一 地球環境危機の時代における歴史意識
地球環境問題という二十世紀末に人類が直面した危機を回避する道を歴史科学の立場から模索しようとするのが本稿の目的である
二 列島の自然
1 多雨・多雪の列島
2 森の列島
日本人の人類史的位置は、モンスーンの暴威に圧倒された「受容的忍従の民」(和辻哲郎説)ではなく、森野文明を育んだ「森の民」として位置づけられる(1980年安田)。
3 海の列島
日本列島を囲む海は、豪雪と豪雨をともにもたらす厳しく特異な風土、豊富な海産物、交通路と同時に外的世界からの遮などをもたらし、人々の文化に大きな影響を与えた。
三 列島の地域性の形成
明らかに日本列島に新人が登場したであろうと文化的に判断されるのは、三万三千年前頃である(ただし2000年末に旧石器時代遺跡捏造事件などで訂正必要かも)。
四 森と海の列島の誕生(注:年代表現は小生が挿入した町田等作成の下表参照)。
出典:『地球史が語る近未来の環境』日本第四期学会 町田洋/岩田修二/小野昭編 東京大学出版会 2007年 8P
1 森の文化の形成
気候は一万五千年前から温暖化し、一万三千年程前から湿潤化し、多雪、多雨のもとで森の拡大、大型哺乳動物の減少が起こり、細石器と土器が出現した
2 海の文化の形成
八千年前頃に海面上昇によって対馬暖流が日本海に本格的に流入し、日本列島の海洋的風土が完成し、森と海の両方の文化を持った縄文文化が確立した
3 都市文明を欠如した森の文化
l 八千年前から五千年前は気候最適期と呼ばれる高温期であった。日本列島では縄文海進期にあたり、内湾型社会が発展した。
l 五千年前に気候が寒冷化した。メソポタミア地方は気候が乾燥化して砂漠が進行し、遊牧民も大河のほとりに集まってきて農耕民との混合が始まり、都市文明が誕生した。
l 五千年ほど前以来、西アジアの麦作農業社会は富と権力の集中、不平等と戦争を生み、文明は一部の支配者のものであった。
l 五千年前の日本列島は寒冷化と湿潤化が進み、「縄文中期の小海退」が起こり、内湾型社会が行き詰まり、内陸の特定地域(ナラやクリ林)に縄文社会が形成された。
l 縄文時代中期の温帯落葉広葉樹林で土偶の出土が急増する。これは人口極大期に異常に高まった社会的緊張を緩和するための文化的装置であったと推測される。
l 縄文時代の森は、一部の権力者の欲望から自由であることを可能とし、また自然を無用な収奪から守った。このことが縄文時代を長らく自然と共存・調和した社会として維持することを可能にしたと推測される。
五 森と海の文化の再認識(注:人類史概要は、小生が挿入した貝塚作成の下表参照)
出典:『地球史が語る近未来の環境』日本第四期学会 町田洋/岩田修二/小野昭編 東京大学出版会 2007年 21P
l 約九十万年前にヒマラヤが隆起し始めて、アジアモンスーンの循環(季節風)が確立したときに、その地のヒト属は進化と拡散を開始した。その頃、地球は十万年の周期の氷期と間氷期を繰り返し、ヒト属箱の激動の時代を生き抜き、進化・発展した。
l 爆発的に世界中に拡散した新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)は、三万年の間に、温帯の大森林をことごとく破壊し、大型補充動物を絶滅に追い込み、海や大気を汚染し、地球の気候まで改変するようになった。
l ホモ・サピエンス・サピエンスは草原のビッグ・ゲーム・ハンターであった。しかし日本列島の後期旧石器時代人は森の狩猟民でもあった。
l 一万年程前には、日本列島の人々は豊かな海産資源(貝塚の出現)を利用した海の文化を形成していたので食物の貯蔵は必要がなかった。同じ頃、西アジアの人々は大草原の中でムギ作農業という技術開発で生き延びたが、それには貯蔵が必要であった。
l 五千年前頃の気候悪化を契機として、西アジアでは都市文明が誕生した。都市文明は穀物栽培と貯蔵という富の蓄積に端を発した階級社会であり、自然の破壊と収奪・搾取型の文明であった。貯蔵という富の蓄積を必要としない森と海の文化これとは対極をなしており、一万年もの間戦争のない社会を維持した。権力者に富が集中しない社会は、人と人が殺し合うこともなく、無用な自然の収奪も回避された。
