日本通史06巻 (古代5)
通史(10-11世紀の日本-摂関政治)
玉井力
はじめに
フレンチレース |
一、王権・摂関・内覧
摂政関白制は、天皇の後見役であった藤原良房が九世紀後半に太政大臣(次いで摂政となったが)となったことが発端であり、外戚と太政大臣が二本柱であった。その後、摂関が律令官職を超越した地位となり、摂関と太政大臣が分離するとともに太政大臣が栄誉職化し摂関と藤氏長者が一体化する(地位を表す名称が、合議上のルールを守るという言語を媒介とする信頼関係の有効性を象徴するものから、血統と暴力による権威と恐怖の表象へと変質して行ったのではないか?するとこれは、集団が、弱く退化した統治原理を選択したことになるのではないだろうか?)。
王権者である天皇には、父子関係を基礎とする「家」の家父長的権威に裏付けられた後見者たちがいた。後見者は行政面を担当する摂政・関白・内覧グループと、そうではない(天皇王権の私的集団)院・女院・母后などのグループに区別されるが、院は後に行政を担当する。これは王権が聖なる権威と世俗の権力に分掌されるようになったことを意味しているとともに、律令制的貴族政権ではなく王権代行的な分権的王制とでもいうような政治権力が出現していることも意味している。ここで、当時の天皇の聖なる権威とは一体何であったのかと言う分析はすべて今後の課題であるが、それを支える神事・儀式・政務も含めて複雑な様相を呈していたことは確かである(天皇の権威の本質についての説明はされていない)。
二、官司制の変質
重要職務の任命機能や組織が変質していく。律令制下での官司の任命は天皇と議政官が参加する除目によって決定され、儀式によって組織として認知された。同時に、それとは別に即ち令外官として、同一組織内における(必ずしも官司組織とは限らない、つまり律令組織とは別の組織も存在したことになる。この別の組織の実態・実力について更に知ることが必要)上限関係に基づく任命方式である「宣旨」による宣旨職が存在した。これは別の官職を持つ人に特別の任務を担当させること、即ち「別当」するという考えに基づいていた。代表的なものは王権に直属する蔵人所と検非違使である。一方、諸司の行政機関としての官衙の下部実務組織としての「所」が存在した。10~11世紀にかけてこれらの「宣旨職」や「所」が律令体制とは別の統治組織として機能してくるようになる(その理由はここでは端的には述べられてはいないが、律令体制が統治権力と経済の掌握を当時の為政者が描いた目論見どおりには達成出来ず、別の統治機構が発生してきたためであろう。)。そのような状況の理解を深めるために、以下に蔵人所と検非違使が官司に取り換わっていく様子について説明する。蔵人所については、もとともと政治・軍事的な天皇直属機関であったものが9世紀中頃より経済的機能を増大させ、10世紀以降11世紀後半にかけて、各「所」で「贄人」などを使い「牒」を発して(特に山海の物資の調達力を獲得することにより)天皇家の家政機関の中枢となって行った。それを可能にした大きな理由の一つには交通路の支配があった。検非違使も蔵人所と同時期に成立した天皇直轄の治安維持機関で、捜索・逮捕・裁判・行刑、更には、交通路支配・強制徴税・人夫徴発なども請け負った。10世紀後半には裁判基準の慣例が成立した。
職務の成立についても変質していく。別当は、公卿や弁官・史などをして寺の事に当たらせたものだが、10世紀になると寺だけではなく諸司も対象となった。別当の任命は「所充」が行った。担当官職(弁官別当とも言うらしい)と諸司別当が並存する機関では、前者が通常実務を行い後者は総括的な監督の立場で異常時に機能したものと考えるのが妥当である。所充の中の「殿上所充」は摂関政治の前代下位に位置づけられるが、「官所充」は後述する官司請負制まで継続する。
