2016年8月22日月曜日

岩波講座 日本通史16巻~20巻(近代1,2,3,4,現代1)【通史】読書感想

ベルサイユのばら
20037月から200041月にかけて通読した、日本通史16巻~20巻の通史部分(1850年位から1960年位までの100年間)についての読後感を一まとめにしてみた。
岩波歴史講座の新シリーズ『日本歴史』全22巻が出たので、近現代史(15巻~19巻)についてはこちらの方でもう少し詳しいメモを作る予定にしている。
 
◎日本通史16巻(近代11850-70年代の日本---維新変革(安丸良夫)
歴史の勉強は必ずしも古い順番に読まなくても良いと何処かで読んで一理あると思い、岩波の日本通史は近代からも読み始めてみた。
当巻は、幕末から開国、明治初期に至る1850-70年代及び関連事項を扱っている。そう書いてはいなかったと思うが明治維新は外国の圧力を利用した政権奪取(クーデター)であると思った。そして、その新政府はよくやったと思う。
しかし、上手く行った理由は政府自体とともに下級武士たちの素養の深さ、民衆の率直さ、支配層の道徳観、それらの人々を含めた日本列島の自然などに起因するのではないだろうか。その原因を学ぶことは歴史を学ぶことそのものである。
とにかく西欧で発生した近代国家が、その啓蒙思想とは矛盾する植民地帝国主義の政策に基づいて、利の存在する他の地域国家に仕掛けてくる政策に対抗せざるを得ない突然の状況の中で、しかも必要な思想の理解浸透や科学技術の獲得は当然のことながら間に合わないという状況の中で、我々の先輩方はよく対処してくれたと思う(この巻までは)。
現代の状況と比較して見てみると、科学技術の獲得やそれに基づく経済発展の方はさておき、近代西欧思想の理解浸透の方は遅々として進んでいないように思える。他の国で発生した思想を進める意味をさほど認めないのなら自分達の思想が深められて来たかといえば、そうは思えない。政治文化についてはむしろ後退したとも思える。

◎日本通史17巻(近代21880-1900年代の日本(大江志乃夫)
この巻は、維新直後の混乱も収まり、暴力より世論が政治に影響を与え始め、立憲国家設立の目処が立った頃に起こった明治14年の政変から始まり、日清・日露戦争の勝利を経て欧米列強に準じて帝国主義の参加者となった20世紀初頭頃迄を扱っている。その間に日本が行ったことは、何れも社会の根本問題であり、又極めて変化の激しいものであった。
それは、文化革命である文明開化、産業革命を伴った資本主義経済の導入、フランス革命のような惨劇を回避しての革命的政治体制変革等々である。万世一系の天皇制を権力の正当化根拠とする中央政権体制も、富国強兵・殖産興業政策も、脱亜入欧化思想も、おかしな点を多々含むとしてもそれらは日本が世界で生き残るための手段であったとも言える。
しかし、政府をはじめ官僚も経済人も宗教人も時の指導者の大勢はこの日本列島に住む人々こそが主権者であるという認識を深く共有するほど卓越してはいなかった。また、大衆も近代国家を担う主体として本当の自由を求めて現実的行動をとるなど出来はしなかった。
では、現代はどれほど進歩したのだろうか。当時の体制は天皇主権の立憲君主制だが、その実、制度的にも一部の人々に権力が集中する構造に作られていた。現行憲法は国民主権と謳われているがその実態はどうなのか?。
明治憲法では軍と教育は天皇直轄となっており、国民に対して直接絶大な権力を振るう根拠となっていた。現行自衛隊は主権者である国民が支持する国民のための軍隊なのか?そうでないなら一体何なのか。現代は心や思想の教育はなされていないのでは?それを担う仕組みは集団の文化そのものであるとすると日本列島の住民は自らの文化を破棄したのか?。
明治憲法では軍隊を動かす権力は政府でも議会でもなく天皇が持っているはずだったが、その実、軍部官僚の手に委ねられていく構造であった。時の政治指導者は、政治が軍により牛耳られる可能性があるその様な構造を危惧したが是正できなかった。国家運営上の非合理性が容認されるこのやり方は、現代においても政治文化として変わらないのではないか?。
この時期に起こった日本の産業革命は、軽工業中心で経済の力はまだ弱い一方、足尾鉱山事件に象徴されるように自然と住民の過酷な犠牲を強いた。これは政治状況の反映で今日もそのメカニズムは変わらないのではないか。経済は人間の幸福の目的ではなく手段であり、それを制御するのは政治であることを改めて認識すべきである。

◎日本通史18巻(近代31910-30年代の日本---アジア支配への途(江口圭一)
この巻は、明治政府等が日本を一つの国家として列強による支配から逃れられるまで強く育て上げた後、逆に自国が朝鮮・台湾・中国大陸など東アジア支配に乗り出して、ついには破滅的な太平洋戦争突入する前夜迄を取り扱っている。
ここに記されている事実が発生した本質的理由は一体何であるのか熟考してし過ぎることは無い。ここで説明されていたその理由を簡潔に言えば、それは日本帝国主義の二面性であるが、ではその様な二面性を制御できなかった理由は何なのだろうか。一言で言えばそれは日本列島に居住している人間集団の政治的判断能力・感性及びその根拠となる社会思想の貧困ではなかろうか。
日本の朝鮮併合と満州傀儡国設立は帝政ロシア南下政策の脅威に対抗するためというが、その戦略は歴史的判断に立てば無理押しに見える。先ず現地の人々の意思が軽んぜられており、国家そのものの認識に欠陥があったことを示している。続く対中戦争は殆ど戦略が見えず、前述の政治的二面性(仮想敵国、即ち米英から経済資源の供給を受けなければならない経済弱国にも拘らず軍事大国を目指す)の矛盾が顕著に現出し、プロセスとしては軍の暴走を制御できない政府失政の連続に見える。
そうなるとその後の太平洋戦争に政府が何らかの合理性を考察した否かなど考えるのも馬鹿らしくなろう。対米英欄開戦という国家と国民の命運を左右する重大方針が、御前会議という帝国憲法外の会議において密室談義で決められたことがそれまで70年ほどの歴史を象徴しているように見える。
この時代の思想の特徴は所謂大正デモクラシーから全体主義への短期間の変化の中に示される。「日本人の自由の意識は権力参加への自由に比べて権力からの自由は非常に弱かったので、昭和初期において自由主義なき民主主義が全体主義へ変貌した」、との記述が印象的であった。

◎日本通史19巻(近代41940年代の日本---世界制覇の挫折(由井正臣)
この巻は、太平洋戦争の開始から敗戦後の講和条約に至る1940年代までを扱っている。
日本国の掲げた「大東亜共栄圏」構想は、欧米列強のアジア支配から人々を解放することと称していたが、その実態は自国の富と権力のために他国を支配するものであった。そのことを自らの見識で見抜いた人々が少数派であった事実を正視し、その理由を訊ね、この悲惨な出来事の本質を深く考察し歴史の進歩の糧とせねばならぬと改めて思う。
敗戦後、対日講和条約に至るまでの6年間は、不十分だが以前よりましな暫定的な新政府を通した占領軍(GHQ)による間接統治が実施された。その間、旧体制の解体、新憲法の制定、国際状況を反映した政策の採用等が実施され、それらに基づいて国家が再構築された。
従って、GHQの意向がある限り、日本国の人為的な仕組みは国民の意向よりGHQのそれが優先されるものであり、またGHQの意向も、変化する国際情勢に対するその時の米国の判断を反映したものであったことを理解しなければならない。
一方、人間及びその集団がなしてきたことには連続性があることも理解しなければならない。新憲法に関して言えば、GHQ案は自由民権運動の遺産を継承した憲法研究会の草案に大きく影響されたことや、政府案に対するGHQの重要な改善指導点が国民主権や地方自治の明示という民主政治の基本部分であったことを理解すべし。
世界との関係について言えば、非全面講和、日米安保条約の締結、自衛隊の設置、日本の経済復興等、何れも東西冷戦下での米国の戦略の一環として実施されたもので、日本は独立国の体裁を取ってはいるが、世界体制の中では西側陣営に属する部分として再デビューをしたことを理解すべし。
それらは、今日の日本を今のところ平和な経済大国に成長させもしたが、対ロシア平和条約と北方領土、日本の旧植民地地域及びトバッチリで甚大な損害を受けた東アジア諸国に対する戦争責任、平和憲法と自衛隊と国際協力、米軍基地と安保条約等々多くの課題も残している事を理解すべし。
敗戦の本質は人々の感性・思想と現実の不適合にあったと思う。国家制度としての不備はその結果であろう。即ち、「自由」の概念が現実に不適合であり、それは今でも続いているのではないだろうか。「自由」の思想を具体的にルール化し、それを実効あるものにする手段を追求し続ける以外に人類が自分自身を原因とする滅亡から逃れる方法は無いと思う。

◎日本通史20巻(現代11950-60年代の日本---高度経済成長(中村政則)
ここでは連合国との講和条約締結後、国際政治では東西冷戦構造中の西側陣営への組み込まれ、国内政治では新憲法に基づく民主化とその反動及び基本政策としての経済成長路線を選択した1950-1960年代を扱っている。
日本は、日本のエリートが牽引してきた国家としての近代化の歴史が太平洋戦争の敗戦により一旦停止し、西欧近代民主主義の思想と西側陣営の利害を原理として国家の再構築がなされたといえよう。
米国が近代西欧啓蒙思想の具現国家であったためこの程度の混乱で済んだと言える。そのことは日本にとっても世界にとっても幸いであったろう。冷戦構造が崩壊して10年以上経過した今日、安全保障、教育、地方自治、企業のありかた等々、改めて日本の再構築が意識されるのは当然の成り行きといえるだろう。
安保体制ではなく中立政策を選択することは可能であったろうが、肝心の理論も将来に繋がる現実的な政策もあったようには思えない。国民は日々の生命を維持するのに手一杯でそれどころではなかったろう。従って、ここまでの経済成長路線は正解と思う。
問題は、中立路線を実現する思想を自ら創造し育てることが出来なかったこと、文化の価値を高めるどころか維持すら出来なかったことにある。だから当然、その思想を浸透することもできず、その思想に基づく行動を積み重ねることも出来ず、政党はせいぜい借り物の社会主義思想を根拠にした平和主義を唱えるくらいであった。