l この階級関係を全世界に広めたのは近代文明であり、現代文明はこの延長上にある階級支配の文明である。マルクス主義もまた階級関係の逆転を試みたにすぎないから、階級支配の文明の枠を出るものではない。
l 搾取と収奪の最も底辺に位置する自然そのものであった。「二十世紀後半に顕在化した地球環境問題は、この階級支配の文明が持った自然搾取の酷悪の構造に起因していることは、もはや誰の目にも明らかである。」
■日本人の形成(埴原和郎)
はじめに
少なくとも二万年以上前から、アジア人は東アジア全域、アメリカ大陸、グリーンランドおよび太平洋地域に拡散し、それぞれの自然環境に適応してさまざまな特徴を獲得し、また多様な文化を発展させた。
本稿で「日本人」というのは日本列島に住み、祖先集団と文化ならびに遺伝子プールの基層を共有する集団を意味する。
一 研究小史
l 日本人の起源についての科学的研究は、1823年に来日したP・F・フォン・シーボルトから始まった。
l 諸説を分類すると三つある
①
人種交代説(人種が一二回入れ替わった)
②
混血説(縄文以来の土着民と弥生以来の近隣集団との混血)
③
移行説(混血はなく縄文人が変化していった)
l 従来の諸説に共通な欠陥は、現代にもみられる地域性が考慮されていない、アイヌ系と沖縄系と本土系集団の関係が説明されていない、こと。
二 アジア人の拡散と適応
l アジアで発見された古い人骨(北京原人、ジャワ原人)と現代人をつなぐ進化の過程は分かっていないから、この稿ではほぼ三万年前の更新世末期から現代に至る新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の段階に限る。
l 新人段階になってから、原アジア人はスウダランド(東南アジアで、ウルム氷期に南シナ海に張り出していた大陸棚)を起点として大規模な移動を開始し、日本列島には、大陸内部経由で寒冷適応した北回りグループと、スンダランドや大陸大陸沿岸伝いの南回りグループの、二手に分かれてやってきたらしい。
三 旧石器時代
現代日本人の直系の祖先と思われる人骨は、いまのところ最古の例でも約一万八千年前のものである。その代表は沖縄で発見された港川人である(注:旧石器時代の日本列島の新人については、人骨がないからよく分かっていない。石器等では疑問多し)。
四 縄文時代
古い人骨からのDNA分析が期待されている。縄文人と東南アジア系集団との近縁性をしめす一部の結果も出ている
五 弥生時代(注:詳しくは『古代国家はいつ成立したか』(都出比呂志2011)等参照)
この時代の最大の特徴は、縄文人と弥生人が同時に存在したこと
六 古墳時代(注:詳しくは『古代国家はいつ成立したか』(都出比呂志2011)等参照)
渡来人数は従来の想像よりもはるかに多かったことは種々のデータが示している。(筆者は「埴原の百万人説」と紹介されるのは本意ではなく、100万人という数字には特に意味はない、と述べている)
七 周辺の集団
周辺というのは、古代の都が営まれた近畿地方から遠く離れた地域(北海道、関東以東、九州、沖縄など)。北海道のアイヌはその代表的な人たちであるが、遺伝的研究等で彼らはアジア系集団であることが証明されている。周辺の人々は渡来系の影響が少なく、近畿地方に近い人々は渡来系の影響が多い人々であった。
八 現代日本人
日本人の多くは東日本と西日本の違いに気付いている。それは文化や身体形質にもみられ、考古学的、DNA配列からも裏付けられている。注目すべきは、この境界線が地質学で言うフォッサ・マグナにほぼ一致しているところである。この構造線を境に自然環境や生態的条件が大きく異なるからだという説明がなされている。
「日本人はしばしば単一民族と言われる。しかし東南アジア系と北東アジア系の集団が混在し、それらの混血が現在もなお進行中であることを考えれば、日本人は「混合民族」と言うべきであろう。」
九 動物などの分布
