2016年8月14日日曜日

岩波講座 日本通史05巻(古代④九~十世紀の日本-平安京)通史 吉田 孝、大隅清陽、佐々木恵介

日本通史05巻 (古代4
通史(九-十世紀の日本-平安京)
吉田 孝、大隅清陽、佐々木恵介
一、平安京の新しい世界
ピエール・ドゥ・ロンサール
東アジア動乱の終焉期に道鏡を皇位につけることに失敗した称徳女帝が死去した後、継承
した光仁天皇のもと政治は秩序維持の路線に修正された
(この天皇は、飛鳥浄御原令以降日本国を律令国家として築き上げてきた天武系ではなく、天智の孫であった)。次の桓武天皇(即位781年)は光仁天皇と百済系渡来氏族の血統を継ぐ女性との間の生まれで、その王権の正統性は父系の皇統の譲位と天智の不改常典であった(つまり血統、且つ父系であることが王権の正当性の根拠であった)。この思想に基づく、「天智の初め定めた法によって先帝から譲位された」という桓武の即位宣命の形式は以後幕末まで維持された。これらの皇位継承には藤原氏が強く介在していた。
桓武は平安京に遷都した(遷都の理由を桓武の心情から察すれば、平城京が天武系の天皇が作った都であったからだろうが、統治上の合理性から求めれば、天智系の父系皇統譲位に基づく正当で新しい王権の発足を具体的に告げることで権力を強化することだろう)。遷都は先ず、784年から難波京の廃止と平行して進められた長岡京の造営から始まり、10年を経ずして794年に平安京へ遷都した。長岡京造営中に起こった藤原種継の暗殺に端を発して、桓武の実弟の早良皇太子を担いだ陰謀が発覚し、早良は憤死し首謀者は処刑されたが、その背景には天皇及び藤原氏と天武系及び他の氏族との権力争いを伺わせるものがある。尚、平安遷都の一因は早良親王の怨霊が桓武を悩ました可能性もある(当時、怨恨を抱いて死んだ政治的敗者の霊である怨霊は祟りをなすと考えられていた)
桓武の政治課題は先ず王権の正統性の確立であった。そのため、皇族の内婚制(皇権の超越性を指向する考えに基づき律令でも定められていた。藤原光明子の立后でこの原則は破られた)の範囲拡大や伊勢神宮の重視(古代中国における王権の正当性を証明する儀礼である郊祀に習って、伊勢神宮を皇位の象徴儀礼の場所として位置づけた)など中国風の父系の王権継承を志向したが、それはウジの父系出自集団化の進展という社会の潮流でもあった。
時代の政治課題は対外関係にはなく、造都と征夷事業であった。辺境に対する律令制の浸透政策は引き続き推進され、一応の結末を見た。隼人に対しては、100年近くを要して800年頃には特例としての隼人朝貢の廃止と口分田制の実施が出来る程に浸透した。東北以北においては抵抗が強く(例えば阿弖流為と坂上田村麻呂の戦い)、志波地方(現在の盛岡)に砦を築くに留まり、遂には蝦夷支配体制の方式を身分差別に基づくものから支配組織に取り込んでいく方式へと改める政策転換が行われた(805年)。この政策転換は、当時進行していた公民と浮浪人の区別をなくしていく政策と共通している。
桓武の次に皇位に就いた平城は病のため三年ほどで弟の嵯峨に譲位し(809年)、その後淳和・仁明と続く九世紀前半は、国際緊張の緩和と日本列島の辺境に至るまでの大体の統一により(現在の北海道と沖縄を除く)、政界は安定し、宮廷を中心にした唐風文化が栄えた。皇権をめぐる血なまぐさい争いも、薬子の変を契機にして、敗者の出家という形態をとる形に変化し、この時に行われた藤原仲成の処刑以後は、都での死刑執行は350年間行われなかった。この弛緩した時代に形成された国制が、その後の日本の国制の基層となる(この言い方で著者が何かを述べようとしているように見えるが、その内容は定かでない)。王権の継承ルールは皇太子の立太子と譲位が定着し、権力闘争は立太子時点での発生となったが、その底流には社会の父系化があった。上皇と天皇の二重権力構造(律令に定められていた)は、嵯峨上皇と淳和天皇の時代に天皇の上位(新天皇が「太上天皇」号を贈る制度として)が公的には成立したが、実質はなかなか消滅していかなかった。
