海を越えての交流拠点
佐賀貝塚では、朝鮮半島南部の貝塚でも出土する九州西海岸産の黒曜石が出土し、対馬で産する石製の石斧が自家使用としては大量に出土するなど、「倭人伝」に述べられている「舟に乗りて南北に市糴す」の原風景が覗える

4 対馬の古代遺跡
対馬の弥生遺跡には多種類で珍稀な青銅製品がある。種類がバラエティーに富むという点で言えば、青銅製武器の多い北部九州をもはるかに凌駕している。(それらの遺跡から)弥生時代の対馬は、中央から北部にかけて海村ごとに航海や交易に従事する有力者がいて、日本列島の中できわだって大陸的な文物を入手していたこと、しかし彼らは、北部九州の完全な勢力下にはなかったこと、が覗える。
しかし古墳時代になると状況が変化して、南部にも遺跡が現れ、前代からの考古学的賑わいをみせていた浦々の数が減少し、それに関連して壱岐の古墳が巨大な姿を見せ始める。

三 強烈な古墳文化
1 壱岐の古代遺跡
壱岐の古墳は250個あるが、鬼の窟古墳(巨石を用いた石室を持つ横穴式円墳)は日本列島内の古墳の中でも巨大なものである。八世紀後半には、壱岐の支配層は都と深い繋がりがあったことが覗える。

2 華やかな巨石墳
三世紀頃の壱岐と対馬は、「倭人伝」の記述によれば似たような状況であった。しかし、六~七世紀における壱岐には特異な役割があったらしい。そのことは、小国である壱岐の古墳は大和、河内、山城、吉備、出雲、筑紫、肥後など大国あるいは上国と同レベルだが、対外交渉における必要性の状況が似た対馬、末盧、五島、多褹にはこのような古墳はない。また、壱岐の古墳の線刻壁画からは被葬者の海人的性格が覗える(後で述べられる、磐井と大和政権の戦いの影響が推測される)。

3 壱岐と捕鯨
出土する石器から、捕鯨そのものは縄文時代の前期から中期に溯ることが推定されている。壱岐の古墳の線刻壁画にも捕鯨を覗わせるようなものがある。

四 宗像の文化
1 宗像の地域
宗像の地域(北九州玄界灘沿岸東部)は、古墳時代末期において大きな勢力であった。そのことは、日本列島で二番目の巨石墳宮地獄大塚)が畿内ではなくて、宗像郡にあること、海の正倉院といわれる沖の島は、この地と対馬上県の丁度中間にあり、海の北の道(南の道は奴国、伊都国、末盧国と壱岐、対馬下県ルート)をなしていることなどから推定される

2 塔ノ首石棺と女性の被葬者
卑弥呼の時代の直前頃、北と南の海の道を支配していた人々が居て、その指導者が女性であった可能性もある。そのことは、海の北の道を守護するのは宗像三女神であること、海人集団ではしばしば女性が男性同様の活躍をしていたこと、対馬の東北端にある塔ノ首古墳群の出土品は海の重要な交易ルートとその支配者の存在を覗わせること、塔ノ首三号石棺の中に、二世紀頃の二十代の女性の歯が残されていたこと、などから推定される。

3 早舟と海上輸送
縄文時代から舟は使われていたが、丸太をくりぬいたものものであった。古墳時代の舟資料や銅鐸や土器などに描かれている絵や出雲神話などから、弥生時代からは、古墳物資を運ぶことが可能な舟も使われ、万葉集などなどから海難事故も多かったことも推測される。
弥生時代から古墳時代にかけて、情報を伝える早舟があったと推測され、この地域の海人の性格なりが日本文化の形成に影響したと考えられる。

五 磐井勢力と海人
1 継体・磐井戦争と玄界灘地域
『日本書紀』によれば、武烈で皇統が絶えたので、あらたに越(北陸)からオホドが河内に入り、507年に北河内の樟葉(枚方)で即位し、そこに宮(都)をおき、その後淀川水系流域に宮を構え、磐井との戦争の前年に大和の玉穂(桜井市か?)に根拠地を移した、となっている。
古墳の埋蔵品から、日本海西部沿岸地帯に、朝鮮半島諸国との関係(推測だが中国北朝との関係を含めて)を強く持つ国際性が発生したのではないか、と考えられる。それによって、倭の五王時代から引き継がれている大和の保守的な停滞が際立ってきて、徐々に高まりつつあった磐井の勢力に対して対抗するためにも新たな大王の出現が期待されたのかもしれない。
磐井の勢力の中心領域は筑後川下流左岸付近(現在の久留米市、八女市あたり)で、直接の海域は有明海であった。磐井勢力の古墳群、八女古墳群に、北部九州最大の前方後円墳である岩戸山古墳がある。そこの石像遺物と記紀の記述からも、磐井政権が大和政権に対抗しうるほどの優れた統治(裁判)能力を持っていたことが覗える。