「日本犬、日本の野生ハツカネズミ、あるいはATLV(成人T細胞白血病ウイルス)の保有者などの分布もまた、日本人の形成について極めて示唆的な情報を提供する。」
十 総括
日本人集団の起源については十九世紀以来人種交代説が有力であったが、説明できない事柄も多く、科学的データが蓄積されるにしたがって混血説、移行説が有力になってきた。本稿の説明は「二重構造モデル」と表現して良いだろう。
■人口誌(速水融)
一 歴史と人口
l 人口は数だが、そこには社会集団として意味を汲み取ることのできる属性が付属する
Ø 一時属性は、性別と年齢
Ø 二次属性は、家族や世帯内の位置、職業、信仰、身分、階層、国籍等々
Ø 以上の静的属性とは別の区分として、生死、婚姻、移動など動的局面がある。(属性と数は相関しているから属性から数を評価できる)
l 人口誌
この言い方は、広く人間の属性を内容として、総合的に人間集団を捉えて、観察・分析すること
この言い方は、広く人間の属性を内容として、総合的に人間集団を捉えて、観察・分析すること
Ø マルサス人口論→「食料は算術級数的、人口は幾何級数的だから限界有り」
Ø E・ボーズラップ仮説→「人口増→相互刺激→生産・技術発展で限界越える」
Ø 事実はaとbの限定つき合算
l 都市と農村の人口区分は人口誌理解の有効な方法であるが、考慮すべき事は下記
Ø 都市人口の性格
² 政府権力で維持されていると、例え大都市でも、その都市の市場経済は周辺全域的性格を持たない
² 大都市と周辺中小都市がネットワークを作っていると、都市と農村は市場経済で結ばれている
Ø 前工業化社会における都市人口の低再生産力の理由
² 都市墓場説(都市蟻地獄説)→病気、飢饉、戦争、天災による大量死亡や外部への移動
² 結婚や家族形成、男女比率、移動
二 1600年以前の人口
l 先史時代
Ø 旧石器時代は10,000人くらいが均一分布→食料システムとその獲得技術から推定
Ø 縄文時代は最高300,000人くらいで東日本が多い
Ø 弥生末期は1,000,000位
Ø 弥生から8世紀までの1000年間に渡来人1,200,000人(埴原説)
l 歴史時代
Ø 奈良朝は5,600,000人
Ø これから1600年代まで人口調査行われず(人口統計暗黒時代)
Ø この間、京都の人口推定は50,000から200,000まで振れる
三 近世の人口
l 1600年頃10,000,000±2,000,000→太閤検地、大名調査文書、筆者独自推定
l 1720年頃31,000,000→幕府全国調査と筆者独自推定
l 17世紀最後の30年間の人口増加率年率1.4%。→各地の地域研究成果
l 1721年から1846年までは26,000,000から27,000,000
l 江戸は1,000,000内武士が半分
l 地域で人口変化にばらつきがある
Ø 北は減少→自然現象の影響大きい
Ø 東は減少横ばい→大都市が人口を吸収して消費した
Ø 西南は増大→大都市少ない
Ø 畿内中心地区現象→都市墓場説の典型
Ø 北陸増大→原因不明
Ø 19世紀に北と東が増大傾向、中断もしているが飢饉と疫病が原因
Ø 安政開国後のコレラが減少要因
Ø 1846年幕府最終調査から1870年の明治政府最初の調査まで空白
l 出生・死亡・結婚・移動
Ø 近世の人口静態・動態分析、一部には個人の行動分析について、「宗門改帳」あるいは「人別改帳」は、良いデータを提供する。以下はその例。
² 「宗門改帳」はもともとキリスト教禁止政策の産物で1638年に直轄地に、1671年に全大名に命じられた。本籍地主義と現地主義の二つの原理が並存した。
² 「人別改帳」は16世紀末の「人畜改帳」系列なので、「宗門改帳」と歴史が違うが、人口調査資料としては同質なので「宗門改帳」として扱う
² これらの記録の発掘・研究・公刊はまだ途上だが、それらおよび筆者が行った研究事例(信州諏訪、濃尾、畿内都市)に基づいて推定した
Ø 出生
² 粗出生率(一年間の出生数/年央人口)では不十分だから、年齢別出生率、合計特殊出産力(TFR、女子が婚姻期間中に出産する回数で年齢別出生率の合計と同じ)が必要
