岩波講座 日本通史04巻 (古代3)
通史(八世紀の日本-律令国家)
吉田 孝
はじめに
671
年冬、天智天皇は死の床にあった。その頃、朝鮮半島では唐の支配体制が、新羅や高麗の反乱などで危機を迎えていた。天智の生涯は東アジア動乱の渦中であり、乙巳の変から始まる国政改革は、この動乱の中で生き延びるための懸命な模索であった。
ピース |
天智天皇の治世には、実弟である大海人皇子が皇位継承者とみなされていたらしいが、天智は実子の大友皇子に皇子を継がせたいと願い始めていた。病床にて天智は大海人皇子に後事を託し、大海人皇子も大友皇子の継承と自分の出家を約して吉野へ去った。
大海人皇子が吉野に去って間もなく、唐は事前連絡後に2000人の軍を倭に送った。その目的を語る史料は残されていないが、白村江の捕虜変換と引き換えに、朝鮮半島における動乱に対する倭の軍事援助要請と推定される。倭は不安定な皇位継承のタイミングにあったので内政を固める事に手一杯で外交対応は出来ず、直後の12月に天智が死亡した。同月吉野の大海人皇子には、朝廷が大君の陵作成のためと称して、人夫の徴発を命じて武器を持たせているとの情報が入ってきた。
一、「革命」の時代
1、壬申の乱
天智の死後、吉野に居た大海人皇子は、(恐らく自らの国家統治の意思を基底に持ち)国際情勢と近江朝廷の動向情報判断から、直ちに行動を起こした。これが壬申の乱である(672年)。その結果、大海人皇子は大友皇子に勝利し律令国家を実質的に仕上げる天皇となった。この乱における主な勝因は、西国軍の動因に失敗した近江朝廷に対して、大海人皇子は東国軍の動因に成功したからと言われている。西国軍の動因が失敗した一因は、西国軍を構成する豪族が白村江の戦いにおいて動員されて疲弊していたことにあると推定される(更なる解説は次の段落参照)。戦いの期間はほぼ一ヶ月。(規模については明示されていないが、双方合わせても数千人か?)
2、壬申の乱の歴史的位置
戦いの性質は、それまで繰り返されてきた皇位継承戦争であったが、大海人皇子の意識は朝廷を滅ぼすという意味では「革命」であったと推定される。
戦勝の背景には、王権と豪族との力関係があった。西国には伝統的な大豪族と乙巳の変以来の統治組織があった(それが大友皇子の勝因には繋がらず逆に敗因となったのかもしれない)。中央集権化に対して豪族達は当然抵抗する。670年の庚午年籍は、豪族の危機感と近江朝廷に対する不満を募らせ、それが東国豪族の大海人皇子への迅速な加担に繋がった。集団の人口明細を他の権力者に知られる事の抵抗は未開社会にあるほど大きいと推定されている(自らの生命の保証は所属する集団による他は無く、この集団とは当時は豪族であり国家ではない)。近江朝廷の政治形態は、若い大友皇子を西国である畿内の大豪族が支えるものであったが、豪族同士の連絡は希薄であった。その中で大海人皇子に加担したのは大伴氏だけであった(大豪族の合議の必要性が迅速性を阻害したのだろうか、それとも大豪族であるがゆえの別の理由があったのだろうか)。
大海人皇子の勝利は、大豪族の力をそぎ、合議体制から独裁体制へ移行することで独裁的な権力をもたらした。その結果、国政改革の中心で、中大兄とそのブレインが乙巳の変でも遂げられなかった「部」制度から古代官僚制への移行が本格的に開始された。
壬申の乱は、日本の国政や文化の特質にも大きな影響を与えた。中大兄には隋・唐時代の数十年にわたり彼の地に滞在したブレイン(南淵請安、僧旻、高向玄理など)が居たが大海人皇子の身辺にはそのような人々は見当たらない。そのことが、朝廷の独裁権と相俟って、天武・持統朝の理想主義路線の背景に存在したと推定される。
3、天武朝の政治
673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。その治世の十数年間、大臣を置かず、皇族以外の豪族が国政の中枢に参加した形跡は見られない。実施された政治内容の概略は以下のようなものである。
