岩波講座 日本通史02巻 (古代1)
通史(六世紀までの日本列島-倭国の成立)
鬼頭清明
1、生活の多様性
縄文時代には特定の形式の土器が各地域に分布している(多様性)。この多様性には生活様式の多様性が対応する。一方、北海道から沖縄まで、鉢形土器に縄文の文様という縄文土器の共通性が認められる(統合性)。
生活様式を具体的に規定するために、生活領域としては「集落」を、伝統を共有する集団の生活範囲としては「同一土器の分布範囲」を、地域の広域範囲としては「土器形式」を対応させる考えがある(土器の同一性と、土器の形式の同一性という二つの判定基準があるということだが、内容については理解できていない)。
水田農耕が始まった弥生時代になると、土器の形式の相違から、北海道と沖縄は広範な意味における地域の同一性から除かれる(統合性が崩れ、多様性が出現した)。つまり、縄文文化圏の統合性は水田農耕社会に比較して広かったと解釈できる。また、北海道と沖縄は以後独自の進呈をした。
2、生活の統合性
縄文時代の統合性は、交易、交通、交流によって発生した。縄文文化の伝播は西進し、九州には縄文中期に東日本の土器が出現する。
弥生文化は外来である。弥生時代は北海道、本州・四国・九州、沖縄に三つの文化が並存した(多様性)。北海道の擦文文化は金属器を伴い弥生の影響も受けている。沖縄は、11-12世紀以前は貝塚文化と一括されているが、中期までは縄文文化に含まれ、後期は水田耕作が定着したのかどうか不明で、つぎのグスク時代から三山時代を経て15世紀に王朝が成立する。
弥生時代の水田農耕は東進した。この時間的ずれは、土器の模様に地域性をもたらした一因である(多様性)。だが、水田農耕、方形周溝墓、櫛目文様土器、は統合性を示している。統合性の原因には、縄文時代には無かった政治的なものがあり(次章)、環濠集落が戦争状態の存在の証拠である可能性がある。六世紀以前の日本列島には、国民的統合も文化的統一も無かった。
3,東アジアの中の日本
東アジアの原始社会では、中国を先進地帯として各地域での不均等な発展が見られた。日本列島の人々の農耕社会と金属文明の進展は、極めて急速である事が特徴。
二、弥生時代の生活様式
1、農耕革命
弥生時代の生活様式の第一の特色は、食料獲得形態が獲得・採取から生産への変化した事にある。その食糧生産の中心的手段は水田農耕であった。食料獲得から食料生産へと生活様式が変化した事は、大地を自然に存在する獲得・採取の場から、人の労働により生産を行う手段に転化した事を意味する(つまり、人の意思により生存の限界を拡張できる事を意味する)。
水田農耕の技術は当初から高い水準にあった(外来技術の伝播で)が、その発展はめざましく、弥生中期には鉄の利用により社会の生産力は急上昇を遂げた。その結果、100年間で人口が倍増した。生産力向上は剰余生産物を生み出し、階級を発生させた。
生産力向上をもたらしたものは水田農耕であった。水田農耕は生産技術と労働力で規定され、労働力の集中には政治的権力が必要である。その他の採取経済も存在したが、生産の場が労働手段化されていないので水田農耕に比較して相対的に限界がある。
2、農業共同体の成立
弥生時代の人間集団のあり方を研究するための素材は集落跡と墳墓である。集落は農業労働過程での一つの単位であり、また血縁紐帯をもった小グループを最小単位とし、拠点集落(母村)と周辺の小規模な集落(子村)に分けられ、全体として丘陵地帯に位置し、3-4kmの範囲で纏まっていた。この構造は10-11世紀頃まで継続した。
10-11世紀以後の集落は平野部に移ったが、これは生活様式に変化が起こったと推定される。従って、この時期は弥生時代以降1000年ほど続いた時代の一つの画期であった。この1000年はマルクスの言うアジア的生産様式であった。
弥生時代の後に続く4-5世紀のいわゆる古墳時代は、生産活動や人間集団の変化・発展が起こり、朝鮮半島と関係を持ちながら政治的結合が進んだ。墳墓や集落跡のありかたから、初期の弥生時代には既に、生産様式の上部構造としての政治的発展の端緒が発生していた。
弥生時代の日本列島における勢力の拠点は、北九州と近畿だが、前者が先進地帯であった。北九州においては、弥生前期末ごろには朝鮮半島からの青銅器の流入が顕著になり、中期には墳丘墓が見られる(吉野ヶ里遺跡)。墓の形態(墳丘墓か否か)、墓の埋葬品の内容(青銅器の副葬の有無など)から、当時の社会に貧富の差だけではなく身分差による秩序関係が進展していたと推定される。
近畿地方にも北部九州と類似の身分秩序関係が進展していたと推定されているが、遺跡からの出土品に時代と内容において違いがあることから、生活様式は異なっていたと推定される。例えば道具などの使用材質の違い(鉄と銅や石)、埋葬品の違い(銅矛と銅鐸)、墓制の違い(甕棺・箱式石棺と方形周溝墓)など。この差は外来文化と在来文化の差という可能性もあるが、なんらかの民族的な相違(ここでいう民族的な差とはなにか不明瞭なので、ここでは民族が単に内外で区分されるのではないことを示していると判断しておこう)の可能性もある。
