2015年7月3日金曜日

岩波講座 日本通史01巻(日本列島と人類社会)【総論】 網野善彦 



総論 日本列島とその周辺-「日本論」の現在」
(2016/5/4修正)
網野善彦
一 「日本論」の現状と問題点
ラベンダードリーム

ア.    大局的認識
a.      現代世界は、人類が自らを滅亡させうるほどの力を持つに至り、国家のあり方、民族の実体の問い直しが必要な画期である。
b.      日本は敗戦したが経済大国になり、それゆえに今、世界に対する役割が問われている。従って自らの歴史を誤り無く知り、正確な自己認識が必要。
c.       世界は日本の経済成長に目を見張り、(それがゆえに)欧米諸国は、天皇の存在、神社信仰、米問題、企業経営(などについて、彼らと)異質なもの(の存在と、それを問題点として)感じ取り(始め)、「大日本帝国」の侵略の下におかれたアジアの人々は警戒を伴う強い関心を抱く。だから、彼らにわれわれを理解してもらう必要があり、従って自分達の歴史を誤り無く認識する必要がある。
イ.    近年の「日本論」に対する認識
a.      1960-70年代
1)   「日本文化論」が論じられたが不十分な内容であった。それは主として欧米諸国向けであり、「一つのイデオロギー」的偏りを持っていた。
2)   列島内のアイヌ・沖縄に対する視点が決定的に欠落していたので、列島外のアジアの人々に対する無反省な姿勢を伴っていた。
3)   日本国を「単一民族」ととらえ、その「日本国」のみに目を向ける俗論(即ち、民族、国家に対する深い理解を妨げるという意味での俗論)、に道を開く結果につながった。
b.      1980年代頃以降
上記についての反省が起こり、「日本論」は新段階に入った。特に考古学・民俗学・文化人類学の分野でそれは起こった。例えば、海の視点に立った日本文化形成史の試み、水田耕作とは異質な農耕文化・民族の存在の明示、北海道と沖縄に別の「日本文化」が存在したという認識、など。
c.       文献史学の一般状況
1)   文献史学の分野では、こうした「日本論」「日本文化論」に対しては批判的・消極的な姿勢であった。
     少なくとも1970年代には、「天皇」を研究テーマにすること自体が(天皇制の)延命に力を貸すものとして研究を行わない姿勢、
     「日本文化論」それ自体批判すべき対象とする姿勢
     文化人類学・民俗学を超歴史的として拒否する姿勢
2)   西欧の新潮流「社会史」の影響
     1980年代に入ると西欧の新潮流「社会史」が、歴史学会の拒否反応にも拘らず日本史の分野にも影響を及ぼし始めた
     塚本学は、日本は単一民族国家という判断や古代以来その国家が一つの国家であったという見方を拒否し、「日本国家史、日本民族史」ではなく、「日本列島上の人類社会史」の視点に立つ研究を行った。
     日本の歴史学に対して、「日本列島上の人類社会史」の視座は影響を広げつつある。
d.      用語の問題
「日本論」を展開するにおいて、使用する言葉の吟味は大切である。なぜなら、未規定なものを対象化すれば誤った認識をもたらすから。
1)   「日本」の誤用は誤った歴史認識につながる
「日本」という言葉は「律令国家」が7世紀末頃から対外的に用いた国号として現れたのだから、それ以前の歴史について曖昧に「日本」という言葉を用いることは誤った歴史認識につながる恐れがある。
2)   「天皇」の誤用は誤った歴史認識につながる
「天皇」の称号も「日本」の国号とセットになって同時期に用いられているので同様である。
3)   「民族」は対象化された言語となっていない
     「民族問題」の現存は否定できないにも拘らず「民族」という言葉が対象化されて思考されていない
(a)      近年の世界の「民族紛争」、日本への外国人の流入などから、日本においても「民族問題」の現存は否定できないにも拘らず、「日本には民族問題は存在しない」という俗説が広まる程である。
(b)      1950-70年代の研究の空白状況がその主原因である
(i)      戦前の皇国史観に対する嫌悪感
(ii)     戦後の共産党運動の破産と反発
(c)      最近になって「民族」の問題に正面から立ち向かう気配が見られるが、その使い方は不鮮明で問題は山積している。例えば「大和民族」という言い方の「日本民族」への言い換えは問題のごまかしである。
ウ.    結論
「日本論」の現段階としてわれわれのなすべきこと
a.      「日本民族の特質」を云々する前に、「日本」「大和」「天皇」等に対する曖昧模糊とした捉え方をやめる。