軍事力の把握。権力維持の至近・最重要課題は軍事力の整備であると認識していた天武は、軍の短期間での掌握(人事など)と恒常的な体制の構築(官人の軍事教育・武器の備え、地方部隊の単独行動防止策、七道の制=全国の地方区分制など)を実施した。
官僚制の整備。(天智以来の継続事業で、王権の統一の根幹である民衆の王権への直接従属体制の整備の一つであり)統治権力の発動機関である官僚制の内実が整備された。官人は豪族を登用し、その登用や勤務評定や昇進や給与の制度が整備された。その過程で、ウヂに属する部曲を廃止して官人個人に支給する食封に切り替えていった。官人の出身母胎である「氏」の制度化とランク付け、上級官人を出す資格の「氏」への「カバネ」の付与など官人のヒエラルヒー化が進められた(684年「八色の姓」制→真人・朝臣・宿禰・忌寸、685年「四八の位階制」)。天皇と皇后のみが位階の秩序を超越した。
天皇制の確立。天皇の地位を支えるために必要であった祭祀や儀礼(神宮、神社、神々)もこの時代で整えられた。天照大神を祭った伊勢神宮は特別な地位を得て斎宮(伊勢神宮に奉仕した皇女、女王のこと)が復活された。20年ごとに神宮を建て替える制度である「弐年遷宮の制」、天皇が皇祖神とともに初穂を食す「新嘗祭」(即位の年は「大嘗祭」という)が整備された。全国の主な神社に、朝廷から幣帛(神に奉献するもの一般のこと)を与えて全国の神々を包摂する体制も築かれた。
仏教の取り入れ。仏教を護国仏教として位置づけ、大安寺の造営、諸国に護国(思想を重視した)経典例えば金光明経や仁王経を講読させた。(王権の正統性を示すため)681年に皇子等に「帝記」と「上古諸事」作成を命じるとともに、別途稗田阿礼を助手にして自ら「帝記」と「旧辞」の検討を始めた。
4、浄御原令と藤原京
天武は681年に律令の制定を命じたが自分の時代には完成しなかった。686年、天武が死亡し、殯宮の儀礼(亡き人の魂を鎮める儀礼)が二年二ヶ月にわたり行われた。この儀礼内容には、日本の固有信仰とか原始神道などにも含まれている民間道教思想の要素が含まれていた。天皇を「現人神」とする思想は、この民間道教と深いかかわりがある。この儀礼は皇位継承と密接に関係していた(この意味も具体例も提示されていない)。殯宮の儀礼が開始されて間もなく、皇子の一人である大津皇子が皇后に捕らえられ自殺する。継承予定者であった草壁皇子が七歳の軽皇子を残して急死した。天皇制が未確立であったので天武の皇后が翌年即位する(持統天皇、690年)(皇位継承制度が確立していなかったからか、個人的に統治能力が無い天皇が即位する事は出来なかったから?)。
689年に、皇后(後の持統天皇)が天武の継続事業として「飛鳥浄御原令(令一部二十二巻)」を諸司に頒布した。日本初の体系的法典で、後の大宝令(701年)に大枠引き継がれている。これにより古代官僚制の基礎が確立した。律の部分は未完で、唐律を利用していたらしい。
租税や徴兵を目的とした管理制度も整備されてきた。690年に行われた「庚寅年籍(戸籍制度)」は、「国-評-里-戸」制、「50戸一里制」、「六年一造」制等の始まりとなった。ここで、「戸」は一戸から一人の兵士を徴発することを基準にした区分で、丁(成年男子)を平均四人含むように編成されたものだが、(手本とした)中国とは異なり、現実に存在した「家」が基準となっていたのではなかった。これは、軍事力を要にすえた天武朝の注目すべき特徴である。692年、一定の基準に則った班田の収受が初めて全国的に行われたが、(手本とした)中国とは異なり、割り当てられた土地の面積は実際に収受可能な理想的な量であった。694年に藤原京へ遷都した。この都は長安より古い時代の城や古典『周礼』に記述される理想的な城に近い(これらの諸施策は天武朝の理想主義、逆に言うと非現実主義を表しており、実際に100年ほど後には崩壊している)。
5、ことば・文字・時間