2 新羅海辺を伐った壱岐の海人
『日本書紀』だけでなく『筑紫国風土記』『旧事本記』『海東諸国記』などの記述から、大和政権と磐井の争いは朝鮮半島南部の利権争いであることは明確であるが、瀬戸内海西部や玄界灘海域の拠点と海人掌握の争いであったとも推定される。磐井の子の葛子が志賀島の郡にある倉(この屯倉は内外との交易の拠点)を献上して死罪を免れたこと、壱岐の海人が新羅海辺にいた磐井の従者を伐ったという伝承、大和政権と離脱して筑紫と三韓とが外交的に結ぼうとした時、壱岐などの島々の人々が中央政界と常日頃深い接触があったと推測される伝承、などはそのことを示唆している。

(以上一から五にわたり)「海人の生活は、土地土地に残されている生活遺跡から復元できる生活の内容と、古墳に示されている生活の内容とでは、海人のイメージが大きく異なることを本稿では述べようとした。このことは、単に対馬、壱岐、宗像に限らず、日本海、瀬戸内海、太平洋などの沿岸にのぞんだ古墳や遺跡。あるいは河川沿いの遺跡にもうかがえることであろう。」
(縄文時代より古墳時代にかけての数千年にわたり、対馬を介して朝鮮半島南部と日本列島の間には南北にわたる海の交流ルートがあって、その担い手である海人は大きな影響力を持っていたと推定される。このことは弥生時代から古墳時代にかけての日本列島における人々の暮らしぶりの理解を変容さる。日本および日本人の基盤は、稲作を行う農民だけではなく、海を通じて交流していた海人によっても作られていた)。



畑作文化と稲作文化(佐々木高明)

はじめに
稲=コメは、日本人にとって主食、主要な生産品以上の文化的・社会的価値を有していると一般に思われているが、稲の収量が急速に向上するのは明治以降であり、中世の農民の主食は、アワであり、古来、産土の神に祈願してきたのは「五穀の豊穣」であった。
日本文化は稲作文化と非稲作文化(畑作)の二つの異質文化により構成されており、歴史の過程で後者から前者へ移行・同化されてきたと考える。本稿では、考古学や民族学あるいは農学などの資料によりながら、アジア的な視野に立って畑作文化と稲作文化の系譜・展開・特色について考察する。

一 稲作文化の伝来と展開
1 東アジアにおける稲作文化の成立とその伝来
稲作文化は、弥生時代に入る前よりアジア大陸の一角から北九州へもたらされた(初期稲作文化)。アジアの栽培稲の有力な起源地はアッサム・雲南から東南アジア北部に至る高地と言われており(最近のDNA分析などから長江下流説など異説も出てきた)、紀元前5000年程には長江の中・下流域で稲作が始まり(痕跡ではあるが)、紀元前3000年程には同地域で水稲作が盛んになり、紀元前1000年には長江と淮河の下流域から水稲作や稲作文化が朝鮮半島や北九州へ伝播したと考えられる。

2 弥生文化の成立―――縄文から弥生へ
新しい稲作文化を、朝鮮半島から北九州へもたらした人々は、縄文人とは形質的特徴が異なっており、彼らがもたらした稲作文化の諸要素およびその背景にある世界観や社会的・政治的統合原理が、旧来の縄文文化の上に加わって弥生文化は作られた。
l  稲作文化の諸要素とは
Ø  水田稲作関係の諸要素、養蚕と絹の製法技術、青銅器の鋳造や鉄器の鍛造・加工技術など、当時の先端的諸技術
Ø  銅剣・銅矛・銅戈などの武器や宝器の類、支石墓や多鈕細文鏡はじめガラス製の玉や管玉、あるいは骨占いや鳥霊信仰の習俗など、非日常的なもの
l  在来の縄文文化から受け継いだ文化要素とは
Ø  竪穴住居をはじめ、石器・土器・木器などの製作・利用の技術、狩猟や漁労の技術、有用植物の採取とその利用方法、半栽培と畑作の技術など、その多くは日常的生活文化に関わるもの
Ø  西日本の縄文文化は照葉樹林文化に強く彩られたものであった
日本列島の初期稲作文化と、紀元前1000年位の東南アジアの初期稲作文化(雲南・北ベトナムあたりのドンソン文化)の文化的諸要素およびその後付け加えられた水田稲作文化の諸要素とは、よく似ている。
「東アジアの水田稲作文化は、その基層に雑穀栽培を主とする焼畑農耕文化―――照葉樹林文化とも称しうるもの―――の伝統有していたことは間違いないようである。」

