2015年7月3日金曜日

岩波講座 日本通史03巻(古代②七世紀の日本列島-古代国家の形成)通史 鎌田元一 

岩波講座 日本通史03巻 (古代2)
通史(七世紀の日本列島-古代国家の形成)
鎌田元一
はじめに
ホワイトクリスマス

七世紀は東アジアの激動期であった。中国大陸は隋(581-618)が統一した後に強大な唐(618-907)が成立し、それに関連しながら朝鮮半島は三国の抗争時代から、百済(346-660)、高句麗(BC37-668)が相ついで滅亡して新羅の統一(676-918)へと至った。滅亡した百済と親交があった倭王権は、この新羅と唐の連合軍に白村江において戦い敗れた(663)。このような戦乱の時期、各国は国内矛盾を解決しながら、それぞれの仕方で権力の集中を図らねばならなかった。推古朝から孝徳朝・天智期を経て天武・持統朝に至る一連の政治改革はそのような背景を持った紆余曲折の歩みであった。七世紀は倭国から日本国へと国家成立の飛躍を孕んだ世紀であった。
七世紀末に成立した日本の古代国家は、唐の律令制を国情に合わせて受け入れた律令国家であったが、その根幹を成す制度は公民制と官僚制であった。公民制は王権思想に基づいて人民の私的支配を否定したものだが、前代の部民制を基礎とした上で、それを克服して出現したものである。また、官僚制は部民所有者に対する政治的・経済的保証の必要性を背景に、彼等に位階と官職に応じた封録を与える事で可能となったもので、部民性と表裏一体となって進行したものである。
一、公民制の歴史的前提
1、部民制
律令公民制の前提にはその前の時代から存続していた部民制と屯倉制がある。部の本質は人間の人間による人格的な所有にあり、トモ制を基礎に成立してきた。トモ制は原始的な隷属関係であるから始原は古いが、五世紀代の雄略朝には全国的規模に拡大し、丁度その頃の渡来人たちもこの組織に組み入れられ、また百済の制度の影響もあり、六世紀にかけて宮廷の職務分掌組織の「部」として発展した。
「部」はこのように、人格的隷属関係で括られる人間集団という側面と、王権の下の組織という側面を持っており、大伴部、蘇我部などの曲部は前者を、臣・連・伴造・国造などの品部は後者を指す言葉であるが、実体は同じ集団である。諸豪族は大王への従属・奉仕を前提として「カキ(部曲)」の所有を認められ、それが「ベ(部)」として王権のもとに組織された。「べ=トモ」と「カキ」はこのように表裏一体の存在である。
2、屯倉制
部の制度が人に対する支配であるのに対し、屯倉制は土地支配がその本質である。屯倉は畿内に存した王権直属の田地であるミタ(御田、三田、屯田)を原型とするが、その本源は定かではないもののヤマト(大和)の倭王権に遡ると推定されるので相当古い。
ミタは田地・施設・耕作民の三者を一体とする経済体であり、その内の建物施設に注目すればミヤケ(御宅、三宅、三家、屯倉)とも呼ばれる。ミヤケは一般豪族のヤケに対する大王のヤケを意味する。ヤケとは物理的にも区画され、ヤ(屋)やクラ(倉)を含む農業系の拠点を意味する。ミタが屯田、ミヤケが屯倉に統一表記されたのは日本書紀で、同じ「屯」を用いているのは、ミタとミヤケを一体のものと観念していた事を示している。
六世紀には屯倉の設置が関東から九州まで広がり、王権の統治機構としての「屯倉制」が成立する。「屯倉制」は後のコホリ(評=朝鮮語)制の前提になっていると考えられる(著者の説)。「評(コホリ)」は律令郡制の「郡」に繋がる。ここで大事な事は、屯倉制の全国展開が、土地だけではなく人々の支配原理への基礎となることで諸豪族を媒介とする部民制による支配の限界を克服し、新たな国家支配への展望を開く重要な意義を持っていたということである。
二、公民制の形成
1、推古朝と王民思想