天武朝初期には「やまとことば」を漢字表記するのが最も良い方法だった。人麻呂は、助詞や助動詞を文字化した表現方法を開発して、「やまと歌」を「新体歌」の方法で表現し、後の漢字仮名まじりの日本語表記法の基礎を作った。(古語の日本語に対する基礎知識が欠けているので、この説明の意味はよく理解していない)。
二、律令国家の成立
1、大宝律令の制定
持統天皇は約十年の治世の後、藤原不比等の支持の下に孫の軽皇子に皇位を譲り(697年、文武天皇)、自身は「太上天皇」として文武を後見した(王権の分散は未開社会に多く見られる)。律令の整備が持統の指導の下、天武の皇子刑部親王を総裁に、藤原不比等、粟田真人らにより進められ、701年に大宝律令として内外に示された。
大宝律令は以下のような性格を持っていた。①中央集権的国家の青写真、②中国支配層が1000年に亙って作り上げてきた統治技術の結晶である唐の律令制を手本にしたので、当時の日本社会にとっては消化できない内容を含んでいた、③同時代の東アジアにおいて類似の立場にあった新羅とは異なり、中国の冊封国ではない独立国であることを内外に示す効果を持っていた。このような性格を持った早熟国家がその後の日本の歴史に与えた影響は定かにされていない(つまり影響があったと考えられるのだが、具体的証拠に基づいた説明が出来ない?問題は意味ある説明とは何かという思想が欠けていることにあるのではないだろうか)。
2、「日本」の誕生
702年、遣唐使が派遣され(粟田真人が主席)、「日本」の名称を初めて名のり、それを中国に認めさせた。この漢字を採用した背景には、小さくても東海の帝国を目差し、仏教的世界観を持ち、小野妹子の遣隋使などに現れている中国との対等関係意識の歴史などと色々な要素を根拠にした、要するに中国における中華思想に対抗する独立国としてのイデオロギーの創出がある。
3、ヤマトと日本
粟田真人と同行した時の山上憶良の短歌で「日本」を「ヤマト」と訓が、何故だろうか。「ヤマト」は「倭」を「やまと」と表記していて、それは「邪馬台国」に遡り、畿内の大和と結びついており、律令国家の「日本」となったからだろう。(しかし、実際の発音は「ニッポン」だったのだろうか?)
4、律令国家の国際的環境
当時の他の中国周辺国家の状況と日本の比較がされている。①朝鮮半島は、国際関係の状況においては日本と類似の条件であった。②チベット地区の吐蕃については、その成立を促したのは隣接していた吐谷渾や強大な隋・唐との緊張関係であったところは日本と共通しているが、中国の律令も文字も仏教も少なかった。その理由は、中国以外の他文化との接触が常態であった地理的条件にある。③朝鮮諸国は漢字の使用、儒教・仏教の摂取などについては日本と似ているが、突厥と高麗の関係のように中国以外の遊牧民族との接触があったため、中国文明摂取の自由度が日本より強かった(この説明は抽象的で具体的内容は分からない)。
5、律令国家の構想
厳しい国際情勢の中で、新羅を従属させ唐と並立する帝国の形成が国家の構想であった。その重要な手本は唐の律令であり、独立国家を可能にした重要な要因は海に隔てられているという地理的条件であった(欧州でもそうなのだろうか、例えば英国の成立にはローマ法がなにより重要だったのだろうか、地中海は交易や文化交流や人の移動に関して日本海と異なった機能を果たしたのだろうか)。律令は日本風に改められているが、その要点は天皇制を宗教的側面から強化していることと、ヤマト王権時代の氏族制に律令制が加えられているところ(統治の二重構造)である。