3 稲作文化の展開
縄文時代晩期に北九州に伝来した水田稲作文化は、遠賀川式土器の拡がりからわかるように、半世紀ほどの短期間に西日本に展開した。その展開範囲は縄文文化の突帯文土器の拡大範囲であり、縄文時代後・晩期には雑穀類を主作物とする焼畑農耕や稲と雑穀の混作(原初的天水田)が存在していたところであった(だから水田稲作文化が短期拡大した)。
東南アジアやインドの焼畑農業の村での筆者の経験から、水稲栽培は焼畑農業に比べて年ごとの収穫が安定しているので、水稲栽培が先駆的焼畑民に一旦受け入れられると、社会の上層部、中核部から周辺へと急速に広がっていく(並行して焼畑の伝統が廃れていく)。

二 基層文化としての畑作文化
1 稲作以前の農耕―――その復元と系譜
l  縄文時代は採集・狩猟・漁労を基礎とする食糧採集民文化であったが、その統合度は高く人口密度も高かったことは、いくつかの遺跡から推定されている
Ø  採集食物の遺物は、ヒョウタン、エゴマ、シソ、マメ類、ゴボウ、タイマなどの果皮や種子
Ø  縄文時代前期から中期にかけての作物栽培の規模は、筆者が「原始農耕」と呼んでいるような、狩猟・採取経済を補う程度のものであった
l  後・晩期になると、生物考古学的方法によって、焼畑の存在が推定されるようになった。西日本の一部ではすでに雑穀栽培型の稲作の営まれていたと思われる(筆者はこれを「初期農耕」と呼んでいる)。
Ø  畑の雑草、ヒョウタン、マメ類、アズキやアワ、ハダカムギ、ゴボウ、稲などの種子、時の胎土や土壌中からの稲のプラントオパールなどからの推定
Ø  最近まで西日本の山村地帯では焼畑農耕が営まれており、これらの焼畑の作付け方式は伝統的に固定されたもので、作物構成とともにアジア大陸の照葉樹林帯と類似しており、古い信仰や習俗も対比することが出来る
Ø  「私は、西日本の照葉樹林帯には、少なくとも縄文時代の後・晩期以降、雑穀栽培を主にし、それに芋類の栽培も加わった、典型的な照葉樹林型の焼畑農耕と、それに基礎を置く文化が成立していたと考えているのである。」
l  稲作以前の農耕がすべて照葉樹林文化の系統のものばかりではなく、中国東北部、シベリアなどの北方系の作物系列のものもある
Ø  現在の日本の作物も、東日本のカブ・ダイコン・オオムギ・ゴボウ・ネギなどについての補足遺伝子の研究などから明らかにされている
Ø  中国東北部・アムール川流域・沿海州を含む北東アジアの落葉広葉樹林(ナラ林)帯では、紀元前2000年紀末から紀元前1000年紀頃にかけて、竪穴住居に住み、狩猟・漁労を営むとともに、アワ・キビ・ムギ・ソバなどを栽培し、ブタを飼育する文化が広がっていたことが知られている(筆者は「ナラ林文化」と呼んでいる)
Ø  「ナラ林文化」の影響が少なくとも縄文後・晩期には日本列島に及んでいたことが覗える。」(青森、北海道南部から北九州に至る日本海沿岸の縄文遺跡から)
l  「水田稲作が伝来する以前の時期に、日本列島に南・北の二つの方向から、焼畑農耕とその文化が伝来してきたことはほぼ間違いないと思われる。これらの畑作文化は、稲作文化とは基本的に異なった構造を持つ別種の農耕文化であり、二つのうちより大きな影響を後世に残したのは、照葉樹林文化として類型づけられる南から来た畑作文化であったと考えられるのである。」