六世紀末に物部氏と蘇我氏が対立して587年に蘇我氏が物部氏を滅ぼし、592年にはその後擁立された大王崇峻が蘇我馬子の刺客に暗殺された。その時の有力な王位継承者候補は、厩戸王子(聖徳太子)と竹田王子であったが、王位継承争いを回避するために欽明の王女であった額田部(馬子の姪)が即位し推古朝が成立した(593年)。竹田王子は蘇我氏との血縁の無い推古の息子であり、厩戸は両親とも蘇我の出自でかつ馬子の娘との間に山背大兄以下の子があったが、何れも推古朝の時代に死亡した。推古朝の政治は皇太子厩戸と蘇我馬子との共同輔政で進められた。厩戸の立太子には異論もある。
六世紀を通じて各地の族長は国造りとして王権の下に組織されていくが、その過程で王権そのものが、他の身分からの超越化という形とりながら深化して行った。その身分を根源的に規定していたものは王権による姓(カバネ)の賜与を通じた良民・王民共同体(石母田)であった。姓を持つ階層が、良人という王権に対しては均質な身分集団を形成し、王族と賎は姓を持たなかった。賎が良人身分集団から排除されて行ったのと並行して、王権は超越的権威として良人共同体から分離していく(この記述だけでは、王権が超越的になっていた理由は不明。また賎が排除された事がそれに関係するような記述だが、その関係も不明)
蘇我氏の採った行動は王権の簒奪ではなく外戚を通して群臣の中での隔絶した地位の獲得を目差したものであったが、しかし、それは王権との実際上の矛盾を発生させた(蘇我氏や大王の態度は、前述の良民・王権共同体の考え方が浸透し王権が超越的なものになりつつあることを示していると考えてよいのか?)
(このように)部民制の体制確立を基礎として形成されてきた王民思想(良民・王民共同体の段階から、王権が超越的になった体制を支えた思想のこと?)は六世紀の歴史過程において成熟を遂げた。王民観念は王権の側のイデオロギーであり、部民制から公民制への前提の一つである。
2、蘇我本宗家の滅亡
628年に推古が没すると、蘇我氏の内紛が群臣を巻き込んで、蘇我蝦夷が押す田村王子と馬子の弟(境部臣摩理勢)が押す山背王兄の間で王位継承の争いが起こった。摩理勢が殺され田村王子が継承し舒明となった。蝦夷が舒明を押した理由は不明だが、この紛争は後に尾をひくことになった。
舒明が641年に没すると王位継承紛争をひとまず回避するために大后の宝王女が即位した(皇極)。しかし、蘇我系の古人王子の擁立を目論んでいた蘇我入鹿は643年に山背大兄を斑鳩の宮に襲い一族を滅ぼした(上宮王家滅亡事件)。これを契機に宮廷の反蘇我機運が高まっていくことにもなった。
入鹿がこのような挙に出た背景には、緊張した国際関係があった。それは唐の成立(618年)とその東方政策、それに源を発する朝鮮三国の存亡をかけた政変や戦争突入の予兆であり、また、遣隋使以来大陸に住在した使節団員(僧旻、高向玄理)や630年に開始された遣唐使がもたらした情報・思想・知識であった。上宮王家滅亡事件は、そのような国際情勢下において、早急な体制強化を必要とした倭国の採りうる対策として、入鹿なりの答えであった。
しかし、入鹿らの考えとは別に、王権の下に権力の集中を図ろうという中大兄や中臣鎌足を中心とする考えもあった。645年、中大兄と鎌足の周到な準備により蘇我入鹿は暗殺され蝦夷は自刃した(乙巳の変)。ここに蘇我本宗家は滅亡し、中大兄を中心とし、皇極の弟の孝徳を王位につけた新政権が誕生した(孝徳朝、中大兄は太子、鎌足は内臣、僧旻と高向玄理は国博士)。この時、皇極は中大兄に王位を譲ろうとしたが中大兄は鎌足の建議をいれて(内容・理由は説明なし)受けず、孝徳を奏した。孝徳は固辞して古人大兄に譲ろうとしたが古人は恐れて受けなかったため、果たせなかった。古人は出家するが後に謀反の嫌疑で殺された。