更に心の糧や誇りの代りに即物的欲望の充足を求めて社会が荒廃する原因を醸成した。このような状況に至らしめる何か特別な理由を求めているのではない。その点で言えばむしろ然もありなんと思っている。正念場は今から始まるだろう。それに対処するには、専制君主や宗教から開放されて個人の自由を獲得した近代の意味を更に深く理解することから始まる。日本においては市民のレベルであらゆる場面でまさにそのことをなすのが焦眉の急である。

2016年8月14日日曜日

岩波講座 日本通史06巻(古代⑤10~11世紀の日本-摂関政治)通史 玉井力 


日本通史06巻 (古代5
 通史(10-11世紀の日本-摂関政治)
玉井力
はじめに
フレンチレース
10~11世紀は律令国家の変質が決定的になるとともに中世的政治形態へ移行する過渡期である。しかし、今日においても社会や国家の特徴の捉え方は一律には定まってはいない。中央の支配機構について言えば、9世紀半ばから10世紀末頃までは摂関制の成立と太政官組織の変質期、以後11世紀半ば頃までの半世紀ほどが摂関制の確立期であり宣旨職と「所」及び受領制が本格的に展開した時期で、ここまでが古代国家の最終段階である。以後12世紀半ば頃までの一世紀ほどは官司請負制への移行期である(この章で記されている中央の支配機構の推移をもたらした理由については踏み込まれた考察はされていない)

一、王権・摂関・内覧
摂政関白制は、天皇の後見役であった藤原良房が九世紀後半に太政大臣(次いで摂政となったが)となったことが発端であり、外戚と太政大臣が二本柱であった。その後、摂関が律令官職を超越した地位となり、摂関と太政大臣が分離するとともに太政大臣が栄誉職化し摂関と藤氏長者が一体化する(地位を表す名称が、合議上のルールを守るという言語を媒介とする信頼関係の有効性を象徴するものから、血統と暴力による権威と恐怖の表象へと変質して行ったのではないか?するとこれは、集団が、弱く退化した統治原理を選択したことになるのではないだろうか?)
王権者である天皇には、父子関係を基礎とする「家」の家父長的権威に裏付けられた後見者たちがいた。後見者は行政面を担当する摂政・関白・内覧グループと、そうではない(天皇王権の私的集団)院・女院・母后などのグループに区別されるが、院は後に行政を担当する。これは王権が聖なる権威と世俗の権力に分掌されるようになったことを意味しているとともに、律令制的貴族政権ではなく王権代行的な分権的王制とでもいうような政治権力が出現していることも意味している。ここで、当時の天皇の聖なる権威とは一体何であったのかと言う分析はすべて今後の課題であるが、それを支える神事・儀式・政務も含めて複雑な様相を呈していたことは確かである(天皇の権威の本質についての説明はされていない)

二、官司制の変質
重要職務の任命機能や組織が変質していく。律令制下での官司の任命は天皇と議政官が参加する除目によって決定され、儀式によって組織として認知された。同時に、それとは別に即ち令外官として、同一組織内における(必ずしも官司組織とは限らない、つまり律令組織とは別の組織も存在したことになる。この別の組織の実態・実力について更に知ることが必要)上限関係に基づく任命方式である「宣旨」による宣旨職が存在した。これは別の官職を持つ人に特別の任務を担当させること、即ち「別当」するという考えに基づいていた。代表的なものは王権に直属する蔵人所と検非違使である。一方、諸司の行政機関としての官衙の下部実務組織としての「所」が存在した。10~11世紀にかけてこれらの「宣旨職」や「所」が律令体制とは別の統治組織として機能してくるようになる(その理由はここでは端的には述べられてはいないが、律令体制が統治権力と経済の掌握を当時の為政者が描いた目論見どおりには達成出来ず、別の統治機構が発生してきたためであろう。)。そのような状況の理解を深めるために、以下に蔵人所と検非違使が官司に取り換わっていく様子について説明する。蔵人所については、もとともと政治・軍事的な天皇直属機関であったものが9世紀中頃より経済的機能を増大させ、10世紀以降11世紀後半にかけて、各「所」で「贄人」などを使い「牒」を発して(特に山海の物資の調達力を獲得することにより)天皇家の家政機関の中枢となって行った。それを可能にした大きな理由の一つには交通路の支配があった。検非違使も蔵人所と同時期に成立した天皇直轄の治安維持機関で、捜索・逮捕・裁判・行刑、更には、交通路支配・強制徴税・人夫徴発なども請け負った。10世紀後半には裁判基準の慣例が成立した。
職務の成立についても変質していく。別当は、公卿や弁官・史などをして寺の事に当たらせたものだが、10世紀になると寺だけではなく諸司も対象となった。別当の任命は「所充」が行った。担当官職(弁官別当とも言うらしい)と諸司別当が並存する機関では、前者が通常実務を行い後者は総括的な監督の立場で異常時に機能したものと考えるのが妥当である。所充の中の「殿上所充」は摂関政治の前代下位に位置づけられるが、「官所充」は後述する官司請負制まで継続する。
職務を司る実務組織も変質していく。「年預」という官司の事務請負者に対する呼称が9世紀初めに存在し、これを「長官-年預制」と言うが、この体制は長官による監督機能が衰退すると律令体制を破壊する要素を内在し、事実11世紀初めには四等官制(長官、次官、判官、主典)を全面的に破壊するものとなっていた。いわば官内の儀式遂行プロジェクトチームであった「行事所」が、儀式遂行に必要な物資の調達業務を通して10世紀後半には独自の経済基盤築き、朝廷諸行事執行の重要組織となっていったことは、「長官-年預制」とリンクして律令体制を破壊して行った。蔵人所・検非違使の展開は、中務省・少納言・刑部省・弾正台などの職務を吸収しつつ進行し、9~10世紀を通じて律令制の八省クラスの総括官司は著しく没落して行った。10世紀末には太政官中枢部の公卿即ち議政官は、統一組織内で横に繋がった立場というよりも、王権-上卿-弁官という縦組織の一員となっていた。
11世紀前半頃までの摂関政治における国家的官職機構は太政官と蔵人所という別系統の二つの組織から成っていたが、蔵人所は上申・下達方法や官職兼務関係を通して太政官制に寄生もしていた。蔵人所は人を介して「山海の王」に繋がり、太政官は土地を介して「田の王」に繋がっていて、天皇家及び摂関家は交錯するそれらの支配関係を両方掌握する立場となっていたとも言える。官職の変質を行政事務部門とハレの儀式遂行部門に区分して考えると、前者は上述のごとく請負制的に変質して行ったが、後者は律令体制が生きている状況が見えてくる。
11世紀後半から12世紀中頃にかけて、社会の仕組みが「官司請負制」と言う形を整えていく。それは、荘園公領制の胎動の下で増加してきた権門間の訴訟裁定を国衙に変わって(権門の力が増大して、国衙の手に負えなくなってきたのだろう)政府が実施する動きと並行して進行した。政府の訴訟裁定に奔走したのは勘文を作成する「史」や「法家」たちであった。9世紀後半頃からは特殊技能保持者達は例えば諸道の職などとして世襲化しつつ伝習組織ごとに系統化されて、令性官制の従属関係とは別に官職横断的に官職を占め始め、12世紀半ば頃にかけて官司機能を請け負う「家」と「官司請負制」が整ってくる。この制度は摂関家や院の介入で家格付けや制度の方向性は規制されたが、主役は実務を担った諸大夫以下の層であった。

三、貴族層の再編
9世紀前半頃に(氏姓制を破壊して律令制貴族を生じさせた)官位の考選制が放棄され、またほぼ時期を同じくして官職の任命が合議実績方式から特権者優先年功序列型へと変化した。その結果、天皇家と摂関家の権力が増大し、位階も二層に分かれ(五位と六位がその境目で、令制下での貴族層が五位以上であった体制が維持されている)、10世紀前半には下級国司に至るまで権力者との関係が任官を左右するようになった。摂関家は公卿直前の四位までの人事を自由に操作する権限を有するに至った。
9世紀末には、天皇との直接な関係を基礎とする秩序原理としての昇殿制が出現し、公卿・殿上人という特権階級を生み出した。昇殿制は天皇家の側近主義と公卿家の家柄主義という異なる原理を内在していた。10世紀末から11世紀中頃にかけて、家格区分の定着(公達、諸大夫、侍)、摂関家と源氏による公卿の独占、受領(諸大夫に区分)の中央昇進からの排除と地方政治一任、家柄原理に基づく摂関家の六位以下の官職に対する支配件の浸透、等が進展し、官司請負制への促進効果を発揮した。
封禄の体系も天皇との直接関係を基本とする、公達・殿上人・諸大夫のランクに対応した形に組み直されていった。10世紀前半には六位以下は封禄の対象から外れた。10世紀後半には五位以上層の節録も形骸化し、五位・四位の位禄の支給は全員ではなくて部分的となった(繁忙な要職者や兼国者及び天皇に近い立場の人々だけ)。11世紀中ごろには、参議(令外官の公卿)・中将クラス(左右近衛府の次官)でさえ収入が保証されない状態になっていた。天皇の関係者に対する恩給である年給は、諸国受領から徴収され、個別関係に左右されながら、支給された。下級役人の給与に問題は今後の課題である。