大宝律令では、浄御原令で定められた位階制が改正されたが、それは旧来の「ウジ」(始祖との血縁関係に基づく信仰で結ばれた集団)の勢力が世代交代を契機に殺がれていくとともに、有能な一族の勃興を可能にする効果を持っていた。改正のポイントは次のようなものである。浄御原令では、冠位継承の資格は「ウジ」の集団であり、「ウジ」の長である氏上は傍系親を含めた一族から選定され、冠位の高低は「氏姓」の大小で与えられた(暴力以外には実質的にこれを変更するルールはなかったと推定される)。それに対して大宝令では、冠位継承の資格は条件付きでその官人の子だけである「蔭位制」が導入された。「蔭位制」とは、三位以上には子と孫に、五位以上には子に、高い官位(同じ冠位ではないだろう)を授けるもので、子の範囲に血縁のない養子を含め、嫡子の継承順位を庶子に優先させる父子継承制である。嫡子、養子の制度は後の「イエ」制度の原理ともなった。しかし、奈良時代の公的な「家」(「家」は三位以上、「家」に準じる五位以上は「宅」)は位階に基づくもので、それ自体が位階と無関係に社会的に継承されていく単位にはなっていなかった。
また、律令国家の推進は膨大な文書の作成を必要としたので文字の普及に重要な機会を与え、戸籍や租税の内実も制度や実行体制が充実してきた。
6、王権と藤原氏
大宝律令は神祇官と太政官とを並立させたが、これは神祇の重視による天皇制強化(天皇の権力強化)の側面と世俗権力が神々の呪縛から解放されることによる貴族層の権力の強化の側面を持った。藤原氏は、そのウヂ名は天智より中臣鎌足が賜ったものだが、大宝律令直前にその継承は藤原不比等とその子孫のみとなり中臣氏は祭祀を司る一族として復帰した。ここに律令貴族としての藤原氏が誕生した。その背景には、伝統社会との緊張関係を断ち切るという律令国家の理想に基づく動機が推定される(中国では儒教の礼が法・律令より上位である言う意識があるなど、律令は伝統社会の規範や理念と深い緊張関係を持っていた)。同時に不比等の進出は天智を否定する天武時代の革命意識を薄めさせた。後の奈良時代においても、律令国家としての日本を支えるイデオロギーを模索する過程は継続し、それは王権を支える根拠の弱さに繋がっていた。
持統を継承した孫の文武が早世し、文武の母が即位した(707年元明天皇)。この皇位の継承は天智が示していた不改常典(かはるましじきつねののり=「皇統・皇権の絶対性」の不文律、つまり皇位継承の決定は皇権に属すという考え)に則ったものであると同時に、この不文律は貴族層との協力を条件としていると説明された。即ち王権は貴族層と対抗しつつ役割を分担して朝廷と言う権力体を構成しなければならないものであったことを示している。
7、京・貨幣・歴史
元明即位の翌年(708年)に和同開珎の鋳造と平城京の建設が開始された。遷都は国家機構の拡大整備に対応するもので、(貨幣の鋳造は経済の拡大を狙ったものと推定されるが)、何れも内在的な要因は希薄であり、その動機は中国帝国に対抗するという政治的意図にあった。しかし、その結果は日本の社会に大きな影響を与えた。平城京も中国の都城を手本とするものであったが城壁が無く、このことは中国の正史にも特筆されている。その理由は軍団の目的にあった。即ち軍団は内乱から都城を守るためのものではなく対外戦争のためにあったからである(因みに、軍団は全国に均等に置かれて国司の指揮下にあって都城を守る機能は弱かった)(これは内乱が無かった事を意味しているが、中国や朝鮮半島、欧州とも異なるその理由はなんだろうか?)。
712年に『古事記』、713年に畿内と七道諸国に『風土記』の作成が命じられ、720年に『日本書紀』が完成した。古事記は天皇が大八州国を支配する由来を語っている内廷(皇室)の書物で、日本書紀は対外(中国)的な意識に基づいて書かれており、日本が朝鮮半島を従属させる帝国を形成した歴史に重点を置いて語られている。風土記が作成された時期は律令国家による国土大開発(道路、駅・伝などの交通施設、調庸制、条里制地割)が遂行されていく時期と重なっており、それら遂行のための調査の役割も担っていたと推定される。
8、律令制の展開