b.      既成の観念・思い込みを捨て、周辺地域と密接に結びついた日本列島諸地域の社会の実態と歴史とを、事実に即して追求すること。
c.       その際の問題点について以下に言及する。

二 列島社会の非農業的特質
ア.    従来の「日本論の常識」の根拠
a.      「律令国家の“班田収授法”」
b.      「水田を年貢賦課規準とする“荘園公領制”」
c.       「米によって課税基準を表示する近世の“石高制”」
d.      「人口の圧倒的部分を占める“百姓”が“農民”であるという認識」
e.      「“瑞穂国”のいう神話」、「儒教学者が唱え続けた“農本主義”」
イ.    従来の「日本論の常識」の影響
a.      近代以降の政策を規定した
b.      近代学問の常識を規定した
1)   アカデミズム確立後の大正期以降の歴史学・経済史学・民俗学
2)   マルクス主義的史学
ウ.    従来の「日本論の常識」が疑われる根拠
a.      「百姓」は「農民」ではない
「百姓」の語には「農民」の意味は全く含まれていないし、圧倒的人口の「百姓」の中の恐らく40-50%は非水田的・非農業的生業を営んでいた。
b.      地理的視点からも、日本列島の住民にとって水田・農耕が圧倒的な生業とはなり得ない
農耕(特に水田)には平野が適しているが、日本列島の地形は山と海が多く、それらを生活の糧とした生業を営んでいた人々が「農民」以外の「百姓」に含まれる。
c.       交易や交流の手段として、河海が重要な役割を果たしてきた
1)   遠古の縄文時代から列島を越えた広域において活発であった。
     列島内に存在した社会的分業集団同士の交易
(a)      平地民:農業・養蚕
(b)      海民:漁労・製塩・交易・船運
(c)      山民:果実採取・狩猟・木器生産・鉱石採取
     水稲耕作技術の伝播
(a)      列島外からの伝播
(b)      列島内における伝播
     朝鮮半島、中国大陸との人の流入
2)   三世紀以降、交易・交流が恒常化していた
     列島内及び朝鮮半島、中国大陸とも恒常化した。
     市の開催→「国々に市あり」という(史書)の記述
     牛馬の飼育は列島外から移入され、牧や空閑地(野・河原・中州・島)で行われていた(だが、遊牧ではない)。
3)   列島内諸地域の個性が形成された
その後、太平洋、日本海、東シナ海の交通が安定し、列島外との交流を通じた、列島内の東西南北何れにおいても諸地域の個性が形成されてきた。
エ.    国家成立に向けた抗争の背景に、交易・交流という非農業的要素の強い社会が存在した
a.      列島内諸地域に発生した個性豊かな地域社会の内で、列島西部の諸地域(北九州、瀬戸内海、山陰、近畿、北陸など)で国家形成に向けた抗争が起こった。
b.      その抗争は、朝鮮半島の諸勢力と関係しながら展開する。この展開を理解するには、交易・交流という非農業的要素の強い社会背景の存在を認識せねばならない。
c.       その抗争において優位に立った政治勢力は、水田耕作、米の文化大系に重要な比重を置く個性を持っていた。
d.      やがて、大和地区を中心とする近畿に基礎を持つ首長たちにより、中国の隋唐帝国の制度が受容され、組織的な国家の確立へ進むとともに、それが列島に広く押し及ぼされる。

三 国家と社会
ア.    七世紀末に律令国家が誕生した
a.      この国家の特徴
1)   対外的な国号を「日本」とし、「天皇」を王の呼称とした
2)   勢力範囲は、はじめは畿内を主な基盤とし、七世紀末頃には「東国」=現在の中部、関東、を支配下に置き、八世紀から九世紀初頭にかけて東北、南九州を侵略・征服し、この時点で本州、四国、九州を支配下に置いた
3)   (稲作)水田を租税制度の基礎としていた(班田収授法)
     他の地域に出現した稲作地帯(東南アジア、中国大陸南部等)においては見られない制度らしい
     背景には、儒教思想のイデオロギーとしての「農本主義」があった
稲・米に、日常の食料以上の「聖なる穀物」という性格を持たせた
(a)      食料としての価値
(b)      神饌・租税としての価値
(c)      出挙・交易としての価値
     「農本主義」はこの国家により強力に推し進められた
(a)      現実の社会は米以外の物資にも重要な経済的価値があった
(i)      調庸制
(ii)     贄貢進(令制外だが国制)
(b)      だから、この国家は「百姓」を「農民」と見なそうとした(その中に、事実よりもイデオロギーによって統治しようとする意図が見える?)