四、政務の様相
太政官政務のシステムは一連の政務執行手続きである「政」(諸国からの申請の裁断)、「奏」(太政官から天皇への上奏)、「定」(執政者の合議)から成り立っていたが、10世紀以降の重要な太政官政務としては公卿聴政、官奏、陣定があげられる。公卿聴政は公卿が参加する聴政で、太政官下の外記政や南所申文、或は内裏の陣で行われた陣申文がある。
大臣(太政大臣、左・右大臣)の職務であった聴政が平安初期から中納言(大納言は太政官の次官として令政官職の一つだが、中納言は令外官)以上も行うようになり、公式令(養老令、大宝令)の諸奏(口頭伝達)も形骸化して来たため、陣申文の必要性が増した。その結果、奏の主体は官奏(天皇の処置が記された文書が作られる)となり、除目とともに最も重要な政務として公卿聴政を経ていることが条件とされた。しかし、その官奏も10世紀半ばには奏のルートが上卿から蔵人経由になって形骸化が始まり、変容していった。
公卿聴政も、本来は申文や官奏の文書を審査する政務である「結政」が公卿への直結ルーとして機能する実態が生じてきたこと(公卿が公的政務の場ではなく私的住居で政務を行うようになってきて、大臣については10世紀後半から11世紀にかけてそれが一般化していたという実態、と相俟って)などにより、その内実は11世紀後半には変容していた。しかし、太政官政治の正当な後裔である「政」「定」系統の政務ルートは、受領関係の政務に関しては固持されていた。
以下奏事、議定の変遷については省略する

五、受領と摂関政治
9世紀後半から末にかけて国司官長の権限と責任の強化が行われ国家財政の請負者としての「受領」が誕生する。受領は考課制度が衰退して行く中で唯一厳密な査定を受けたが、実際は考課基準を満たしていない受領も多かった(解由状、勘解由使、公文勘済、功過定)。承平・天慶の乱が起こる頃になると、査定は厳しくなったがパスするものは逆に多くなった(つまり中央政権の統治能力が減退した)。10世紀末頃には賄賂は一般化し受領は搾取の限りを尽くすことが普通になっていたが、国家財政は受領による請負とそれを前提とした諸制度によってかなり効率的に運用されていた(効率的か否かの判断レベルをどこに設定すべきか理解できないが、少なくとも受領制度が無いよりは良かったのだろう)
受領を摂関や公卿に奉仕させ得た構造は、中央の権力構造からの受領の排除を背景に持ち、利益を餌にした任命や査定の権限にその根拠を持っていた。受領の任命権限は天皇と摂関及び公卿が持ち、その任用規準は年労に基づく「巡」と成果主義的な「別功」であった。10世紀中ごろには受領希望者が増大したので任命権に基づく受領に対する支配権も増大するが、次第に着任までの待機期間が長くなり11世紀後半から12世紀はじめ頃になると先ず新任者がついで旧吏の再任が実質上出来なくなり、年労による受領を中心とする体制は崩壊する。成果主義的な受領の任命ルールは、受領と公卿双方のせめぎ合いの中で成立していたが、それを支えた太政官制のルールは、ついに院政によって恣意化されるに至る(ことによりこの構造が崩れて行った。11世紀末頃)
(藤原氏が摂関政治の栄華を極めた)11世紀前半の藤原道長、頼道の時代には、公卿特に摂関家は一族の公卿や家司を中枢として、天皇家との関係を利用しつつ、寺社等を含めて全国にネットワークを築き、受領を核として富を中央に集積した。受領の功過定など地方政治の根幹システムは維持されていたが(後の院政で崩壊する)摂関との強縁者は優遇されて不平等性が拡大し、それが上下関係(天皇-公卿-受領)を強化した。年給制は摂関の人事工作の手段となり、官位・官職の仲介関係が出現し、それは物資流通ルートと一致して、受領から下級役人に及ぶ請負関係を成立させた。受領は公卿の一族が占めて経済基盤を強化し、地方に代理人をおき在京のままの交代も可能となった。摂関家は瀬戸内海、琵琶湖など物資流通ルートの拠点や馬や金などの産出拠点、流通機構に携わる人々を支配した。文化の流通ルートも物資のそれと同じであった。武的請負人もこのネットワークに組み込まれていたが、承平・天慶の乱での功労者は受領の地位を得て東国等で勢力を扶植した。特に東国の平氏の成長は著しかった(1028年、平忠常の乱)。摂関期の国家的官制は、天皇とその代行者で構成される王権が太政官制(宣旨職的に変化してはいるが)と蔵人所の両方に立脚した支配組織といえる。(律令国家設立から400年余り経過したこの時点において振り返ってみると、国家というものに対する統治者の意識が公的なものから私的なものへ、即ち、天皇家、摂関家、公家を始めとして個別集団の私的意識へと次第に変化してきて、いよいよ決定的な場面となりつつあることが伺える)