2 照葉樹林文化の伝統
l  照葉樹林型の焼畑農耕が営まれていた地域(西日本)では、完結した一つの生活体系を持っていて、それは水田稲作農耕のそれとは異質なものである
Ø  1950年年代の後半頃まで典型的な照葉樹林型焼畑農耕が営まれていた熊本県の五木村や九州山地をはじめ四国山地や奥三河山地での事例から
Ø  生活体系とは、農耕作業と対応する、祭りなどに象徴される村民の生活リズムや、儀礼的狩猟やその残存形態などの慣行に良く現れている
l  東アジアの照葉樹林帯の焼畑文化には、狩りの獲物の血の呪力によって作物の豊穣を祈る共通の観念と習俗が広く伝承されてきた
Ø  中部インドやインドシナ山地、華南山地や台湾山地の焼畑民では今でも見ることが出来る
l  東アジアの照葉樹林帯全域で最も重要な畑作物はアワである。アワの新嘗に象徴される文化的特色は、儀礼的狩猟や歌垣の慣行などとともに、照葉樹林帯の焼畑文化の基本的特色に関わる重要な要素であって、それらは稲作文化を構成する要素ではない
Ø  『常陸国風土記』には「粟の新嘗(収穫祭)」が歌垣の起源として語られている
Ø  ヒマラヤや西南中国の少数民族の村々など、照葉樹林帯の焼畑民の間では、歌を唱い交わして愛の交換を行う歌垣の慣行があることは広く知られている
Ø  台湾山地の焼畑農耕民を調査した著者の経験も、アワの新嘗に象徴される文化的特色の存在を裏付けている
l  その他にも、照葉樹林文化にそのルーツを求められるが稲作文化を構成していない文化的要素も沢山ある。山の神信仰、モチ製品をハレの食品として儀礼に使用する、ミソや納豆のようなダイズの発酵食品、茶の葉を加工して飲用する、麹を用いて酒を醸造する技術など

3 畑作文化の展開
l  日本の畑作文化の伝統は、照葉樹林型の焼畑文化のみに根ざすものではない。東日本のナラ林帯の山麓や大地に展開した畑作文化は、五~六世紀頃以降は牧馬の慣行とも結びついてユニークな文化伝統を形成した
Ø  1982年に発掘された、群馬県の榛名山の噴火で埋もれた六世紀中頃の村落遺跡(黒井峯遺跡)から、古墳時代の畑作村の実体がはじめて明らかになった
Ø  1991年に発掘された、群馬県の二ッ岳の噴火で埋もれた六世紀中頃の村落遺跡(白井遺跡)からは、休閑期の畑地で馬の放牧をしていたと推定される遺構が見つかった
Ø  関東平野周辺の台地からは、弥生時代以来、稲作ではなく畑作が中心で、狩猟がそれに伴う文化の伝統がひろく定着していたと推定される遺物が多数発見されている
Ø  『万葉集』の「東歌」には「(うま)()ごしに麦食む駒の」と謳われてもいる
Ø  ユニークな文化伝統とは、休閑期の畑では馬の放牧を行うという、輪作と放牧が組み合わされた畑作農耕文化
²  遺跡などから、輪作は雑穀類(夏作)、ムギ(冬作)という輪作で、刈り後放牧の休耕地と耕地の区分が推定され、共同体規制の存在も推定される
²  著者は1989年に、類似の耕作規制を中部ネパールの実例として紹介した
²  畑作と牧馬の慣行の伝来と定着の歴史は全く不明だが、西日本からではないことは明らかである。後の渤海使が来日した日本海コースで大陸から関東地方にもたらされたのかもしれない
²  高麗経由説もあるが、定かではない
Ø  「東日本のナラ林帯では、六世紀ごろ以降、アワ・キビ・ソバなどの雑穀類やムギ類を主作物とする畑作と牧馬の慣行が深く結びつき、特有の畑作文化が生み出されたことは確かである。」
²  その伝統の中から「僦馬の党」が生み出され、中世の騎馬武士団が形成されたのかもしれない
l  畑作に依存する非稲作文化は、東国や西国の僻地に見られただけではなく、少なくとも九世紀ごろまでは機内の周辺地域にも広く存在していたし、畿内周辺の山地においては中世初期ごろまでは、山民文化の伝統を持つ人々が固有の生活を営んでいた。
Ø  8956月に、大和国の吉野にある丹生川上神社の神官たちが、「国栖戸百姓や浪人等」が神域を犯すことの禁止を求めて訴えたので、山民に禁令が出た
²  「国栖戸百姓や浪人等」とは、古くは『応神紀』などに登場する吉野地方の典型的な山民の後衛
Ø  同じ頃、大和国の春日大社の神山や山城国の東大寺・元興寺・大安寺・興福寺領の杣山(権門などの山林)などでも同様な抗争が起きた。有名なのは石上神社と山民の抗争(8673月に大和国から山民に禁令)