4)   海を国境と認識していた
七世紀前半頃の唐・新羅戦争に敗れたのち、朝鮮海峡など西の海を国境と認識し、警備を固めた。
5)   古代帝国を志向していた
交通制度の基本を、(恣意的に、)古代帝国に共通する軍事的意味を持つ「陸上の大道」とした。(恣意的であると判断される根拠は)地理的な根拠や社会的内実から判断すれば、海川交通を制度の基本となるから。
6)   その他の制度
     戸籍制度:家父長制原理
     行政制度:漢字を公的文字とする文書主義
     地方制度:国・郡単位
     軍事制度:百姓―公民の兵士
b.      この律令国家の崩壊
1)   制度の崩壊
     全く未熟な水田稲作、家父長制ではない家族状態、など実態と違う状態で導入された班田収授法、兵制、戸籍制は導入された後まもなくその実を失う。
     交通制度も陸の大道は八世紀には荒廃し、海上交通が復活して十世紀には主軸となる。
2)   国境の概念の変化
海上交通が盛んになったため、海を国境とする国家志向が著しく減退し、それに代って外国との交通路としての役割が再現した。ために、海は国家の枠を超えた諸地域の交流の舞台として独自な世界へとなっていった。
イ.    十世紀には「河海の時代」ともいうべき時期に入り、十三世紀後半の大転換期へと繋がる。
a.      行政の実態の変質
国・郡・郷の運営が郡司、郷司、荘司、名主等の(地方勢力による)請負に変質を可能にしたのは、租税の納入に必要な物流ネットワークが存在していたから
1)   租税の賦課基準は依然田地であっても形式化した。
2)   租税の納入は手形機能を担った「徴税令書」の流通が前提となっており、この流通は、商業、金融、河海水運のネットワークに依存していた
b.      京都をはじめ、全国の政治都市の変様
全国の政治都市は、(大道による古代軍事帝国国家建設という)律令国家の目論みとは別の実態に変様していった。
1)   平安京は未完成のまま政治都市としての機能の実を失い、津・泊と呼ばれる周辺の要衝都市に支えられる存在となった
2)   大宰府は、中国大陸との交流と不可分の関係を持つ博多等との関係を保つことで維持された
3)   平泉も北上川から太平洋への河海交通と不可分の関係にある水辺の都市であった。
4)   鎌倉も、三方山に囲まれた要害の地にくわえ、前面の海と六浦を通じた水の都としての側面も備えていた。
c.       列島を東西につなぐ河川の交通路も想定される(この想定は物理的みて妥当)
日本海、太平洋、及びそれらに注ぐ河川による交通路は、部分的な陸路や琵琶湖などの湖で補足されて東西の交通路を担った部分を含んでいると想定される。
1)   平泉で見出された能登の珠洲焼き
2)   鎌倉初期に、武蔵国比企郡の比企氏が北陸道諸国の守護と上野・信濃の守護でもあった。
3)   木曾義仲は東山道を使わず北陸へ出て西上したこと。
4)   上野の新田義貞は北陸に深い関心を持っていたこと。
5)   後の戦国大名である、武田氏、上杉氏の動向の理解(何を示しているのかここでは言及していない)
d.      多様な非水田・非農業的な生業が成立し、河海流通網と市場(市庭)を介在した商業・金融が行われていた。その主役は、百姓(という身分で統治者から呼ばれていた人々)であった。こうした職能を担った人々は他にもいたが氷山の一角であった。
1)   荘園・公領の百姓の負担する年貢の中身は、米だけではなく、他のもの(絹、綿、糸、布、油、紙、(むしろ)、塩、鉄、金、(くれ)、馬、牛など)が多数を占めていた。
2)   百姓の職能は、漁労・製塩・海運・商業・金融・狭義の芸能まで幅広い分野に及んでいた。
3)   こうした職能を担った他の人々とは、神人・寄人・供御人という称号を持った人々で、社会の未開な一面を背景に、神仏と結びついていた。
4)   活発な市場(市庭)で交易・商業・金融が営まれ、手形の原初形態も姿を表していた。