岩波講座 日本通史05巻(古代④九~十世紀の日本-平安京)通史 吉田 孝、大隅清陽、佐々木恵介

日本通史05巻 (古代4
通史(九-十世紀の日本-平安京)
吉田 孝、大隅清陽、佐々木恵介
一、平安京の新しい世界
ピエール・ドゥ・ロンサール
東アジア動乱の終焉期に道鏡を皇位につけることに失敗した称徳女帝が死去した後、継承
した光仁天皇のもと政治は秩序維持の路線に修正された
(この天皇は、飛鳥浄御原令以降日本国を律令国家として築き上げてきた天武系ではなく、天智の孫であった)。次の桓武天皇(即位781年)は光仁天皇と百済系渡来氏族の血統を継ぐ女性との間の生まれで、その王権の正統性は父系の皇統の譲位と天智の不改常典であった(つまり血統、且つ父系であることが王権の正当性の根拠であった)。この思想に基づく、「天智の初め定めた法によって先帝から譲位された」という桓武の即位宣命の形式は以後幕末まで維持された。これらの皇位継承には藤原氏が強く介在していた。
桓武は平安京に遷都した(遷都の理由を桓武の心情から察すれば、平城京が天武系の天皇が作った都であったからだろうが、統治上の合理性から求めれば、天智系の父系皇統譲位に基づく正当で新しい王権の発足を具体的に告げることで権力を強化することだろう)。遷都は先ず、784年から難波京の廃止と平行して進められた長岡京の造営から始まり、10年を経ずして794年に平安京へ遷都した。長岡京造営中に起こった藤原種継の暗殺に端を発して、桓武の実弟の早良皇太子を担いだ陰謀が発覚し、早良は憤死し首謀者は処刑されたが、その背景には天皇及び藤原氏と天武系及び他の氏族との権力争いを伺わせるものがある。尚、平安遷都の一因は早良親王の怨霊が桓武を悩ました可能性もある(当時、怨恨を抱いて死んだ政治的敗者の霊である怨霊は祟りをなすと考えられていた)
桓武の政治課題は先ず王権の正統性の確立であった。そのため、皇族の内婚制(皇権の超越性を指向する考えに基づき律令でも定められていた。藤原光明子の立后でこの原則は破られた)の範囲拡大や伊勢神宮の重視(古代中国における王権の正当性を証明する儀礼である郊祀に習って、伊勢神宮を皇位の象徴儀礼の場所として位置づけた)など中国風の父系の王権継承を志向したが、それはウジの父系出自集団化の進展という社会の潮流でもあった。
時代の政治課題は対外関係にはなく、造都と征夷事業であった。辺境に対する律令制の浸透政策は引き続き推進され、一応の結末を見た。隼人に対しては、100年近くを要して800年頃には特例としての隼人朝貢の廃止と口分田制の実施が出来る程に浸透した。東北以北においては抵抗が強く(例えば阿弖流為と坂上田村麻呂の戦い)、志波地方(現在の盛岡)に砦を築くに留まり、遂には蝦夷支配体制の方式を身分差別に基づくものから支配組織に取り込んでいく方式へと改める政策転換が行われた(805年)。この政策転換は、当時進行していた公民と浮浪人の区別をなくしていく政策と共通している。
桓武の次に皇位に就いた平城は病のため三年ほどで弟の嵯峨に譲位し(809年)、その後淳和・仁明と続く九世紀前半は、国際緊張の緩和と日本列島の辺境に至るまでの大体の統一により(現在の北海道と沖縄を除く)、政界は安定し、宮廷を中心にした唐風文化が栄えた。皇権をめぐる血なまぐさい争いも、薬子の変を契機にして、敗者の出家という形態をとる形に変化し、この時に行われた藤原仲成の処刑以後は、都での死刑執行は350年間行われなかった。この弛緩した時代に形成された国制が、その後の日本の国制の基層となる(この言い方で著者が何かを述べようとしているように見えるが、その内容は定かでない)。王権の継承ルールは皇太子の立太子と譲位が定着し、権力闘争は立太子時点での発生となったが、その底流には社会の父系化があった。上皇と天皇の二重権力構造(律令に定められていた)は、嵯峨上皇と淳和天皇の時代に天皇の上位(新天皇が「太上天皇」号を贈る制度として)が公的には成立したが、実質はなかなか消滅していかなかった。
天皇には多くの子供がいたが、嵯峨の時代以降、源朝臣、平朝臣の姓を与えて臣籍とするようになった。中でも清和源氏、桓武平氏は後に武家の棟梁として活躍する。この時代には、源・平・藤・橘という代表的な姓が出揃うが、新たな源・平という抽象的な命名は宮廷の中国文化への憧憬を表している。個人名も、自然や動物に因んだものから良・信・弘・常・寛・明・定など抽象的で倫理的な漢字を用いるなど、よい意味の漢字を当てる慣習がこの時代に作られた(姓・名の付けかたは時代を反映している)。貴族は都市貴族(生活基盤の軸足が「ゐなか」から「みやこ」へ移った)の性格を強め、中下級官僚の生活基盤も平安京へ集まってきて、都のあり方は変化したものとなった。奈良から平安初期にかけて律令政治が実効的になるに従い古代氏族が没落した(律令制は理念的に誕生したがこの時点では実効化努力が継続されていた)。それは、律令国家は畿内豪族が大王を推戴する大和朝廷の構造を内包していたものの、もともと豪族の統治基盤は弱く王権に対する従属性が強かったためである。一方、桓武以来の文人的・良吏的な(かれらは政治的知識や文化的素養に優れていた)渡来系議政官が増大し、天皇を核とする新官僚群となった。同時に天皇とのミウチ的関係に基づく公卿が増大し、父系の源氏と母系の藤原氏が(貴族政権の中)で格別の力を持つに至った。藤原氏は乙巳の変の功績を原点として王権との(身体性的な)関係を深めてきたが、良房の時代には課役や皇族との婚姻に関する制度上の特権の獲得を積み重ね、広義の意味での父系出自集団として(猶子の基経が良房の権威を継承し、摂政、太政大臣、関白となる)皇親と並立する地位を公的に獲得した。それは外戚として王権を支えるという国制の成立過程であった。
二、貴族政権への道
嵯峨から宇多にかけての九世紀一杯は、浄御原令から大宝律令、養老律令などを経て進展してきた律令国家の政権が貴族政権へと移っていく過程であり、その一応の完成は十世紀中ごろであった。権力の正当性は依然として儒教イデオロギーを含む広義の律令制であったが、それはウジ集団に支えられた古代国家構造の解体原理と同時に別の身分的な集団を必要とする原理も内包していた。貴族政権は氏族制と律令制の二重構造の代りに、律令制と新しい原理の二重構造をもった律令政治の一つの帰結であった(新しい政権形態が出現し始め、それが定着するのに更に100年ほどを必要としている)。こうした変化は、天皇という王権の立場から見れば脱呪術化、或は合理化と捉えることが出来る。貴族政権をささえていた新しい原理は、天皇や上級貴族との人格的関係と、律令制の崩壊過程で独立化してきた官職をめぐる利権であった(なぜ国家体制の統一性より天皇を中心にした家産的な小集団へと移行したのかについては明示されてはいないが、国際的緊張緩和はその一因であろう)
この貴族とは、古代律令国家の天皇を支えてきたウジ集団である畿内豪族達ではなくて、新興の律令貴族と源や平の姓を賜り臣籍となった天皇の子孫達であった。なかでも藤原氏は乙巳の変での天皇との協力関係を梃子として、外戚としての影響力を超えて公的な政治権力を掌握するに至った。国家としての官僚体制は天皇家を中心とする体制へと編みかえられて行き、上級官職は藤原氏、源氏などの特権貴族に世襲的に独占された。特権貴族から疎外された貴族は特殊技能で生き残った律令貴族と儀式における役割においてだけ少し残った畿内豪族であった。
律令制に基づいた官僚機構は天皇家主導下で統廃合されて変質していった。律令制下の八省は内裏の「所」(蔵人所はそれらを統括した)と呼ばれる機関に代替されていき、官職の人事は「除目」から天皇の「宣旨」へと指示命令系統の内実が変化した。位階制も変質し、官職のキャリアと特権貴族の恩寵に基づいて昇進する制度が出現してきた(官職の条件としての位階ではなく官職としてのキャリアが位階の条件になってきたが、同時に、元々官職につくには特権貴族の恩寵が必要となってきた)。公的実務の実施レベルにおいては、貴族によって担当官吏が任命されるようになってきた。この担当官吏は別当と呼ばれ、令制とは別のルール系統に依っていた。これ等の背景には、例えば租庸調(九世紀中ごろに未納が顕著となる)や公地公民制が衰退して、諸官司が地方経済を独立に運営するようになってきたことがある(この記述だけでは不足する。この辺はもっと追っていかねばならない)
儒教イデオロギーの役割は、皇室の家父長としての権威で宮廷社会を支配すること通して政治権力を掌握すること(国政は人事と血縁を通して宮廷が掌握し、宮廷の人々は家父長としての上皇に従ったから)及び皇帝権力の儒教的正当性(それは中国の儒教思想を都合よく利用したものであろう)にあった。前者の役割は、嵯峨が上皇としてそれを実施して以来根付いたものである(このような構造を持った貴族政権は、天皇の権力が呪術的なものから実効的なものになる条件提供したともいえる)。後者は藤原氏が「皇室の家父長的権威を、外戚としての地位を媒介として吸収する」ことにおいて権力を掌握し、良房・基経の時代に太政大臣と摂政・関白地位の両方を獲得したことにより明確になった。律令国家において、天皇は王権(主権)保持者だから国政の最高決定者で、太政大臣は国政の最高遂行権限者であるが、私である皇室の権威が公である政治権力をもつとともに、天皇が政治から疎外される状況が生じるようになった(天皇を政治から疎外することを可能にしたものは、外戚としての家父長的権威であり、宗教的権威でも何らかの客観的合理性でもない)
神祇、仏教、儒教の三つのイデオロギーは奈良時代後半までは相互に衝突していたが、ともにすみわけが可能となっていった。年中行事への並存などにより論理的な根拠には薄くても、共通の行為として体系化されることに意味が見出された(のだろう)(衝突しなくなってきた原因には)九世紀前半から貴族政権の構造が出来上がるにつれて、(集団化の原理が)地縁的で神話的で同祖的な集団から官人を始祖とする父系出自集団的なものへと変質し、宗教観も土地に繋がる自然神から始祖の守護神(伊勢神宮は皇族の祖先神・宗廟としての意識が強い特別な存在となった)へ変化してきた一方、唐礼の導入による国家の儀礼や官人の作法に変化が起こっていたことなどが考えられる(この辺も理解するには深みが足りない)
九世紀末、基経の没後に(藤原家が外戚でなく天皇の主権行使がし易くなっていた状況下において)宇多天皇は菅原道真等の人材を登用して地方統治や官僚制の合理化など政治の刷新を図った。醍醐天皇に譲位した後、基経の子の時平を抜擢して腹心の道真とともに登用するが、時平は道真を大宰権師に左遷し、宇多、醍醐周辺の近臣を一掃して、律令制再建策を遂行するとともに外戚関係を再建するが齢三十九で没する(909年)。その後皇位の継承も藤原氏の地位も安定に推移する時代が十世紀半ばまで続くが、それは「官職の貴族化」が自立的な秩序を形成したためとも理解できる。そのなかで、969年に勃発したミウチ的な権力闘争である安和の変における受領や武士などの中級貴族の活躍は、天皇と藤原北家嫡流と頂点とする家産的な政治編成に、中下級武士が組み込まれ始めていることを端的に示しており、貴族政権は十世紀後半に新たな段階を迎えることになる(この段落で一気に70年ほど)
三、新しい国制の底流
上述した「貴族政権」という新しい国制の底流には何が存在していたのだろうか(これは著者の問いかけの代弁だが、逆の発想の方が面白いと思う、即ち律令制が変質して安定化したこの国制をもたらしたのは、ここで底流といわれた社会の流れではなかろうか)。先ず九世紀末から十世紀にかけて、遣唐使の廃止(894)、唐の滅亡(907年)とその後の混乱と宋の統一(979)、東北部や朝鮮半島での混乱と収拾など、東アジア情勢が変化した。その影響で、日本の貿易は返って盛んになったが孤立主義を採用した国家は国際関係から離脱した(その影響は?)。国内経済は土地の開墾による農業や銅や鉄などの非農業の他に、物流などを基盤にした個別単位の経営が可能となってきた。それは旧来の在地豪族でも律令国家や官僚でもない組織体として多様な「党」(運送業、交易商人、野盗・海賊の類)の出現を可能とした(国内律令体制が変質してきて、集権的運営から分散的運営にならざるを得なくなってきていた背景があるのだろう)
中でも富裕な経営体(富豪之輩)は、貴族と結び国家の統制外の存在ともなったが、その母胎は在地化した国司などであった。徴税や地方運営の実際の権能は、任地で国務を実際に行う国司である受領が持つようになった。受領の財を狙う襲撃事件も頻発したが、その鎮圧に政府から派遣された者が土着することもあった(武芸之輩)。(このように律令国家としての集権体制が緩み権力の分散が始まってきたことの)象徴的出来事は、十世紀前半に発生した平将門と藤原純友の乱(承平・天慶の乱)である。それは、多様な実態を持つ富豪之輩や武芸之輩を、受領が雑色人や負名として一元的・画一的に支配していく動きに対する反発であった。十世紀前半に、各国での支配体制は旧来の在地首長制を基礎としたものから、負名体制・雑色人体制などによる受領支配が確立する。十世後半になると、中央政府対受領の関係においても現実の社会体制に相応しい新たな財政構造が形成される。それは、受領を通した全国一律把握と必要財源の徴収体制である。(この段落は多分大事な要点の説明がまだ抜けている。)
九~十世紀を文明論的に見れば、在来の文化と中国の文化との交渉・融合の深化、九世紀初頭の最澄、空海等による日本的な仏教思想・哲学や仮名で記された古今和歌集に代表される国風文化の進展、京都の政治都市から生活都市への変化、陸の国境意識の確定(14世紀初頭の行基図にみられる)など、その後の日本文化・国制の原型の一つが作られた時代といえる。