715年に元明は皇位を氷高内親王に譲り(元正天皇)、文武の嫡子で孫の首皇子を皇太子に立てた。この皇位継承の状況は、その継承を含めた王権の脆弱性と藤原氏の権勢の強さを伺わせる。つまり、①まだ50台半ばの元明が“疲れ果てた”と言明している②元明即位時に身辺警護組織が作られた③前年に元服した首皇子が即位しないのは、天武の皇子や孫などを含めて朝廷内で合意に至らない状況があった④氷高内親王は未婚⑤元明が元正に不改常典の法に従うよう念を押している⑥皇太子妃に不比等の娘(光明子)を立てた。因みに持統も元明も天智の娘で、持統は天武の妻で元明は天武の皇子の妻。首皇子の母と妻は何れも不比等の娘。
時を同じくして太政官の議政官が次々と没し、右大臣の不比等と中納言三名だけとなった機会を捉えて、不比等の息子四人が議政官に就任した。この四人は何れも三位以上となり、大宝律令に従って公的な「家」(南家、北家、式家、京家)を持つことになった。日本社会を長期にわたり規定した「ウジ」から「イエ」への大変動が始まったことになる。藤原家が権力を掌握したのは和銅~養老年間(708~724年)であった。
この和銅~養老年間に、律令制は各地の抵抗を引き起こしながら蝦夷(東北、越後)から隼人(九州、種子島)全国に拡大していった。隼人の人々の反乱では斬首・捕虜が1400余名にも及んだ戦いもあった。律令による支配を徹底するため、統治組織の改変の施策も実施された。例えば、人の移動規制(本貫=本籍地を離れた者に対する現住所と本籍地の両方からの調の徴収)や郷里制など。
9、新しい空間
広い直線道路と条里制により開発された田畑・水路と平城京は律令国家の新しい空間を出現させた。古代国家の象徴のひとつである道路は、平城京と地方の国府や郡家(郡の役所)を結んでいたが、地形からみると不自然なほど直線であった(これは実用より統治権力誇示の役割も担っていたことを伺わせる)。条里制は遠大な開墾計画を伴い実施され、沿道に沿って方各な風景を出現させていた。平城京は整然と区画された人工空間を生み出した。そこには宮城の朱雀門に続く90m幅で7.3kmの大路があり、重要な儀式の場でもあった。それは天皇とその一族を中心にして、政を執り行う貴族・官人、国家を鎮護する僧尼達の都市であったが、そこの住人は、それらの人に仕える人々、物資の運搬や市の従事者、各種役夫として徴発された人々、自ら賃労働を求めて集まった人々、彼らの相手をする遊女、等々、郷土の共同体から切り離された人々であった。五位以上の貴族は京内の邸宅と畿内の「ゐなか」にある庄に生活基盤を持っていたが、中下級官吏は家族と生活基盤を「ゐなか」に残した単身であり、平城京は畿内に浮かぶ島のような存在であった。
三、天平時代
1、行基の集団
律令制国家と平城京は仏教の布教と相俟って、既存の地縁・血縁集団とは異なる、個人を単位とする信仰集団を歴史上初めて出現させた。行基はそのような信仰団体を率いて交通や灌漑などの社会施設を建設した。それを可能にしたのは、仏教の教えと既存共同体から切り離された人々や在地の豪族(朝廷の権力機構の外に存在したと推定される)の支持であった。仏教の教えには二つの側面がある。一つは「鎮護国家」の思想でもう一つは「因果応報」の思想である。後者は輪廻転生の思想と関連していて、共同体の習俗ではなく個人の内面から個人の行為を人倫に向かわせる効果を持つことでそのような信仰集団を可能にしたが、既存社会の秩序維持という点では相異なる二つの側面、即ち、現世秩序の保守の側面と天皇の正統性に疑義を挟むという側面を持っていた。
2、光明立后への道
720年に不比等が没すると天武の皇子やその子等が朝廷の重要ポストに着いたが、一方では不比等の四子も順調に昇進する。721年に元明太上天皇が没すると戒厳体制下での不穏な動きが見られ、朝廷内での元正天皇の立場が更に弱体化する。724年に元正天皇が病弱な首皇子に譲位する(聖武天皇)が、即位の日には皇族系であり皇位継承資格と朝廷内権力の双方を強く保持していた長屋王が左大臣に昇進する。727年に聖武と光明子(不比等の娘)の間に皇子が生まれ、一ヵ月後に異例の皇太子に立てられるが翌年死亡する。続いて聖武と県犬養広刀自(藤原系でない夫人)の間に皇子が誕生して藤原氏は窮地に追い込まれる。729年長屋王が藤原系武力(天皇の親衛隊である衛府)に拘束され、妻、内親王、皇子らが殺され、自殺させられる。半年後に天平と改元され光明子が皇后に立てられた。皇族外の立皇后の説明は苦しい弁明であった(仁徳天皇の皇后が葛城氏であったという遥か昔の伝承がその根拠)。