天皇には多くの子供がいたが、嵯峨の時代以降、源朝臣、平朝臣の姓を与えて臣籍とするようになった。中でも清和源氏、桓武平氏は後に武家の棟梁として活躍する。この時代には、源・平・藤・橘という代表的な姓が出揃うが、新たな源・平という抽象的な命名は宮廷の中国文化への憧憬を表している。個人名も、自然や動物に因んだものから良・信・弘・常・寛・明・定など抽象的で倫理的な漢字を用いるなど、よい意味の漢字を当てる慣習がこの時代に作られた(姓・名の付けかたは時代を反映している)。貴族は都市貴族(生活基盤の軸足が「ゐなか」から「みやこ」へ移った)の性格を強め、中下級官僚の生活基盤も平安京へ集まってきて、都のあり方は変化したものとなった。奈良から平安初期にかけて律令政治が実効的になるに従い古代氏族が没落した(律令制は理念的に誕生したがこの時点では実効化努力が継続されていた)。それは、律令国家は畿内豪族が大王を推戴する大和朝廷の構造を内包していたものの、もともと豪族の統治基盤は弱く王権に対する従属性が強かったためである。一方、桓武以来の文人的・良吏的な(かれらは政治的知識や文化的素養に優れていた)渡来系議政官が増大し、天皇を核とする新官僚群となった。同時に天皇とのミウチ的関係に基づく公卿が増大し、父系の源氏と母系の藤原氏が(貴族政権の中)で格別の力を持つに至った。藤原氏は乙巳の変の功績を原点として王権との(身体性的な)関係を深めてきたが、良房の時代には課役や皇族との婚姻に関する制度上の特権の獲得を積み重ね、広義の意味での父系出自集団として(猶子の基経が良房の権威を継承し、摂政、太政大臣、関白となる)皇親と並立する地位を公的に獲得した。それは外戚として王権を支えるという国制の成立過程であった。
二、貴族政権への道
嵯峨から宇多にかけての九世紀一杯は、浄御原令から大宝律令、養老律令などを経て進展してきた律令国家の政権が貴族政権へと移っていく過程であり、その一応の完成は十世紀中ごろであった。権力の正当性は依然として儒教イデオロギーを含む広義の律令制であったが、それはウジ集団に支えられた古代国家構造の解体原理と同時に別の身分的な集団を必要とする原理も内包していた。貴族政権は氏族制と律令制の二重構造の代りに、律令制と新しい原理の二重構造をもった律令政治の一つの帰結であった(新しい政権形態が出現し始め、それが定着するのに更に100年ほどを必要としている)。こうした変化は、天皇という王権の立場から見れば脱呪術化、或は合理化と捉えることが出来る。貴族政権をささえていた新しい原理は、天皇や上級貴族との人格的関係と、律令制の崩壊過程で独立化してきた官職をめぐる利権であった(なぜ国家体制の統一性より天皇を中心にした家産的な小集団へと移行したのかについては明示されてはいないが、国際的緊張緩和はその一因であろう)
この貴族とは、古代律令国家の天皇を支えてきたウジ集団である畿内豪族達ではなくて、新興の律令貴族と源や平の姓を賜り臣籍となった天皇の子孫達であった。なかでも藤原氏は乙巳の変での天皇との協力関係を梃子として、外戚としての影響力を超えて公的な政治権力を掌握するに至った。国家としての官僚体制は天皇家を中心とする体制へと編みかえられて行き、上級官職は藤原氏、源氏などの特権貴族に世襲的に独占された。特権貴族から疎外された貴族は特殊技能で生き残った律令貴族と儀式における役割においてだけ少し残った畿内豪族であった。
律令制に基づいた官僚機構は天皇家主導下で統廃合されて変質していった。律令制下の八省は内裏の「所」(蔵人所はそれらを統括した)と呼ばれる機関に代替されていき、官職の人事は「除目」から天皇の「宣旨」へと指示命令系統の内実が変化した。位階制も変質し、官職のキャリアと特権貴族の恩寵に基づいて昇進する制度が出現してきた(官職の条件としての位階ではなく官職としてのキャリアが位階の条件になってきたが、同時に、元々官職につくには特権貴族の恩寵が必要となってきた)。公的実務の実施レベルにおいては、貴族によって担当官吏が任命されるようになってきた。この担当官吏は別当と呼ばれ、令制とは別のルール系統に依っていた。これ等の背景には、例えば租庸調(九世紀中ごろに未納が顕著となる)や公地公民制が衰退して、諸官司が地方経済を独立に運営するようになってきたことがある(この記述だけでは不足する。この辺はもっと追っていかねばならない)
儒教イデオロギーの役割は、皇室の家父長としての権威で宮廷社会を支配すること通して政治権力を掌握すること(国政は人事と血縁を通して宮廷が掌握し、宮廷の人々は家父長としての上皇に従ったから)及び皇帝権力の儒教的正当性(それは中国の儒教思想を都合よく利用したものであろう)にあった。前者の役割は、嵯峨が上皇としてそれを実施して以来根付いたものである(このような構造を持った貴族政権は、天皇の権力が呪術的なものから実効的なものになる条件提供したともいえる)。後者は藤原氏が「皇室の家父長的権威を、外戚としての地位を媒介として吸収する」ことにおいて権力を掌握し、良房・基経の時代に太政大臣と摂政・関白地位の両方を獲得したことにより明確になった。律令国家において、天皇は王権(主権)保持者だから国政の最高決定者で、太政大臣は国政の最高遂行権限者であるが、私である皇室の権威が公である政治権力をもつとともに、天皇が政治から疎外される状況が生じるようになった(天皇を政治から疎外することを可能にしたものは、外戚としての家父長的権威であり、宗教的権威でも何らかの客観的合理性でもない)