2016年3月21日月曜日

岩波講座 日本通史01巻(日本列島と人類社会)【文化】

【文化】
日本語論―――和語と漢語の間(佐竹昭広)
ピンクパンサー


神話論(大林太良)
日本民族論―――海からの視点(宮田登)

日本語論―――和語と漢語の間(佐竹昭広)

一 祝言
l  正月には、めでたい言葉を交わす習慣が日本にはあったようだ。それがやがて婚礼の時などの言葉としても定着した。
Ø  「祝言」は和製漢語としては平安時代末ごろには普及していた
²  『古今著聞修』(1254)「祝言20」など
Ø  和語としては、「祝い事」が1665年、仮名草子『大倭二十四孝』に記載の他、諸橋『大漢和辞典』、陳濤編『日漢辞典』(1972)も日本語として掲載
Ø  「祝言」が喜びの言葉として用いられることは、1603年刊『日葡辞書』記載
Ø  正月に挨拶の言葉「おめでとう」は1592年に中国明朝『日本風土記』記載
l  「何人が発明しまた教えたとも無い比類の古い慣行は、やがてまた我々の祖先の子を思うと云う心理の、今より遙かに複雑にして且つ清浄であったことを語るものであります」柳田國男『小さき者の声』

二 婉言
l  「言霊」とは、その事物の名を口に出すと、その通りの事物が出現し、言ったとおりの結果が出来するという、古代日本語。「言」が「事」と表裏をなすアニミズム。
l  「忌み言葉」、例えば「死」
Ø  民族学で「死」の忌みは黒不浄、「血」の忌みは「赤不浄」でこの「忌み言葉」は方言にも枚挙に暇が無い
Ø  『万葉集』挽歌では、身分の高下、死や葬送の状態を十分考慮した婉曲表現が駆使されている

三 和訳
l  「量的には僅少ながら、仏足石歌は、古代における異文化の日本的摂取、日本語への翻訳に関する資料として頗る珍重に値する。」
Ø  五・七・五・七・七・七と、短歌に一句が加わっている歌体を一般に仏足石歌という。平安時代の神楽歌、古今和歌集、拾遺和歌集、万葉集にもあるが、これらは基本的に短歌の第五句の繰り返しが第六句となっている
Ø  753年、天武天皇の孫、文室真人智努が亡夫人追善のため、釈迦の足形と二十一首の賛歌を一字一音に刻んだ石碑を建てた(原所在地不明。現在地は薬師寺)。これも仏足石歌だが、第六句は単なる繰り返しや言い換えではなく、そこには仏典漢語の、意図的な作為に基づく日本語(訳)が記されている、と考えられる。一例として、18番の歌を下記すると
・比止乃微波衣賀多久阿礼婆乃利乃多能与須加止奈礼利都止米毛呂毛呂須々売毛呂毛呂
[人の身は得がたくあれば法の為の因縁となれりつとめ諸々、すすめ諸々]
第五・六句「つとめ諸々、すすめ諸々」の「つとめ」と「すすめ」は、「六波羅蜜」の一つ、「精進」のやわらげである

四 字音語
l  「倭歌」(「和歌」)を読む以上、和語の使用は大原則であった。これは明治時代まで続く。
Ø  和歌の別名は「やまとことば」という事実が端的にそれを示している
Ø  和歌が使用を戒めてきた言葉は八種類ある。俗語、卑語、音便の詞、鼻音の詞、拗音の詞、詰音の詞、半濁音、漢語、がそれである
Ø  正岡子規の短歌革新運動がなければ、あららぎ派、鉄幹、晶子、啄木といえども、旧派から見ればその詠むところは所詮、俳諧歌にすぎなかったであろう
²  「俵万智『サラダ記念日』を子規が何と評するか、叶うことなら傾聴してみたいという誘惑に駆られる」(筆者)
²  「和歌に漢語を避けるといっても「鉄道」を「まがねぢ」とよみ・・・とよむが如き・・・悪くすれば滑稽に陥るもあるべし。」(『歌の手引き』大和田健樹著、1909年)
Ø  (音と訓を読み選ぶことで、格調や品位を変え、おかしみをもたらし、また婉曲語法にもなりうる)
²  落語の「たらちね」のおかしさ
²  「コノ小便(ゆばり)ト云フト大便(くそ)ト云フトヲ、貴人面前デハ音ニ読ムゾ(天文五年(1536年)環翠軒講『神代紀環翠抄』上)。『日本書紀』神代巻の一節を貴人の御前でどうしても講義しなければならないときにはユバリ、クソとは読まずに音読みするという配慮
l  漢語と和語の問題は、文字の次元に移せば、「漢字文化」と「平仮名文化」ということにもなろう
Ø  「・・・おれ、かねがね思うねんけど、漢字でモノ考えると、ロクなこと、ないな。これも発想、なんて漢字の熟語、使うのんキライや。モノ考える、でエエやないか」(田辺聖子「かあさん疲れたよ」読売新聞1992313日朝刊)
l  「東西方言の表現効果の差異には当面触れないまでも、日本人が常に漢語と和語の間を揺れ動いてきたことは深刻な事実である。男性原理の漢語と女性原理の和語、両者混交の濃淡多少が実にさまざまの表現、数々の文体を創造し、今なお試行錯誤が繰り返されている」

五 和語と漢語の間
l  仏足石歌における漢語の和らげが受け入れられ、理解語彙から使用語彙にまで到達すると、訳された和語は必然的に多義的になり、極端にはもとの語彙書き得てしまう結果にもなる
l  「「世の中」「空し」「悲し」という和語に、仏教漢語「世間」「空」「悲」の意味が含まれるようになると、和語の意味の曖昧化という不便の事態を併発する。」
l  「漢語・漢文の訓読という翻訳を経て、和語の意味は拡張され、傍ら曖昧・不透明の度を濃くした。『類聚名義抄』に集録されたおびただしい和訓を見て思うことは、漢語に対する和語の融通性、良く言えばおおらかな寛容性である。」
l  「和語の「あはれ」は、感動の「あはれ」、哀惜・愛惜の「あはれ」、憐愍の「あはれ」、慈悲の「あはれ」.無常の「あはれ」等々、数え切れないくらい多様性に富む。」
l  本居宣長を代表とする近世の国学者は、和語・和文をもって文章を書くべく懸命に努力した。「やまとことば」の和歌とは違い、散文を和語で書こうとすると、宣長を持ってしてもなお漢学の下地が不可欠であった

l  「『源氏物語』すらも一概に「平仮名文化」とは規定しきれないのだ。私たちの前には、『源氏物語』という平仮名女流文学を精読しながら、「和語と漢語の間」という日本語の宿命的な問題を三思する道も開けてくるのである。」


神話論(大林太良)

一 神出現の二つの類型
l  『古事記』『日本書紀』、ことにその神代巻には、天地開闢から大和の王権の確立、発展に至る神話体系が記録されている。このような体系的神話が現在古典に残っているのは、東アジアでは日本だけである
Ø  他の地域では、地域により異なる神話体系が並存したと考えられるが、体系的神をとしては残っていない
Ø  日本列島においても、かってはいくつもの地域的な神話体系が並存していたと思われる
²  国土創世神話の内容は、『出雲国風土記』と記紀とでは異なる
²  琉球とアイヌでは近年まで独自の文化的伝統と神話体系を持っていた
l  「本稿において記紀神話、琉球神話、アイヌ神話の三者を比較し・・・朝鮮古代神話も比較の枠に入れることにしたい。」
Ø  比較には記紀神話の基本性格を持ち、かつすべての神話に共通な項目が必要で、それを、神の出現の仕方、とする
Ø  神の出現の仕方は二通りある。天から地上に降臨するタイプと、地上あるいは海上から水平的に出現するタイプがある(詳細は各説ある)