尚この時代には、王権の正統性を納得させる方法として中国の祥瑞思想(天命による王権の正当性の証として亀などの瑞が出現するという思想)が良く用いられた。聖武天皇即位の時にも、天智の不文律「不改常典」と亀の出現が王位継承の理由に挙げられ、年号も神亀と変更された。
3、内外に高まる緊張
中国大陸では渤海と唐と新羅の国際関係が緊張しており日本もその渦中にいた。727年に渤海使が来日したが、この目的は敵対する唐及び新羅に対抗するための軍事援助であった可能性が高い。日本も遣渤海使を遣わし730年に帰国している。
平城京では治安が乱れ、また一万人にも及ぶ(平城京に本籍がある人数の10%程)宗教的集会が出現する(行基もそれを主催した一人であろう)。行基等の活動は弾圧されたが体制に取り込む一部の政策転換もなされた。
広義の支配者層間の分裂が深く進行していた様子が伺える。それは組織体の構成員を集めて意向を聞くという現象が見られるからである。例えば、730-731年にかけて欠員の出た議政官の推薦に、前後に例を見ないやりかたとして、主典以上の上級官人396人が参加したこと(議政官は既存の3人、新たに選ばれた者6人、三位以上の公家は30人程度と思われるなかで)など。藤原氏はこのときの推薦により四人兄弟全員議政官になったが、何れも主要な官庁の中枢の実力者であり、藤原氏は朝廷内の危機意識を巧みに利用したと判断される。
内外の緊張が高まり、732年遣新羅使帰国直後に東海・東山・山陰・西海に節度使(地方軍司令官)が置かれるなどの対応がなされるなか、同年に渤海と唐が戦争を開始し新羅は唐の命令で渤海に出兵した。新羅と日本との関係も735年の新羅使の件を端緒として急速に悪化する。
4、天然痘の大流行と反乱
735年夏以降に先ず大宰府で天然痘が流行し始め737年には平城京にも拡大する。病疫の被害は、同時起こった凶作と相俟って甚大な影響をもたらした。藤原の四兄弟も病没し、代わって鈴鹿王と橘諸兄が選出され、また顧問役として中国留学から帰国した僧玄肪と吉備真備が加わり、新政権が発足した。
大宰府の左遷されていた藤原広嗣が筑紫で反乱を起こし、鎮圧された。その戦闘の最中に聖武天皇が平城京からいろいろと外に移動するという奇妙な行動をとり、恭仁京(平城京の北東10km程)を造営する。その後も紫香楽宮造営が進められ、聖武の行幸は繰り返される。741年に恭仁京にて国分寺創建の詔がなされる。国分寺の造営は全国に長い時間をかけて行われるが、同時代に改築された国丁の立派な建物(礎石を持っているのが特徴)と相俟って、在地社会に大陸の新文明の普及と朝廷の権威向上に役立った。同時代の聖武天皇と光明子の子である阿部皇女は未婚の女性であるにも拘らず異例の皇太子に立てられていたが、貴族たちには容認されていなかったようである。
5、三宝の奴
743年に聖武天皇は大仏建立の詔を出し、東大寺で開眼供養が行われたのは752年であった。大仏建立は当時の日本について重要な歴史的意味を示している。その内容の概略は次のようなものである。天皇の権力が天皇個人の思想を国家的規模で実施する事を許すほど強大になっていた。仏教思想が、その天皇の思想は渡来の仏教思想であり、天皇の王権の正当性が神話や系譜から(に加えて)仏教や儒教の教えに基づくという考えをもたらした。天皇が東大寺に行幸し自ら三宝の奴と宣言したことは、そのことを象徴的に示していると解釈される(749年。尚、三宝とは本来は「仏、法、僧」のことだが、仏法又は仏の意味がある)。このときに聖武天皇は出家して内親王に譲位し、孝謙天皇の誕生となるが、当時は出家した天皇が政治を司ることがありえなかったことを示している。また、全国に渡って仏教思想に対する支持が広がっており、国内外の政治に影響力を持っていた。大仏開眼会の翌年冬、鑑真が日本に到着し、聖武天皇が鑑真から菩薩戒を受けた。