職務を司る実務組織も変質していく。「年預」という官司の事務請負者に対する呼称が9世紀初めに存在し、これを「長官-年預制」と言うが、この体制は長官による監督機能が衰退すると律令体制を破壊する要素を内在し、事実11世紀初めには四等官制(長官、次官、判官、主典)を全面的に破壊するものとなっていた。いわば官内の儀式遂行プロジェクトチームであった「行事所」が、儀式遂行に必要な物資の調達業務を通して10世紀後半には独自の経済基盤築き、朝廷諸行事執行の重要組織となっていったことは、「長官-年預制」とリンクして律令体制を破壊して行った。蔵人所・検非違使の展開は、中務省・少納言・刑部省・弾正台などの職務を吸収しつつ進行し、9~10世紀を通じて律令制の八省クラスの総括官司は著しく没落して行った。10世紀末には太政官中枢部の公卿即ち議政官は、統一組織内で横に繋がった立場というよりも、王権-上卿-弁官という縦組織の一員となっていた。
11世紀前半頃までの摂関政治における国家的官職機構は太政官と蔵人所という別系統の二つの組織から成っていたが、蔵人所は上申・下達方法や官職兼務関係を通して太政官制に寄生もしていた。蔵人所は人を介して「山海の王」に繋がり、太政官は土地を介して「田の王」に繋がっていて、天皇家及び摂関家は交錯するそれらの支配関係を両方掌握する立場となっていたとも言える。官職の変質を行政事務部門とハレの儀式遂行部門に区分して考えると、前者は上述のごとく請負制的に変質して行ったが、後者は律令体制が生きている状況が見えてくる。
11世紀後半から12世紀中頃にかけて、社会の仕組みが「官司請負制」と言う形を整えていく。それは、荘園公領制の胎動の下で増加してきた権門間の訴訟裁定を国衙に変わって(権門の力が増大して、国衙の手に負えなくなってきたのだろう)政府が実施する動きと並行して進行した。政府の訴訟裁定に奔走したのは勘文を作成する「史」や「法家」たちであった。9世紀後半頃からは特殊技能保持者達は例えば諸道の職などとして世襲化しつつ伝習組織ごとに系統化されて、令性官制の従属関係とは別に官職横断的に官職を占め始め、12世紀半ば頃にかけて官司機能を請け負う「家」と「官司請負制」が整ってくる。この制度は摂関家や院の介入で家格付けや制度の方向性は規制されたが、主役は実務を担った諸大夫以下の層であった。
三、貴族層の再編
9世紀前半頃に(氏姓制を破壊して律令制貴族を生じさせた)官位の考選制が放棄され、またほぼ時期を同じくして官職の任命が合議実績方式から特権者優先年功序列型へと変化した。その結果、天皇家と摂関家の権力が増大し、位階も二層に分かれ(五位と六位がその境目で、令制下での貴族層が五位以上であった体制が維持されている)、10世紀前半には下級国司に至るまで権力者との関係が任官を左右するようになった。摂関家は公卿直前の四位までの人事を自由に操作する権限を有するに至った。
9世紀末には、天皇との直接な関係を基礎とする秩序原理としての昇殿制が出現し、公卿・殿上人という特権階級を生み出した。昇殿制は天皇家の側近主義と公卿家の家柄主義という異なる原理を内在していた。10世紀末から11世紀中頃にかけて、家格区分の定着(公達、諸大夫、侍)、摂関家と源氏による公卿の独占、受領(諸大夫に区分)の中央昇進からの排除と地方政治一任、家柄原理に基づく摂関家の六位以下の官職に対する支配件の浸透、等が進展し、官司請負制への促進効果を発揮した。
封禄の体系も天皇との直接関係を基本とする、公達・殿上人・諸大夫のランクに対応した形に組み直されていった。10世紀前半には六位以下は封禄の対象から外れた。10世紀後半には五位以上層の節録も形骸化し、五位・四位の位禄の支給は全員ではなくて部分的となった(繁忙な要職者や兼国者及び天皇に近い立場の人々だけ)。11世紀中ごろには、参議(令外官の公卿)・中将クラス(左右近衛府の次官)でさえ収入が保証されない状態になっていた。天皇の関係者に対する恩給である年給は、諸国受領から徴収され、個別関係に左右されながら、支給された。下級役人の給与に問題は今後の課題である。
四、政務の様相
太政官政務のシステムは一連の政務執行手続きである「政」(諸国からの申請の裁断)、「奏」(太政官から天皇への上奏)、「定」(執政者の合議)から成り立っていたが、10世紀以降の重要な太政官政務としては公卿聴政、官奏、陣定があげられる。公卿聴政は公卿が参加する聴政で、太政官下の外記政や南所申文、或は内裏の陣で行われた陣申文がある。