二 瓊瓊(ににぎ)()(みこと)の降臨と少彦名(すくなびこなの)(みこと)の来訪
l  いろいろある天降り神話の中で重要なのは天孫降臨神話で、これはまさに天皇家の由来を語っている
Ø  『日本書紀』『古事記』は、アマテラスの孫のニニギが地上の支配者として天降り、地上の住民と出会い、地上の美女と結婚する、という大筋は同じ
Ø  『古事記』では、ニニギの天降りに当たって、アマテラスは三種の神器(八尺(やさか)(まがたま)、鏡、草那(くさな)(ぎの)(つるぎ))を与えたこと、天児屋(あまのこやねの)(みこと)()()(だまの)(みこと)天宇受売(あめのうずめの)(みこと)伊斯許理度売(いしこりどめの)(みこと)(たまの)(やの)(みこと)(いつ)(ともの)()常世思(とこよのおもい)(かねの)(かみ)()力男(ぢからおの)(かみ)天岩(あめのいわ)門別(とわけの)(かみ)が随伴したこと、(あめの)(おし)(ひの)(みこと)天津(あまつ)久米(くめの)(みこと)が一行の「御前に立ちて」仕えたことがでている
Ø  『日本書紀』でも神器の授与と、随伴神のことが記されている
l  『日本書紀』に記されている二つの神話は次のことを物語っている。「天孫(ニニギ)が高天原から稲をもたらしても、それは自分達支配者のためであって、一般民衆にそれを伝えるためではない。稲をもたらしても、天孫は文化英雄ではないのである。」(大林)
Ø  神話一。月夜(つくよ)(みの)(みこと)が天照大神の命令で葦原(あしはらの)中国(なかつくに)(うけ)(もちの)(かみ)に会いに行ったが、保食神がその口から出した食物をご馳走しようとしたのを怒って、これを斬り殺した。天照大神は天野(あまの)熊人(くまひと)を派遣して様子を見に行かせると、保食神の身体の各部分に作物が()っていた。天照大神喜びて曰わく、「是の物は、うつしき蒼生(あおひとくさ)(民衆)の、食ひて活べきものなり」とのたまひて、(すなわち)ち粟稗麦豆を以て(はたけ)種子(つもの)とす。稲を以て水田(たな)種子(つもの)とす。
Ø  神話二。天照大神の息子の(あまの)(おし)()(みみの)(みこと)が天降る予定だったとき、「吾が高天原にきこしめす斎庭(ゆにわ)の稲穂を以て、亦吾が(みこ)(まか)せまつるべし」とのたまった。天降ったのは息子の(あまの)(おし)()(みみの)(みこと)ではなくて孫の瓊瓊杵尊であったが、その時には、天から稲穂を持参したことが暗黙のうちに語られている
l  記紀神話体系では、天孫降臨は国譲りの後に行われたことになっている。この内容をよく見ると、天孫は支配者であっても文化的英雄ではなく、文化的英雄は少彦名神(≒大己(おおあなむ)(ちの)(かみ)=大国主命)であったのではないかと思われる
Ø  国造り神話と天孫降臨神話は「マレビト的な挿話的な少彦名神が大己(おおあなむ)(ちの)(かみ)とともに国造りを行い、下準備ができたところで、本筋の主人公としての天孫が新たな支配者として天降り、国をもらってしまう」という物語になっている
Ø  国造り神話と天孫降臨神話は本源的に結びついていないにもかかわらず、記紀神話体系ではこれが結びつけられて大きな神話体系になっている。このことが神話体系として重要なのである
Ø  少彦名神話は小さい神で海の彼方から渡り来て、大国主の国造りを助けた後、忽然と常世国(異郷)へ立ち去った神(つまりマレビト的存在であった)
Ø  大己(おおあなむ)(ちの)(かみ)少彦名(すくなびこなの)(みこと)は対をなして国土を開拓した。「ナ」はアルタイ語系の大地を表す言葉である。オホナムチ、スクナビコナの名称の意味を考察すると、大小の国土や土地の主と解釈が可能で、結局は同じ意味となる(大林)
Ø  吉田敦彦は、大己貴神と少彦名命には、古代インドのアシュヴィンを想起させる豊穣性の機能の双生児神の俤がある、と論じた(19741976年)
Ø  少彦名神話の文化的背景としては粟作が想定される(大林1990年)
²  『日本書紀』では、瓊瓊杵尊が稲作と結びついているのに対して、少彦名命は粟作と結びつき、しかも豊穣の機能を顕著にもっている
Ø  天孫降臨神話では、高天原から地上への王権の移動は、不可欠の中心部分をなしているが、少彦名神話は傍系の地位にある

三 阿摩(あま)()(きゅ)と天降りと来訪神たち
l  奄美諸島から八重山諸島に至るまでの琉球列島の神話には、史書に記された琉球王朝神話と、民間で語り継がれた民間神話があるが、琉球王朝神話にしても琉球列島全域を制覇するに至っていない
l  沖縄本島と付近離島における支配者の神話は天降りを語っており、記紀神話と比較することができるので、ここでは、これについて述べる
l  沖縄の王朝神話と記紀神話を比べると、支配者が天降ったという基本的な観念の共通性はあっても、いくつかの重要な点で相違する
Ø  国土の創造について、記紀神話にないモチーフがある
²  天から土石を下して国土を作る
²  性交ではなく、風を縁として妊娠する
Ø  先住民がいない
Ø  食用作物において、支配者用の区別がない
Ø  記紀神話の少彦名に相当する来訪神がない
²  原古の来訪神ではなく、1718世紀(琉球王朝の存続時代)に数種の神がなお来臨して幸せを授けると考えられていた
²  この来訪神は二つに分かられ、ひとつは国王や国家を守護し祝福する神であり、もう一つは海から現れて国土や全体社会を守る神であった

四 去来したオキクルミとコロポックル
l  アイヌの神話は、口承で伝えられてきたものを近代になって和人により記録されたものだが、重要なことは、記紀神話の少彦名と天孫降臨神話の場合とは違って、一つの大きな神話体系に統合されなかったこと
Ø  本稿は北海道アイヌの神話(オキクルミの神話とコロボックル伝承)についての考察にとどまるが、それは、古代東北の蝦夷が現代のアイヌと形質、言語、伝統的生活様式において密接な関係はあるものの、古代蝦夷の神話は現代アイヌのそれとは恐らく大変違うものであろうと想像され、しかも直接そのことを証明することはできないから
l  オキクルミの神話は天降る神の神話として代表的なものであり、文化的英雄オキクルミを中心とする神話的叙事詩である
Ø  天降ったオキクルミは、島内の魔神や海から来る魔神を退治して住民を守り、住民にいろいろな技術や祭祀の仕方を教えた。しかし、世も末になってアイヌが次第にずるくなると、オキクルミは彼らに愛想を尽かして去って行く
Ø  オキクルミがもたらした文化的要素の多くが、沿海州系のものであった(金田一京助)
Ø  オキクルミは垂直的に出現する神ではあるが、単なる支配者ではなく文化英雄であった
l  コロボックル伝承は水平的に出現するマレビト的な文化英雄、正確に言えば文化英雄族の伝承である
Ø  コロボックル伝承の興味深い特徴の一つは本土の山人伝承と比較ができること(「山の人」という側面を持つ点で)、もう一つはコロボックルが立ち去った理由がオキクルミのそれと同じであること
l  著者は、オキクルミ伝承とコロボックル伝承を比較して次のような仮説を立てた。
Ø  両方とも北のサハリンやアムールランドとの人間的・文化的交流を背景にして育ったものであり、ただその時代が違っていた
Ø  コロボックル伝承は8世紀から13世紀にかけてのおオホーツク文化かもしれない(菊池徹夫0984年)
Ø  オキクルミ伝承は三丹交易(18世紀から19世紀にかけて、アムール川下流からサハリンにかけての周辺民族とサハリン・蝦夷アイヌおよび松前藩(後に江戸幕府)の間で行われた交易)によって代表されるような交流を背景にしいているのかもしれない

五 支配者首露とトリックスター脱解
l  天降り神話は、古代朝鮮諸国の建国神話としても語られているので、日本の天孫降臨神話との関係が日本の研究者により推定されている(諸説あり)
Ø  古代朝鮮国の建国神話は、古朝鮮の『壇君神話』、駕洛(加耶)の『首露神話』、新羅の始祖赫居世王神話と新羅王家金氏の始祖金閼智神話。
Ø  岡正雄は、日本の天孫降臨神話を、朝鮮半島を経由して日本に入ったアルタイ系の支配者文化の特徴と考えた。しかし筆者は記紀神話と古代朝鮮諸国の建国神話との比較において、大きな二つの相違があると指摘している。一つは、作物の起源が天降り神話の一部として語られていないこと、もう一つは、天降った支配者の配偶者は、在地の先住民ではなく、渡来した、あるいは超自然的な仕方で出現した女性であること
l  駕洛(加耶)の『首露神話』には、垂直的に天降った支配者(首露王)と水平的に出現した者(脱解と王后)が登場するが、日本の少彦名命のような本格的なマレビトとは言い難く、脱解は王位を狙うトリックスターとして描かれている
l  首露王神話に登場する后は、土着の女ではなく外来者であることが強調されて語られており、また、そのことが首露廟で毎年行われていた「戯楽思慕」の祭儀としても行われていたが、この外来者はマレビト的存在という性格が表面には出てこない
Ø  「戯楽思慕」が毎年行われる祭儀という点では、沖縄の場合を想起させるが、マレビトが幸をもたらすという性格が表面に出ていないところは異なる

六 神話と歴史
l  「以上、垂直的な天降り神話と水平的なマレビト伝承を手がかりとして、記紀神話、琉球神話、アイヌ神話、駕洛(加耶)神話を検討してきた。その結果明らかになったことは、先住民がすでにいるところにまずマレビト的な神が現れて幸福を与えて去り、その後、支配者が天降って今日までつづく王朝の基礎をつくるという記紀神話の構想は、ここで論じた諸神話の中では、他に類のないユニークなものであることであった。」
l  神話・伝承は、歴史的環境の中で生まれ、育ち、主張される。ここで取り上げた諸神話で説かれている支配者の外来性が、単に神話の上だけの「お話」なのか、それとも支配者の来訪という歴史的事実を反映しているのかは、個々の場合について考えるべき問題であろう。
l  世界における神話研究の歴史を振り返ってみると、たとえば北欧神話におけるエシル神族とファニル神族の争いに、歴史的な民族抗争の反映を見ようとする試みがかっては安易に行われた。これに対して、フランスのジョルジュ・デュメジルは、それが印欧語族の神話において広く分布する一つの神話の型の一例であって、この型はおそらく印欧原神話にさかのぼることを、あきらかにした(吉田敦彦、1974年)
Ø  以降、この北欧神話は歴史とは関係ないただの神話だと見る傾向が強くなった。著者もこの見方には大体賛成するものの、それで割り切るには躊躇している
l  「日本においては、戦時中(太平洋戦争)における神話をそのまま歴史として教えたことなどに対する批判から、神話に歴史を読み取ろうとする立場が多くの研究者の支持を失い、私を含めて、神話と歴史を切り離して考え、せいぜい系統論から歴史を考えるのが普通であった.しかし、神話にどれだけ歴史的事実が反映しているかの問題は、一般論としてではなく、個々の問題に即して考え直すべき時期が来ているように思われる。」
l  (アイヌ、駕洛、沖縄、記紀神話が、支配者の来訪という点において史実を反映したものなのかどうかについて、著者の見方は以下)
Ø  アイヌ神話は、サハリン・沿海州地域との交流が問題になる
Ø  駕洛神話については、三世紀末から四世紀始めにかけて付与系支配者がこの地に入ったという説に結びつけて考えられるかもしれない
Ø  沖縄神話の場合は、無人の島に支配者と被支配者が一緒に天降ったという主張をどう見るかが大きな問題だが、この点においては、多分史実と違っている
Ø  記紀の天孫降臨神話は、邪馬台国以来の王権文化の伝統を重視して考えるので、支配者の移住があったとしても、多分九州内部であろう