神祇、仏教、儒教の三つのイデオロギーは奈良時代後半までは相互に衝突していたが、ともにすみわけが可能となっていった。年中行事への並存などにより論理的な根拠には薄くても、共通の行為として体系化されることに意味が見出された(のだろう)(衝突しなくなってきた原因には)九世紀前半から貴族政権の構造が出来上がるにつれて、(集団化の原理が)地縁的で神話的で同祖的な集団から官人を始祖とする父系出自集団的なものへと変質し、宗教観も土地に繋がる自然神から始祖の守護神(伊勢神宮は皇族の祖先神・宗廟としての意識が強い特別な存在となった)へ変化してきた一方、唐礼の導入による国家の儀礼や官人の作法に変化が起こっていたことなどが考えられる(この辺も理解するには深みが足りない)
九世紀末、基経の没後に(藤原家が外戚でなく天皇の主権行使がし易くなっていた状況下において)宇多天皇は菅原道真等の人材を登用して地方統治や官僚制の合理化など政治の刷新を図った。醍醐天皇に譲位した後、基経の子の時平を抜擢して腹心の道真とともに登用するが、時平は道真を大宰権師に左遷し、宇多、醍醐周辺の近臣を一掃して、律令制再建策を遂行するとともに外戚関係を再建するが齢三十九で没する(909年)。その後皇位の継承も藤原氏の地位も安定に推移する時代が十世紀半ばまで続くが、それは「官職の貴族化」が自立的な秩序を形成したためとも理解できる。そのなかで、969年に勃発したミウチ的な権力闘争である安和の変における受領や武士などの中級貴族の活躍は、天皇と藤原北家嫡流と頂点とする家産的な政治編成に、中下級武士が組み込まれ始めていることを端的に示しており、貴族政権は十世紀後半に新たな段階を迎えることになる(この段落で一気に70年ほど)
三、新しい国制の底流
上述した「貴族政権」という新しい国制の底流には何が存在していたのだろうか(これは著者の問いかけの代弁だが、逆の発想の方が面白いと思う、即ち律令制が変質して安定化したこの国制をもたらしたのは、ここで底流といわれた社会の流れではなかろうか)。先ず九世紀末から十世紀にかけて、遣唐使の廃止(894)、唐の滅亡(907年)とその後の混乱と宋の統一(979)、東北部や朝鮮半島での混乱と収拾など、東アジア情勢が変化した。その影響で、日本の貿易は返って盛んになったが孤立主義を採用した国家は国際関係から離脱した(その影響は?)。国内経済は土地の開墾による農業や銅や鉄などの非農業の他に、物流などを基盤にした個別単位の経営が可能となってきた。それは旧来の在地豪族でも律令国家や官僚でもない組織体として多様な「党」(運送業、交易商人、野盗・海賊の類)の出現を可能とした(国内律令体制が変質してきて、集権的運営から分散的運営にならざるを得なくなってきていた背景があるのだろう)
中でも富裕な経営体(富豪之輩)は、貴族と結び国家の統制外の存在ともなったが、その母胎は在地化した国司などであった。徴税や地方運営の実際の権能は、任地で国務を実際に行う国司である受領が持つようになった。受領の財を狙う襲撃事件も頻発したが、その鎮圧に政府から派遣された者が土着することもあった(武芸之輩)。(このように律令国家としての集権体制が緩み権力の分散が始まってきたことの)象徴的出来事は、十世紀前半に発生した平将門と藤原純友の乱(承平・天慶の乱)である。それは、多様な実態を持つ富豪之輩や武芸之輩を、受領が雑色人や負名として一元的・画一的に支配していく動きに対する反発であった。十世紀前半に、各国での支配体制は旧来の在地首長制を基礎としたものから、負名体制・雑色人体制などによる受領支配が確立する。十世後半になると、中央政府対受領の関係においても現実の社会体制に相応しい新たな財政構造が形成される。それは、受領を通した全国一律把握と必要財源の徴収体制である。(この段落は多分大事な要点の説明がまだ抜けている。)
九~十世紀を文明論的に見れば、在来の文化と中国の文化との交渉・融合の深化、九世紀初頭の最澄、空海等による日本的な仏教思想・哲学や仮名で記された古今和歌集に代表される国風文化の進展、京都の政治都市から生活都市への変化、陸の国境意識の確定(14世紀初頭の行基図にみられる)など、その後の日本文化・国制の原型の一つが作られた時代といえる。


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