聖武天皇の時代における王権の継承と権力所在の状況は概略次のようなもののである。天皇と貴族で作る朝廷が統治機構だが、藤原氏が天皇の勅を奉じて諸司に施行する権限を手に入れるまで強力になっていた。王権継承のルールは未確定で、天武天皇の子孫と藤原勢力の力関係で決まっていた。
6、律令制の浸透
律令制も次第に浸透してきて、土地、人、地方組織のあり方に対する諸制度や実体物となってその姿を現した。それは、現実の実態に即した行動であり、中央権力の強化をもたらすものであった。
743年の墾田永年私財法は、主権を侵さない限度内で班田収受の対象から外れた「墾田」という地目の私権を認めたものだが、これにより全国の課税可能な土地が台帳として把握され、その開墾田管理権限を持つ国司の権力を増大させ、国司を介して近畿地方の中央権力が地方へと及ぶことになった。浮浪人の把握も、土地に縛る政策から、そのまま台帳に把握して実質の税を徴収する政策へと転換されていった。税は取れるものからとるという現実的な政策が選ばれた。
地方の国庁と国分寺は中央政権の権力が地方へ浸透するにおいての象徴および実体として機能した。諸制度と実体は相俟って、古代からの国造制を消滅させて律令制を浸透させていった。
7、個のめばえ
八世紀初めから中頃は、個人の意識の芽生えの時代であった。万葉集第四期(万葉集は、あらかた七世紀初め頃から八世紀半ばまでの130年間ほどの間に、天皇から庶民に至るまでにより作られた歌4500首からなる日本最古の歌集で、現在の形にまとめられたのは八世紀末と推定されている。歌風により四つの時期に分けられている)の歌は、その状況を伝えている。それは、集団の歌から個人歌へ、公的な歌から私的な歌へ、外向的な歌から内省的な歌へと移っていく。例えば、「イエ」から「ヤド」への歌語の変化に共同体と個人の関係の変化が想定される(「イエ」は家族という人間集団と個人の関係、換言すると公的関係を表現するのに対して、「ヤド」は自然と個人関係、換言すると私的関係を表現する)。理念的で早熟な、日本の律令国家は、大伴家持のような孤高な「個」を早熟的に生み出した。
仏教の教えも個人の意識の芽生えの原因の一つであった。輪廻転生思想に加えて地獄と浄土の思想は、個人の生前の行いが死後の個人の世界を安楽なものにするか恐ろしいものにするかの二者択一として規定するという意味を与えることにより、個人の意識を芽生えさせた。この個人は、旧来からのタタリ神、荒魂への畏怖と相俟って、後の社会に出現する、死後の政治的敗者の「怨霊」という観念を生み出す契機ともなった。
8、恵美押勝の「仁政」
756年、聖武太上天皇が没すると皇位継承紛争が起こるが、力関係で勝る藤原仲麻呂が橘の諸兄の子の奈良麻呂等が長屋王の子の黄文王などの皇族を担いだクーデターを制して政権を把握し、既に存在していた皇太子を廃し、自身で選定した舎人親王の子、大炊王を皇太子にさせる。その権力の強さは帝王(帝王という言葉が漠然と使用されている)の特権である鋳銭の特権取得や皇子以外の前例がない太政大臣の就任や正一位の位階取得などに示されている。758年に孝謙天皇が大炊王に譲位し(淳仁天皇)、仲麻呂は恵美押勝の名を賜る。押勝は「仁政」に努める他、蝦夷地区への勢力拡大、大陸での安禄山の乱の情報を察知して新羅征討を準備した。新羅征討計画は周到なもので、当時の日本が律令国家としての戦争動員能力を備えていたことを示している(大体唐帝国に遅れること100年位か)。押勝はいわば律令国家の正当な嫡子であり、同時にそのことは大和朝廷的旧体制を内包している王権の正統性を否定する要素を持っていた。即ちそれは、王権の根拠を世襲の氏族性ではなくて「仁政」に置くという思想であった。
9、尼天皇と法王