日本民族論―――海からの視点(宮田登)

はじめに
l  「民間伝承ははっきりと自覚されぬままに、慣習という形で、現代の私たちの日常生活の中に送り込まれてきている。それらは各民族がアイデンティティの問題として自己内省を試みるとききわめて有力な素材として浮上してくるのである。」
Ø  民俗学は民間伝承を研究対象とする
Ø  民間伝承は文化残留の形をとり、(そのことによって)現代文化を支える重要な要素の一つとなっている
Ø  民間伝承は、形とか機能を変容させながら時代に適応し、そして次の時代へ引き継がれていき、そうした営みの繰り返しが私たちの慣習を形成している
Ø  民俗は時代の枠組みを超えて成立し、現代の文化や社会を支えている
l  実例として、死者の肉の代用として餅が用いられている、というフォークロアの成立が挙げられる
Ø  岩手県遠野で葬儀の際に人形の餅を食すという風習と、代々祖母によって語り継がれた『遠野物語拾遺』に記された伝承の由来(五月五日に食べる薄餅(すすきもち)は入水自殺した女の夫が妻の死肉を餅にしたもの、という)
Ø  沖縄県先島地方で、死者が出ると豚を殺して近親者で肉を食べたり骨をかじったりする習俗(四十九日に食べる餅が肉や骨の代用という解釈がある)

一 「海上の道」再考
l  民俗学における海からの視点を明確に示したのは柳田國男であったが、その仮説については、考古学や言語学からの批判がなされ、柳田の唱える「海上の道」という仮説はいまでは実証性に欠けるとされている(柳田の観取は下記)
Ø  毎年定期的に打ち寄せられてくる漂流物(魚類、海獣の残骸、椰子の実、海藻、貝や石など)が、沿岸の生活に影響を与えていた。というのは、漂着物が古い信仰を伴っていたから
Ø  イルカの群行動が、海で生活をする人々に深い印象を与えたことから生じたフォークロアとして数多く語られている、(と考え)イルカに注目した
Ø  海際の聖地にイルカが参拝するという(人々の)考えが、海の彼方との間に心の交流をよみがえらせている
²  この思考の延長に、「鹿島のミロク」という伝承の解釈がある。つまり、弥勒仏に対する古い信仰の名残が、弥勒の出現を海から迎えるという民間伝承として各地に残存している
²  常陸鹿島の「みろく舟」と八重山群島のニロー神はともに、「ニライの島から渡って来たまふ神」(柳田1961年)。
Ø  「海上の道」という構想は柳田の学説
²  南島(西南諸島)の島々を、稲を携えて北上したのが日本人の祖先たちであるという説で、黒潮に乗って漂着した人々が南島の宝貝の美しさに引かれて移住した、というのがその理由。以後、稲の栽培適地を求めて北上したとする
²  彼ら(日本人の祖先たち)は、海の彼方にニライカナイ=常世(楽園)という世界観をもち、(いな)(だま)再生の信仰を抱いていた(柳田民俗学の一つの帰結点)
l  考古学上の知識では、弥生文化は北から南下したと捉えられているが、中国江南地方とは直接は関係しない南島から赤米とその耕作方法(踏耕)が伝わったという説が、実証的に唱えられるようになり、「新海上の道」が提示されるようになった
Ø  北九州の遺跡から、南島の貝の装飾品が北九州に運ばれて加工されたことが実証された(貝の道の想定)
Ø  南島から畑作作物だけではなく、南方系の赤米もその栽培方法(踏耕)とともに次第に北上するルートも想定され始めた(渡辺忠世)
l  「餅なし正月」は民俗学上大きな課題を持つ対象とされてきた。その由来を説明する伝説の中で、そのモチーフ(血染めの餅)が注目され、ここから、いろいろな想起がなされている
Ø  赤色の食物はメタファーであり、これを火のイメージとしてとらえて、坪井は火の霊力に基づく原初の観念形態を担う焼畑農耕集団を想定した
Ø  赤色は小豆による着色で、赤飯、小豆飯、紅を付けた餅など多く行われており、この場合は死や血とは関係ないとしても、(正月にこれを食すのは)白米を忌避することに繋がり、これが重要な点となる
Ø  小豆で赤く着色した餅や米は赤米の存在を暗示し、柳田は小豆の赤と赤米の赤とが共通心意の上で関連し合っていると示唆している
l  民俗文化論として注目されるのは、儀礼食に赤色が用いられることの意味である
Ø  小豆飯や赤飯は、赤米ではない白米を赤く染めたものであるから、シンボリックな意味を内包している
Ø  赤色を死や血のメタファーとしてとらえれば、赤米の文化を異物として排除していると想像することもできる
Ø  一方で赤色は、排除だけではなく融合とも捉えられる。つまり、白米と赤米を包摂・並存させて、赤飯や赤色餅の民俗を形成した、と
l  餅なし正月は、畑作文化の存在根拠の強調として捉えることもできるが、白米と赤米の対比と融合という主題に捉え直せば、赤米は消滅の方向を辿りつつも、赤飯・赤餅となって再生しているものと読み取ることもできる

二 海の彼方から
l  日本列島は、その太平洋沿岸を通り鹿島灘から太平洋へと抜ける黒潮本流と日本海を北上する対馬海流に囲まれている
l  「柳田や折口信夫が設定したテーマは、海の彼方の世界であった」
Ø  折口は、先祖たちの故郷は異郷の子孫の潜在意識裡に伝承されている、と考え「彼らの故郷の地を「常世」に想定し、「常世の浪」が海流となって押し寄せて来るという(折口の)認識は、これまた柳田の描く「海上の道」にもオーバーラップしてくるのである。」
l  「みろくの舟」は、現在も踊られている鹿島踊の中で歌われているが、そのモチーフは鹿島灘から相模湾にかけて、鹿島神人が活躍した範囲に分布している
l  マレビトの概念は来訪神として意義づけられるが、これは太平洋沿岸部に点在する漂着神のイメージから想像される
Ø  静岡県の御前崎には、その社伝に漂着神を伝える駒形神社があり、またアカウミガメ産卵の最北端地でもある
l  地震に関する神話や信仰には、大地を支える巨人や神が地底などにいる竜蛇や鯰などの大魚を押さえ込んでいるというモチーフが多い
Ø  (弥勒仏に対する古い信仰の名残が、弥勒の出現を海から迎えるという民間伝承として伝えられたという、柳田國男の説と整合性がある、「みろくの舟」が歌い込まれている)鹿島踊の発祥地点の鹿島地方には、鹿島大神が祭られている。この神は境界を守護するものであるが、地底の大鯰を要石で押さえ込んでいるという俗信がある(地底の大鯰が暴れると地震が起こる)
Ø  大地を支えている動物が身動きすると地震が起きるという考え方は、地震に関する神話や信仰は共通なモチーフを持って世界的に分布しており、その動物は、牛か蛇か魚で、大鯰はその類型(大林太良)
Ø  鯰の生息地はインドネシアから中国を経て日本列島に及ぶ地帯に限定されるが、蛇(世界蛇)はより普遍的で、例えばインドでは竜蛇がグルリと世界をとりまいているという考え方になっている
Ø  世界蛇の変形と思われる日本の地震鯰は、江戸時代に通称「地震鯰の暦」と呼ばれる伊勢暦の表紙絵に描かれていたが、その最古のものは1664年である(岩切信一郎)。そこには中央にデフォルメされた日本国図が描かれ、それをグルリと竜蛇が取り巻いていて、首尾の一致する地点が「鹿島」で、そこに要石が打ち付けられていた。竜蛇の発想は京都の知識人で、竜蛇が鯰になるのは江戸後期であるが、これを江戸の俳諧師たちの洒落と指摘する人もいる(気谷誠1987年)
l  大地を支える巨人や神と地底などにいる竜蛇や鯰などの大魚の関係が、地震からは離れて神とその眷属(けんぞく)(神に従う小神)という関係のモチーフもある
Ø  鹿島大神、あるいは鹿島明神(明神とは、神を尊重しての仏教側からのネーミング)が大鯰を要石で押さえ込むというモチーフで重要なことは、(地震を押さえ込むことを超えて)巨魚を巨人が石か剣で押さえているという点であり、その点において阿蘇山の神話にも共通性がある
Ø  阿蘇の大神は(たけ)(いわ)(たつの)(みこと)で、巨魚は鯰だが、この鯰は大神の眷属なので食べてはいけないとか、大神が蹴破ったとする外輪山からあふれた湖水による洪水や洪水によって流された鯰にちなんだ伝承・地名も存在する。阿蘇山神話の大魚は大神の国土建設以前の地主神とする考え方もある(村崎真智子1993年)
Ø  阿蘇山の神話を、大地を支える巨人の変形したモチーフと見なすと、朝鮮半島に多くの類話がある。だがこの類話は押さえ込まれているはずの竜蛇や大魚の影が薄い
Ø  佐賀県佐賀郡大和町の河上神社の祭神と鯰の伝説では、祭神は神功皇后の妹の淀姫で、大鯰に乗って竜宮へ行ったことになっており、大鯰は眷属で海神の化身でもある
Ø  鯰の生息地である福岡県筑紫郡那珂川町の伏見神社に、この淀姫が勧請されているが、国土に異変が生じるときには鯰の群れをなして出現して予兆を知らせると伝えられている
²  「鯰による異変の予兆は、鯰の出現を海の彼方と結びつける思考が語られていたと言えるだろう」
Ø  淀姫と鯰の関係は神と神使のモチーフとなっている
Ø  「物言う魚」としては、鰻と鯰、イワナなどが古来より知られていた。とらえた大魚が声を発したので水中に戻したから大雨や洪水や津波が起こらないで済む、つまり大魚は人間に化けてこちらの世界に危険を告げようと働きかけるが、人間の方でそのことを解読できないと災厄を蒙るという伝説は多い
²  沖縄のヨナマタという人魚は海神の変化で、ヨナマタが人語をささやいたのを聞き取った母子だけが、一村全滅の危機から救われた
Ø  大鯰が海神や竜神の変化でありかつ水界の主であって、神の信託や予言を伝えるという信仰もある
²  滋賀県の琵琶湖の主は鯰で、国土に異変が生じるときには大群となって出現するが、この鯰はかっては推定に潜んでいた竜蛇の変化という伝承(『竹生島縁起』)
l  以上の問題を、海からの視点で捉え直してみると共通したモチーフが見えてくる
Ø  フィリピンのミンダナオ島のマノボ属の神話では、先祖の巨人は中心の天柱とそのまわりの柱を立てて、自分は大蛇と伴って天柱に住んでいたが、大蛇が柱を揺すると大地震が起きることになっている
²  同じミンダナオ島のマンダヤ族の神話では、大蛇でなくて巨大な鰻で、大地はこの背中に乗っていて、この鰻が身動きすると地震が起こることになっている
Ø  (黒潮海流をいう共通の環境を持った)フィリピン南部のミンダナオの諸島、鹿島神宮、伊勢神宮、日本列島の太平洋沿岸部、福岡、佐賀、熊本、香川、には、ここで紹介していないものを含めて、その地での神話・伝承・信仰には、複数に地域にまたがる共通のモチーフがある