² 家族復元法(1950年代後半に開拓された方法で、年齢別出生率の測定が可能となった)宗門改帳をこの手法で解析することが出来た
² 合計特殊出産力の信州諏訪地方の事例では、十七世紀中は九人、十八世紀後半には約五人
Ø 死亡
² 宗門改帳では、記載前に死亡した乳児は記録されていないが、記録に残る出生数の20%とされている。
² 宗門改帳が、現地主義を取っている限り、粗死亡率(一年間の死亡数/年央人口)だけでなく、年齢別死亡率、生命表などを算出できる
² 近世の日本には、大きな戦乱はなかったが、流行病や飢饉がたびたびあったから、平均的な粗死亡率に平年における値を採用すると、大体25-30‰。
² 死亡年齢分布
l 農村地帯では、幼児期に多く、青年期に減少し、50歳くらいから増加し、70歳あたりがピークとなっている(幼児期を乗り超えると比較的長く生きた)
l 都市部では、、幼児期に多く、青年期から老年期にかけてあまり変わらない。10歳以上の死亡率は農村部より高い(都市ではいつ死んでもおかしくない)。
l 生命表の作成にはさまざまな要件が必要となる。ゼロ歳児の死亡パターンを現在と同じとしての計算事例では出生時平均余命は男36.8,女36.7となった(美濃国の一村)。
Ø 結婚
² 女子の平均結婚年齢は、特に低い奥羽地方で17~18歳(幕末)、西日本で22~23歳。この差は出生回数差と整合性がなく、奥羽地方では乳児死亡率が高いか出生制限が強かったと推定される。
² 結婚継続期間の中断(離婚、死別)は5年以内に集中し、25年以上継続するのは4分の1程度、再婚は普通で、50歳以下の男子、35歳以下の女子は殆ど再婚する
Ø 移動
² 江戸時代の農民は「封建的束縛」で移動の自由はなかった、といわれてきたが、そうでもなかった。
² 移動先は他の農村に限らず都市も含まれ、移動は結婚、養子縁組に限らず奉公人として遠距離を移動した。
² 美濃のある村では、10歳まで生存したもののうち男子は50%女子では62%が一度は村を離れて他の農村や都市で働いて、男子ではその半分女子では3分の1が都市に行ったまま帰らなかった。この村の人口規模は江戸時代後半の100年間は変わらず出生数は死亡数を大きく上回っていたので、その差が都市へ移動した数と推定される
² 農民の移動要因は農民の貧困に求められがちであったが、都市での成功の可能性にもあった。「都市での高い死亡率と併せて考えると、出世と夭逝の両極端の可能性のある都市への移動は、変化に乏しいが長生きの出来る可能性の高い農村での生活との、トレード・オフであったと言えよう。」
² 都市の宗門改帳から得られる住民の特徴は、頻繁な引っ越しである。一カ所の在住期間の平均は四、五年だが、最頻値は一年で、滞在期間一年以内の世帯は全体の60%。「大都市の住民は都市の内部で実に烈しく移動しており、このような状況では、借家層を含めたコミュニティの成立は、農村と異なり著しく困難だったに違いない。」
四 工業化前夜の人口
l 維新政府は「日本人」を特定する必要があったから、1872年2月1日現在の調査(同一書式)で所謂「壬申戸籍」を作成した
Ø 江戸時代の「宗門改帳」が事実上の戸籍簿、人口調査用に使用されていたが、キリシタン宗門改帳だったので列強の圧力で1871年10月に廃止された。
Ø 壬申戸籍の目的は、人口調査と出自調査の二つあった。そのことが、現在においてもこの資料の公開を阻んでいる。
Ø 既に欧米で始まっていた「国勢調査」も、旧幕臣の建言が取り入れられて1879年12月31日調査の『甲斐国現在人別改』(とても優れている)が作られたが、明治14年(1881年)の政変以降国勢調査の機会を失った。
l 維新政府が最初に調査した1872年の人口は33,110,000人(琉球含む)、後で修正して34,800,000人、これ以降増加し続け19世紀末の増加率は年に1%。工業化を迎える頃の日本は大体40,000,000人で、増加率年1%、都市人口比率20%、平均寿命45歳前後であった
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