三 稲作文化への収斂と畑作文化の伝統
1 稲作の拡大と稲作文化への収斂
l  弥生時代初期以来拡大してきた水田稲作は、七~八世紀ごろを境に国家レベルの統合を背景にして一挙に拡大したが土地利用はまだ粗放で「損田」の割合が高かった。その後十二世紀頃にはそれらが改良され、「近代石高制」の感性で頂点に達した。この間に、文化の面からは「稲作への文化的収斂現象」が生じた。
Ø  「稲作への文化的収斂現象」の事例
²  焼畑農業が盛んに営まれていた1950年頃の五木村での著者の調査
²  民俗学者の坪井洋文の調査(著作『イモと日本人』に記載)
l  『記紀』に記述されている二種類の稲作起源神話から、稲を巡るシンボリズムの社会的・政治的意義の違いが明白に読み取れる。
Ø  「死体化生型神話」は雑穀栽培型の焼畑農耕とともに古い時代に中国大陸から西日本に伝来したもの
Ø  斎庭(ゆにわ)の稲穂型神話」は天孫降臨神話の一部として語られているもので、朝鮮半島の支配者降臨神話と関係を持つようであり、神話学者の大林太良によると古墳時代に入ってから、五世紀ごろに朝鮮半島から日本列島に流入した支配者文化の一環として捉えるのがよいのではないか」となる

2 畑作文化の伝統とその評価
l  生業と生活に関して、水田稲作民のムラでは稲作に著しく収斂するが、山民のムラでは極めて多様な特色を示す。
Ø  山民の生業と生活が極めて多様な特色を持つ理由
²  中核をなす生業の体系がない(農民の生活における「水田稲作」のような)
²  生活空間が広く、自然条件が多様である
²  自然の分類・認知の体系が著しく精細、自然利用の技術も多様に分化
l  精神世界に関しても、その分化の基礎を構成するものの相違によって水田稲作民と山民では異なっている。
Ø  山民の精神世界の中心にあるのは山の神信仰
²  山民たちの持つ自然や生活についての分類・認知に関する価値体系が存在する
²  その存在の背景には、神々や精霊に関わる精神世界の分類・認知体系が広く存在する
²  山の神は、山地で営まれる極めて多様な生業活動のすべてに関わる生産神
Ø  水田稲作民の精神生活の中心にあるのは祖霊、やがて祖霊から常駐する神
²  神は稲の生産を司る神へと収斂する
²  稲の生産を司る神が家や一族の幸せを司る祖霊と見なされる
²  祖霊はやがてムラの中に社を持つようになり、そこに神が常駐して祭られる
l  山民文化の壊滅に大きな影響を与えたのは、近世初頭に幕藩体制から仕掛けられた山村地域の「大討伐」であった
Ø  北山一揆(1614年)、椎葉騒動(1619)、祖谷山一揆(1620)などが代表的で、これらの一揆と通常の百姓一揆は異質であった
²  土豪層と百姓の両者を含んだ地域全体の反抗であった
²  舞台が山間奥地で、武力衝突が繰り返された
²  一揆の鎮圧には討伐軍の派遣による武力行使で達成された
²  結末はすべて一揆側の敗退で、大量の殺戮を伴っていた
Ø  「山村一揆は、近代石高制に象徴される水田耕作社会の支配体制と非稲作社会が対決し、後者が抹殺・解体を余儀なくされる最後の事件であったということができるようである。」
l  本論で二つの文化の特色を対比して述べたのは、両文化の対立関係を強調するためではなくて、日本文化を単一の稲作文化としてみようとする従来の日本文化論と異なる視点に立つことを強調するためである
Ø  畑作文化と稲作文化の間には、対抗しながらの重層・同化の歴史的プロセスがあり、それを可能にした柔構造も日本文化の特色の一つと言えるかもしれない

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