e.      以上の事実は、中世日本の社会構造、支配のあり方、国家の性格についての通説に再考を迫る。
1)   通説とは、中世社会に関する以下の要素を全て含む説。
     十二、三世紀以降の社会を、農村を基盤とする封建社会と見る。
     上記の農民を農奴・隷農として位置づける。
     上記の農民を支配する封建領主制を想定する。
     上記封建領主とは、幕府、荘園・公領、在地領主。
     幕府を封建的な特質をもつ中世国家と考える(その成立を(鎌倉幕府ではなく)十六世紀とする説もある)。
2)   上記通説を再考する根拠、再考する点
     荘園・公領の支配者や在地領主は、農場経営者だけではなく広く商業・手工業・交通センターの経営者であるという視点。
(a)      小早川氏の安芸国沼田荘に対する支配が漁労、商業、海賊、各種職人に及んでいたこと。
(b)      北条氏所領の研究で、その所領は河海の要衝に存在したこと。
(c)      鎌倉期の西園寺家の研究で、その所領は、院の厩をおさえて牧を支配していることを考慮した配置であること。
     (荘園・公領に)工村、山村的側面が存在するという視点
(a)      備中新見荘における百姓の職種が、製鉄・製紙・漆器や蝋の生産・狩猟・焼畑など多岐にわたること。
(b)      遅くとも十四世紀初頭までに、川の中州に設定された地頭方市庭として「保(ほう)」が都市の行政単位として存在した事。
     「職人」的職能民の広域的ネットワークの存在や神仏の権威を借りた信用経済を支えたという視点。
     将軍と天皇を別の王権と見る視点
(a)      鎌倉期には、東日本が将軍で西日本が天皇という二重王権が存在したという説
(b)      上記将軍による幕府権力構造の解析(将軍と執権の二次元的権力構造など)
(c)      天皇を頂点とする王朝における官司請負制(官司の世襲請負)説
     幕府の封建制再検討
西洋封建制との類比は有効だが、河海交通を基盤とする日本と(そうではない西洋とは)彼我の社会的基礎が相違しているから。
     王朝を封建制と見る以外の見方もある
(a)      神人・寄人・供御人のような人の力を超えた聖なるもの隷属民(神仏、天皇の直属民)はインカやアステカ文明と比較する事が出来る(封建制の概念だけでは捉えられない)
(b)      「職」の請負はビザンツ帝国などの非西欧的な社会との比較が有効といわれている(封建制の概念だけでは捉えられない)
     そうなると、封建制自体が問い直される必要が出てくる
従来の「奴隷制」と「封建制」くらいしかない枠組みでは日本の中世社会の実態は捉える事は出来ない。

四 民族史的・文明史的転換―――その光と影
ア.    十三世紀後半から十四世紀にかけて、列島の社会は全体として大きな転換期に入った。
a.      貨幣経済の段階に入った
1)   中国大陸から膨大な銅銭の流入、また、米も貨幣の機能を持った。
2)   為替手形を可能にする信用経済も形成されつつあった。
b.      仮名交じり文字が百姓の上層まで浸透した
1)   貨幣経済を可能にした条件の一つ
2)   それにともない、荘園・公領の請負・経営法が変わった
3)   それにともない、神仏の権威を低下させ、政治的激動を誘発した
c.       十三世紀の幕府・王朝は、彼らの公権力をこえて経済ネットワークを自立的に支配する人々を抑圧した。
1)   海民や山民を「悪党、海賊」と捉えた
2)   抑圧側推進の安達泰盛の霜月騒動による敗死後、農本主義が後退した
3)   交易・流通ネットワークとの関係を推進してきた北条氏が勢力を強めた。
d.      北条氏が列島の流通・交通に支配力を持った。
1)   十三世紀後半までに、列島の東西南北の地理的境界を押さえていた
     安藤氏を蝦夷管領(東北の境界)
     千竃氏を喜界島・奄美大島・等、薩摩河辺部の地頭代に(西南の境界)