三 民俗の都市化・都市の民俗
l  米露の黒船来航と大地震が続いて発生した1854年~55年にかけて作られた江戸の鯰絵から、民俗文化の本質を読み取ることができる
Ø  1855年の安政大地震直後に江戸市中に出回った地震鯰絵は、例えば、「世直し」という表現や鯰に七福神が乗っている宝船の表現から、海の彼方から幸運が訪れるという潜在意識のもとに、新しい世界が訪れるというテーマの提示がなされている
Ø  1854年にペリーの艦隊が横浜と下田に入港し、次いで来港したロシアの船が下田で幕府と交渉中に東海沖に大地震が起こって、大津波によりロシアの黒船が難破沈没した。この時の鯰絵では、黒船が「異国の大なまず」としてとらえれれた(気谷誠1987年)。しかし、その構図の表現からは、厄災の追放と幸福の来訪という反対のモチーフが読み取れる
l  上記鯰絵のイメージは怪獣ゴジラの姿にも通じている
Ø  ビキニ環礁での核実験でよみがえったゴジラが、海の彼方より東京上陸を目指して出現するという想定は、海の彼方から来訪する大魚というイメージと同類
Ø  鯰絵もゴジラ映画も、都市の崩壊というテーマが海の彼方からの得体の知れない何ものかによって行われるというモチーフにより成立している
l  「大都市の終焉という世紀末的なモチーフは、都市の語り出すフォークロアとして伝承されてきた。」
Ø  渋沢敬三が、都市生活者の生活文化を捉えることが民俗文化論としても肝要であると考えていた一方、柳田國男は村落生活に密着していた
Ø  都市は異質性の高い社会であり、農村はその反対(だから、農村での生活様式を研究することだけでは、民俗学として都市を取り扱うことはできない)
l  「民俗の都市化と、都市の民俗とをとらえる基準は異なっている。しかし都市の民俗文化の全体像をとらえる場合には、この両者をトータルにおさめる視点を定立しなければならない。」
Ø  (ここで言われている「基準」とは何であるかについて明確には述べられていないが、多分、過去と現在における「民俗」とは何であるかと判断する基準のことなのではなかろうか。そうすると、本稿冒頭で著者述べている「民俗学は民間伝承を研究対象とする」という民俗学の定義において、過去の人々の生活における現実・現象に基づいている「民間伝承」を、将来の人々から「伝承」と呼ばれるに相応しい、今ここを生きている人々の生活における現実・現象と解釈し直せば良いことになる。更にいえば、著者はこのような基準で「都市の民俗」を研究することは、「民俗の都市化」の「都市化」というプロセスを研究することと殆ど同義である、と言いたいのではないだろうか。)
l  民俗の都市化と、都市の民俗とをトータルにおさめる視点を定立するための一例として、妖怪現象がある
Ø  「妖怪は人と自然、人と神との交流を語る重要な民俗資料の資料とされてきた。従来の考えから見ると、妖怪は自然に近い存在であり、都市よりも農山漁村に多く存在する民俗である。」
Ø  「妖怪譚で最も多く語られる狐に化かされる話のモチーフは「民俗の都市化」にヒントを与えている。」
²  昭和10年頃以前には、多くの人々が狐に化かされたことを体験的に物語ることができたが、それ以降はそれができなくなった。この現象を「民俗の都市化」と捉えると、昭和10年頃は日本人の大きな意識変化の折り目である、ということになる(桜田勝徳1976年、1980年。小川博1990年)。
Ø  「狐狸と人間社会の関連を示すフォークロアには、おおよそ四つの類型があげられる。」
²  一類:狐狸と人間との間の境界が明確で、相互に棲み分け、交流に調和が取れている。狐狸が人間を化かすことはない
²  第二類:人間が多少狐狸に対して防御する姿勢をもち、化かされるかもしれないと感じるとしても、彼らによって人間に害が生じたとは考えられていない
²  第三類:狐狸の生息地に人間が侵入し、狐狸も人家近くに出没して鶏をさらったりする。狐と人間との対決が表面化し、強力な呪術者に狐狸退治を行わせ、狐狸は棲みかを追われ、狐の場合は野狐と称される
²  第四類:狐が人間に対して祟りをなすもの、野狐の悪霊が人間に取り憑いて病死させると考えるようになる(狐憑きの現象)。「狐憑きは、高熱を発し、取り憑いた悪霊は超能力を発揮し、人間側は祈祷術を持つ行者・巫女が、取り憑いた狐を落とそうと祈祷する
²  この四類は全国的に普遍的な現象であるが、狐憑き現象の場合には濃厚に分布する地域がある
Ø  「狐に化かされるというフォークロアには、「都市化」が反映していることが想像される。」
²  第三類に入るフォークロアはきわめて普遍的で、このことは昭和初期以降に列島に現象した「都市化」という社会変動と関わっている
²  江戸の頃、江戸市域内に稲荷の祠が急増した時期があった。急増の由来を調べると、狐の霊が土地や屋敷の守護霊として稲荷の本体に祀られる時期と、やたらに女性や子供に取り憑く時期とに別れる。後者は幕末に集中し、前者は住宅開発が盛んになり始めた時期の古社の縁起に顕著である
Ø  「すなわち、民俗の都市化が次第に定着していき、都市民俗が次第に顕在化していくコースが読み取れる。稲荷・狐信仰における狐憑きが流行神化して頻発するのは、世紀末とか時代の変化に敏感に反応した都市生活者の心意が基底にあったと思われる。」
Ø  「同様なプロセスは、都市の破壊者としてイメージされる妖怪フォークロアの中に見つけられる。」また、彼ら妖怪は、水界の王の表現であり、かっては水神や海神の、神使の扱いを受けたものである
²  幕末の江戸にクローズアップされた鯰男。物言う魚、異変を予知する存在、大地震との結びつき、大都市に蓄積されたケガレの排除としての「世直し鯰」
²  メディアにのって流行するゴジラ。海の彼方から襲来し、大都市を破壊して再び海に戻っていく
Ø  モダン・フォークロアとして注目されている現代の民話のうちで「学校の怪談」もまた、「都市の民俗」に位置づけられて意味を持つ
²  都市は発生プロセスにおいて闇の部分を胚胎しており(自然破壊とか)、だから繁栄の影にケガレを蓄積しており、その排除のためにハレが強調され、ケガレに相当する異物排除の装置が設けられ、それは絶えざる不安によって支えられている(都市民俗の主たる特徴)
²  学校は、現代都市の闇の部分を仮想現実化させて都市民俗を作りだしている、と考えることができる
²  赤いはんてんを着た老婆や女の子、赤いちり紙、赤い水、赤いマント、「赤」へのこだわりは血のケガレの象徴
²  便所・厠は異界との境界を占める空間と見なされていた。便所神や雪隠参りの民俗は、とくに出産や子育てに結びつけられて伝承されており、田舎の民家にある外便所が妖怪出現の場所となることはごく自然であった。学校のトイレの妖怪譚も同類であろう
l  「都市民俗」の研究対象として、現代都市の「マツリ」が注目されている
Ø  公権力が推進することの多い「ふるさと再生」的マツリとボランティアが集まって企画した自主的なマツリがある。前者は祭りの復活であるが、後者は都市生活のリズムの中から自然発生的に生じたマツリである
Ø  これらの「マツリ」は「都市民俗」であるが、伝統的な民俗の意味からいえば「セコンド・ハンド現象」である。しかし、表面的には神や自然との交流を無視したように見える「マツリ」であったとしても、都市文化の価値を再発見する意図に基づいたものは、中古品ではなく新しい「都市民俗」の範疇に入れるという思考も必要である
Ø  「日本の民族文化をトータルにとらえるためには、従来の里=農村を中心とする視点を持つ日本の民俗学のあり方を大きく修正すべき段階に至っている。」