日本書紀によれば、乙巳の変以降、大化の五年間には「改新之詔」を核として一連の政治改革に関する詔が発せられ、後の飛鳥浄御原令、大宝律令により確立する律令国家体制の起点とされている(大化改新)。しかし、これに記録されている政治改革の内容については多くの点で疑問があり(改新之詔も内容が後に改竄されている)、実体の解明は今尚古代史の課題である。史実として実行が認められている重要な政策には、評(コホリ)制の施行、冠位の改定、難波遷都、中央官司機構の一定の整備、などがある。そのことは、この時期の最重要施策である部民制の廃止が実施されたと著者は判断している。
3、部の廃止
大化二年八月の詔によって「部」の全面廃止が宣言された。前年の八月には新政権発足後まもなく東国などに(恐らく全国の統治範囲に)使者が派遣され、人口、田畑、各地の支配関係、が調べられた。同時に兵庫の造営と武器の没収も使者たちの役目であった。「部」の廃止は、諸豪族の「カキ」としての「部」が否定され、王民思想を核とした王権への権力集中を目差したものであった。それがこの時点で現実に可能となったことは、(「部族民」ではない)「国家民」の観念が成立したことを示している。
4、天智・天武朝の公民化政策
以後、次第に公民化政策の内実が満たされていく。664年の「甲子の宣」、675年の部曲の廃止により国家による人民支配体制が確立し、後の律令公民制へと繋がっていく。同時に、王族や諸豪族の部民所有が律令制的食封制へと改編されていった。それらを可能にした背景には、672年の「壬申の乱」などを経た王権の強化安定があった。
三 国家機構の形成
1、中央官司機構
部民制を否定して官僚制国家機構が創出される過程の具体的経緯は不明点が多く、断片的な事実が知られているにすぎない。
権力執行の中枢については、孝徳朝の段階では有力氏族長会議(大夫合議体)とその上位で太子中大兄が実権を握っていた体のものであり、その制度化は、壬申の乱後の天武朝の太政官(納言)・大弁官の組織化にはじまり浄御原令をへて大宝令の太政官制に結実する。実務機構については、前代の部民制下の職務体制を引き継ぎ、孝徳朝においてもある程度整備が行われたらしい。
冠位制は官僚制度の根幹を成すものである。推古朝の冠位十二階(603年、推古11年)は647年の十三階冠位から649年に十九階の冠位制へとなり、この時点で施行対象がすべての氏と地域に拡大した。664年(天智三年)には実務整備に対応して二十六階の新冠位制となるが、太政官機能が未整備の状況ではその効果疑問であった。天武朝に整備された太政官・大弁官・六官の組織が初めての体系的な官僚機構の出現であった。
2、地方行政機構
(一)評(コオリ)制の施行
律令制下の公民は王民即ち良民であることに加えて、課役を負担する事が条件であり、その課役は籍簿によって五十戸一里制のもとに編戸された。この編戸の端緒は孝徳朝の「評制」の施行により切り開かれた。
「評制」は、部民制の廃止に伴い旧来の部民を新しい領域の下に一律支配する事を目的としたものであったが、その実体は、それまでの国造の支配地域をそのまま或は分割して王権の下に統治するものであった。それを可能とした条件は国造支配体制秩序の動揺にあった。その動揺の背景には、共同体内部における経営の進展が一族支配の結束の緩みを招いていたのではないかという推定がある(この説明だけでは良くわからない)。制度の施行は格別の抵抗を受けなかったが、その理由は上記の状況によりもたらされた在地豪族と王権の間での利害の一致があったことによる(この辺の説明も納得性に欠ける)
(二)里制・五十戸制
里制は唐の制度に倣ったものであるが、それ以前に評制の下で旧部民集団に源流を発する五十戸制の存在の上に成り立つものである。675年に部曲が廃止になると、各評の隅々にまで五十戸制が行き渡り、天武朝における公民制の確立の要素としての里制の前提となった。


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