     千竃氏一門を佐渡(北の境界)、土佐(南の境界)の守護に
2)   「唐船」の大陸への発遣の独占
3)   モンゴル襲来を契機に、王朝の交通路支配権の簒奪と九州統治権の掌握
e.      北条氏支配への反発と北条氏の滅亡(鎌倉幕府滅亡)
1)   海上交易勢力の反発
     十三世紀後半から十四世紀にかけての「蝦夷」・悪党の反乱
     十四世紀初頭の西国・熊野浦の海賊大蜂起
2)   これらの反発勢力を一旦は組織化した後醍醐天皇の反乱の中、滅亡へ
イ.    南北朝の動乱期を経て民族的転換、文明史的転換が起こり、更に十六世紀から十七世紀へかけての近世への移り変わる準備の時期にいたる。その間、経済活動が活発になるとともに、異界との交流の場であり境界である海を介して「日本国」意識が浸透し、自治的な村町制が始まり、神仏からの束縛が弱まり、権力が地方に分散して戦国大名が発生して統合された。
a.      後醍醐天皇の一時的(三年足らず)「日本国」支配から室町幕府へ
1)   後醍醐天皇の政府は、商業・金融に依存し、交通・流通支配を意図しており、「農本主義」は見られない。
2)   室町幕府も、尊氏・直義時代には「農本主義」路線の色合いはみえるが、十四世紀半ば以降、「農本主義」の法令は現存していない
b.      南北朝の動乱後(十四世紀末~)には、列島を統治する中心勢力はなくなり、地方権力を生み出す方向へ進み始めた
1)   十五世紀に入り、沖縄諸島、東南アジア交易を背景にした「港市国家」琉球王国の成立
2)   同時期、北東アジアとのかかわりの中で、北海道南部・東北北部の「日本(ひのもと)」に、「日本(ひのもと)大将軍」「夷(えぞ)千島王」を自称する人の出現
c.       商人・廻船人たちは列島全域にわたるネットワーク強化
1)   特に、九州・中国地方の海上勢力は朝鮮半島・中国大陸南部の海上勢力と緊密に結びつき、海民の世界「倭寇世界」を作り出していた。
2)   十六世紀には、海民の世界にはヨーロッパ人も進出し、列島の人の流れは東南アジアから南アメリカまで及んだ
3)   列島産の銀は世界各地に広くもたらされた
d.      十四、五世紀は列島社会史の中での「民族史的転換」の時期といえる
1)   恒常的に安定した広域的な交通、貨幣・商品の流通は、「日本国」の東西南北の境界を一層明確に意識させてきた→「日本国」意識が社会に浸透した
     東は日下(ひのもと)
     西は鎮西
     南は熊野の道
     北は佐渡嶋
2)   アイヌ民族の形成の動き
3)   琉球王国の成立
e.      十四、五世紀に荘園公領制に代って「村町制」が形成されて来た。
1)   河海交通の要所に多数の都市が形成され、同時に安定し成熟してきた村落とともに自治的運営がなされた。
     海上交通、貨幣流通、商業の発展
     九州に実在した「唐人町」(東アジア国際都市)を含む場合もあった
     識字・計数能力の発展
     農業、漁業、手工業等の基盤が安定してきた
2)   十四世紀までの商業・金融と深く結びついていた神仏の権威が低落し、「文明史的転換」が起こった。(集権的統治や慣習の束縛が弱まる一方経済は盛んになって社会変化の速度が速くなった)
f.       上記文明史的転換は、その光とともに影も伴っていた
1)   「穢」に対する畏怖が薄れるとともに、忌避の対象になりはじめた
     十五世紀以降、神仏に直属していた「職人」的職農民の中で、「穢」のキヨメに携わる人々への賎視が始まった。
     女性の「性」は、人の力を超えて神仏に繋がる「穢」と類似観念として意識されてきたので、「穢れに対する畏怖が忌避に変わる」ことによる社会変化を生み出した
(a)      女性の商工業・金融分野での活動は八世紀から認められ、十五世紀に至るもこの点は変わらなかった。(租税が農本主義に基づいており、且つ負担が男性であったため、形式的社会意識の変化には現れてこなかった?)