大臣(太政大臣、左・右大臣)の職務であった聴政が平安初期から中納言(大納言は太政官の次官として令政官職の一つだが、中納言は令外官)以上も行うようになり、公式令(養老令、大宝令)の諸奏(口頭伝達)も形骸化して来たため、陣申文の必要性が増した。その結果、奏の主体は官奏(天皇の処置が記された文書が作られる)となり、除目とともに最も重要な政務として公卿聴政を経ていることが条件とされた。しかし、その官奏も10世紀半ばには奏のルートが上卿から蔵人経由になって形骸化が始まり、変容していった。
公卿聴政も、本来は申文や官奏の文書を審査する政務である「結政」が公卿への直結ルーとして機能する実態が生じてきたこと(公卿が公的政務の場ではなく私的住居で政務を行うようになってきて、大臣については10世紀後半から11世紀にかけてそれが一般化していたという実態、と相俟って)などにより、その内実は11世紀後半には変容していた。しかし、太政官政治の正当な後裔である「政」「定」系統の政務ルートは、受領関係の政務に関しては固持されていた。
以下奏事、議定の変遷については省略する。
五、受領と摂関政治
9世紀後半から末にかけて国司官長の権限と責任の強化が行われ国家財政の請負者としての「受領」が誕生する。受領は考課制度が衰退して行く中で唯一厳密な査定を受けたが、実際は考課基準を満たしていない受領も多かった(解由状、勘解由使、公文勘済、功過定)。承平・天慶の乱が起こる頃になると、査定は厳しくなったがパスするものは逆に多くなった(つまり中央政権の統治能力が減退した)。10世紀末頃には賄賂は一般化し受領は搾取の限りを尽くすことが普通になっていたが、国家財政は受領による請負とそれを前提とした諸制度によってかなり効率的に運用されていた(効率的か否かの判断レベルをどこに設定すべきか理解できないが、少なくとも受領制度が無いよりは良かったのだろう)。
受領を摂関や公卿に奉仕させ得た構造は、中央の権力構造からの受領の排除を背景に持ち、利益を餌にした任命や査定の権限にその根拠を持っていた。受領の任命権限は天皇と摂関及び公卿が持ち、その任用規準は年労に基づく「巡」と成果主義的な「別功」であった。10世紀中ごろには受領希望者が増大したので任命権に基づく受領に対する支配権も増大するが、次第に着任までの待機期間が長くなり11世紀後半から12世紀はじめ頃になると先ず新任者がついで旧吏の再任が実質上出来なくなり、年労による受領を中心とする体制は崩壊する。成果主義的な受領の任命ルールは、受領と公卿双方のせめぎ合いの中で成立していたが、それを支えた太政官制のルールは、ついに院政によって恣意化されるに至る(ことによりこの構造が崩れて行った。11世紀末頃)。
(藤原氏が摂関政治の栄華を極めた)11世紀前半の藤原道長、頼道の時代には、公卿特に摂関家は一族の公卿や家司を中枢として、天皇家との関係を利用しつつ、寺社等を含めて全国にネットワークを築き、受領を核として富を中央に集積した。受領の功過定など地方政治の根幹システムは維持されていたが(後の院政で崩壊する)摂関との強縁者は優遇されて不平等性が拡大し、それが上下関係(天皇-公卿-受領)を強化した。年給制は摂関の人事工作の手段となり、官位・官職の仲介関係が出現し、それは物資流通ルートと一致して、受領から下級役人に及ぶ請負関係を成立させた。受領は公卿の一族が占めて経済基盤を強化し、地方に代理人をおき在京のままの交代も可能となった。摂関家は瀬戸内海、琵琶湖など物資流通ルートの拠点や馬や金などの産出拠点、流通機構に携わる人々を支配した。文化の流通ルートも物資のそれと同じであった。武的請負人もこのネットワークに組み込まれていたが、承平・天慶の乱での功労者は受領の地位を得て東国等で勢力を扶植した。特に東国の平氏の成長は著しかった(1028年、平忠常の乱)。摂関期の国家的官制は、天皇とその代行者で構成される王権が太政官制(宣旨職的に変化してはいるが)と蔵人所の両方に立脚した支配組織といえる。(律令国家設立から400年余り経過したこの時点において振り返ってみると、国家というものに対する統治者の意識が公的なものから私的なものへ、即ち、天皇家、摂関家、公家を始めとして個別集団の私的意識へと次第に変化してきて、いよいよ決定的な場面となりつつあることが伺える)。
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