孝謙上皇は自分の病を治癒した看病禅師の道鏡を寵愛し、それを諌めた淳仁天皇、恵美押勝と対立したことをきっかけにして権力闘争が激化し、ついに戦闘に至って恵美義勝側が敗れ、斬首、淳仁天皇は幽閉される。このとき、双方が駅鈴と天皇御璽の争奪に注力したことは、当時の軍事動員システムも物語っている。
孝謙上皇は称徳天皇となったが、それは出家した天皇の出現という前例のないことであり、独身の女帝の後継者を巡って事件が続発する。その後道鏡は称徳天皇の庇護のもとに「太政大臣禅師」などとなり権力を掌握していくが、769年に宇佐八幡宮の宣託事件が勃発する。
10、神・仏・天・天皇
宇佐八幡宮宣託事件は、道鏡を皇位に即けるという宇佐八幡宮の神託が出たので、それを確認すべく称徳天皇が使者を遣わしたが、その回答は逆に「天つ日嗣は必ず皇緒をたてよ」という神の宣託であった、とういうもの。この事件は、天皇とは血縁のない禅師が皇位につくことを目指した点で特異な事件だが、これは、藤原の仲麻呂が一族を皇族に近づけようとしたこと、道鏡が仲麻呂を超えようとしていたことを考えると、歴史の流れの中で、ある種の蓋然性があったという指摘もある(王権の根拠を世襲の氏族性ではなくて「仁政」に置いた、律令国家の嫡子、恵美押勝の政策とも共通して、天皇の王権の正統性が揺らいだ歴史的意味を示しているとも推測される)。
八世紀における天皇の正当性は、氏族制的原理以外に、天智の「不改常典」や儒教天命思想の乱用である「祥瑞」によって支えられていた。しかし、「祥瑞」は「仁政」を施すものに天命が下るという思想なので、神話と系譜を根拠としている氏族制的な天皇の王権原理とは矛盾するところがある。仲麻呂は「仁政」によって天皇の中国的皇帝化を目指したのではないかと推測される。
この時代、仏教は大きい政治的権力を持った。それは聖武天皇の「三宝の奴」宣言に端的に現れているが、称徳天皇も出家して「仏弟子」と称して天皇位に付き、道鏡を師と仰ぐ。道鏡が皇位につくには血統による皇位継承の伝統(日嗣の法)を乗り越える必要があたったが、それを八幡宮の宣託に求めたものと解釈される(仏教には宣託の伝統がないが、仏教と神の関係についての当時の信仰がそれを可能にしたようだ。何れにしても、宗教を権力争奪の手段としたように見える)。
770年八月に称徳天皇が没すると、左大臣藤原永手が、称徳天皇の「遺宣」という名目で天智天皇の孫の白壁王を皇太子に立て、道鏡を下野国薬師寺に追放し、10月に白壁王が即位する(光仁天皇)。白壁王は聖武天皇の子、井上内親王が母であり既に他親王が生まれていたことが皇位継承の大きな理由であったと推定されている。しかし、一年後には井上内親王と他親王は幽閉後怪死をとげ、皇太子に山部親王が立てられる。藤原百川の謀略とされている(律令国家は皇位継承のルールを作ることは出来ず、王権は天皇であってもそれを造るのは別の実力者という構図であった。)。光仁天皇は、道鏡時代の特異な政治を修正して781年に皇位を山部親王に譲り(桓武天皇)、激動の時代から、日本の古典的国制が成立する時代へと展開する。
おわりに
日本の律令国家の形成は、当時の国際情勢、即ち大陸に出現した隋・唐帝国に対処する必要性がもたらしたもので、この点では他の周辺諸国と同じであるが、適度な距離を保持した海の存在は、日本国家の形成に独自性を生み出した。それは、交通の難易性がもたらしたその密度によるものであった。
現在の日本国の北と南には、ヤマト王権から律令国家に至る「やまと文化」とは異なる文化が並存していた。北方においては、北海道において7-8世紀頃に出現した擦文文化とオホーツク文化および12世紀頃にはオホーツク文化を吸収した擦文文化が発展したアイヌ文化がある。南方では、奄美大島から沖縄本島を経て宮古島、石垣島に至る島々が展開していた独自な文化が、12世紀頃に諸島の首長層であるアジが出現し、グスクを形成した政治社会である。
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