(b)      朝廷・幕府の機関に統括される女性職能集団である、遊女、傀儡女、白拍子の社会的地位の低落
(c)      全般的社会的地位の低下、公的世界からの排除の傾向が生じてくるが、その原因の一つ
2)   呪術的な職能民が社会の影に押し込まれていった
     博奕打。かれらは、神意を占う職農民として朝廷機関に統括されるとともに、「悪党・海賊」のネットワークとも結びついていた。
     芸能民。遍歴・漂泊する彼らは、特に「村町制」確立後に差別を受けるようになった
g.      神仏の権威が低落したことに基づく賎視と抑圧は、すべてに亙ったのではなく、また直ちに固定化されたわけでもない
1)   僧侶の「仏物(ぶつもつ)(仏法僧の三宝のうちの仏のもの)運用による商業・金融活動(十一世紀以降の延暦寺「悪僧」は特に顕著)
2)   十三世紀以降、熊野の山伏による活発な経済的活動
3)   十三世紀以降、「無縁」の僧(上人・聖)が「勧進」を通じて資本を集めて土木・建築事業遂行
4)   十三世紀後半以降、禅律僧による組織的な勧進と土木・建築事業及び大陸貿易事業(唐船の運営)(これについては異論がある。村井先生の「唐船」中国貿易商人運営説)
5)   十四、五世紀に著しく目立ってきた、百姓の中で僧位を持つ僧侶や阿弥号をもつ僧形の人々による荘園・公領の請負・経営
h.      宗教勢力は、従来考えられてきたよりも都市の人々に支えられていた
1)   時宗は津・泊・宿に拠点を持っていた
2)   浄土真宗・法華宗も都市に進出していた
3)   日蓮宗は商工業者の宗教であった
4)   一向宗の人々が起こした一向一揆は、その拠点が都市であったことなどから、従来考えられていたような国人・農民の一揆以外の、都市民に支持されていた側面を持っていた。
5)   十六世紀において巨大勢力となった本願寺、一向一揆も、十六世紀から十七世紀にかけてのキリスト教も、非農業的・都市的な人々に支えられたものであった。
i.       戦国大名の地域権力は、軍事力強化のために「農本主義」に傾斜しつつあった
1)   鉱工業の発展にも注力した
2)   商業、河海交通路を掌握しようとしていた
3)   従って、対立することになる宗教勢力とも共存を図っていた
ウ.    十六世紀から十七世紀にかけての織豊政権・江戸幕府は「農本主義」を建前とする近世国家を確立した。しかし、この国家は「農民の余剰労働を搾取し」「自給自足の農村」を基盤とするものではなく、都市的な経済社会の性質を色濃く持っていた。
a.      地方の戦国大名たちの「小国家」は統一された
b.      本願寺、一向一揆勢力は都市・商業に強い影響力を持っていたがために徹底的に抑圧され敗退した
c.       キリスト教は「環支那海交易圏」に大きな影響を持っていたために徹底的に抑圧され敗退した
d.      米を租税とする石高制が確立するとともに海上勢力の弾圧を通して海禁政策を貫徹した
e.      琉球は自立を保ち、北海道南部「松前殿」は十七世紀初めに日本国に組み入れられたが、アイヌは「民族」としての生命を保っていた。
f.       近世国家は、中世社会の現実の上に成立が可能になったものである
1)   社会の中に広く生活していた商工業者をすべて都市に集め人民の武装解除をおこなったなどという俗説は「権力中心史観」にすぎない。
2)   中世の都市を「村」として、城下の「町」と区分し、武士と百姓、町人と百姓の身分を制度化したが、この百姓は農民だけではなかった。
     水呑・頭振・間男など多様な呼称を持つ「無高民」は、従来は、貧農・小作人とだけ判断されていたが、それは間違い。
(a)      「無高民」の中には豊かな商人・廻船人・職人が含まれていた
(b)      豊かな「無高民」は土地から農作物の富を得る必要はなかった
     従来、近世の「下人」は奴隷・農奴だけと捉えられて来たが、それは間違いで、中には北前船の船頭をはじめとして多様な(豊かで自由な)職能民が含まれていた(例えば奥能登の時国家)。

五 今後の課題
ア.    明治国家は、十九世紀後半に、前近代国家との内戦を通じて確立された。
a.      天皇を改めて君主とした
b.      古代「律令国家」のイデオロギーを復活させた
c.       琉球王国を併合し、アイヌ民族を「日本人化」し、海を国境として国土を確定した
d.      近代的な国制を定め、「殖産興業」が推進されたが、「農本主義」的なイデオロギーも継承された(士農工商の四民平等思想で作ったと言いたかった明治政府の壬申戸籍で、江戸の人別帳から百姓を誤って農民と転記してしまい、以降百姓は農民である、という勘違いが政治的に利用され続けたのだろう)
e.      戸籍制度に基づく徴兵制を採り、「帝国」として道を歩み、周辺の諸民族に対しては著しく侵略的・抑圧的であった
イ.    現代は未曾有の転換期にある
a.      高度成長期を画期として殆ど「異文化」といってよいほどの断絶が生じている
b.      広く世界から要求されている「日本人としての正確な自己認識」を持つことが更に困難な状況にある

c.       今こそ、虚偽意識に囚われず、歴史の現実の中から生産的な新しい理論の想像を模索すべきである。


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