弥生時代に萌芽が見られる身分秩序社会は、古墳時代に至り階級社会へと質的変化を遂げる。それは、アジア的共同体からの王・首長等の支配階級の出現ともいえる。そのことは、リーダーの埋葬形態の相違や豪族の居館や倉庫群の位置などから判断される(弥生時代には、集団のリーダーの墓は集落の中の埋葬地域に墳墓として存在しているが、古墳時代には、集落の外に周囲を威圧する古墳として存在している。居館や倉庫群は次第に集落の内から外へと移っていく。即ち、外にあるということは、複数の集落を統治し、各集落の集団とは別に上位の階級を形成していることを意味する)。このことは律令制下の国衙や郡衙の倉庫群に連なるのかもしれない。
集落郡を単位とした政治的領域群は、生産のあり方等に規定されつつ更に広範囲な政治権に統一されて消滅するプロセスを辿った。その間の画期としては、弥生時代の墳墓から古墳時代の前方後円墳への転換期と、六世紀における在地の新支配層の出現である。後者は、前方後円墳が衰退して群単位規模の首長墓の形成と、いわゆる後期の群集墳の出現により推定される。
弥生時代の生産様式の上に形成された意識形態或は文化的諸相について考察する。縄文の基層に外来の弥生の表層が乗っているという捉え方は論証不能で意味が無い。事実は、外来の影響と縄文からの継承と当時の列島独自のものが三要素となって一つの意識形態を作っていたと捉えるべきである。その三つの要素を六つほど(生産技術、生活様式、生産用具、武器、威信財、宗教)の項目でより具体的に表現することができる。
威信財と宗教については区別が判然としないところがある。それは、弥生時代の政治が呪術と密接かつ相互依存的な関係にあったことを意味している(例えば大型の銅矛、は威信財とも呪術用具ともいえる。銅鐸は威信財だが、埋葬儀礼としてのあり方は呪術的要素を含んでいる)。
威信財や宗教的道具を人々がどのような意識で用いたのかを直接知る由もないが、鏡や銅鐸に書かれた絵や銅剣や銅戈(実用的とは思えない誇張された大きさの)などから、自然の能力、生死、悪霊などに関わる事に分類して想像する事は出来る。例えば、農耕や狩猟や祖霊に関する信仰、中国の俗信(道教、鬼道)や呪術など。しかし、それらは大系付けられてもいないし単一な宗教観念となっていたわけではなく、多様な場面で用いられた複数の観念の複合体と考えられる(そのように判断した根拠は示されていないが、体系付けられた単一の観念としての宗教があったならば、世界の他地域との類比で、かくかくしかじかの遺跡や古文書が残されているはずであるということなのだろう。つまり人類の精神的普遍性が存在することが仮定されている)。
三、政治的世界の成立
1、政治的支配の発生
日本列島における政治的支配を規定した歴史的条件は、金属器使用による生活様式の発生である。南関東以西においては水田稲作と金属器使用による西日本文化圏が形成されたが、関東以北は有角石斧文化圏という概念に象徴されるような、水田農耕は存在するものの金属器使用は受容されていない文化圏が存在した(なぜ、金属器文化を受容する地域と徐ようしない地域が出現したのか、それは単に技術が伝播したかどうかということだけではなく、集団が受容するか否かの選択をする社会的理由があるのであろうか?)。従って以下の話は西日本文化圏が対象になる。
金属器は武器と威信財の象徴(特に青銅器)であったが、その技術と材料はともに外来のものであった。だから、首長の政治支配、成長は、彼らの持つ列島外に対する外交能力、列島内の首長相互の外交(戦争を含む)能力に規定されたが、それらはまた、彼らが南関東以西と朝鮮半島の交通に関与出来ることが条件と前提になっていた。調停ではなく戦争による外交は、富の蓄積の差異だけではなく(貧乏な集団は裕福な集団から物資を奪い取りたくなる?)、このような交通のあり方の矛盾の表出とも捉えられる(金属器の入手ルート獲得競争のことか)。魏志倭人伝は二世紀の倭の大乱を記録している。
金属器使用文化の受容は、支配層の成長がもたらしたという側面以外に、社会の経済構造に起因する側面がある。それは、共同体が経済的拡大再生産の循環回路を維持する必要があったからである。単純に言えば、消費(祭器、武器など)に具する余剰生産物が必要であったから。余剰生産物増大のためには、単純再生産回路の効率化・拡大が必要であり、そのためには金属製農具、武器などが効果的であった(この説明だけでは、集団が金属器文明の需要可否を選択する根拠にはならない)。
西日本での政治的支配のプロセスを概観すると以下のようになる。第一の画期は紀元前二世紀から紀元後一世紀にかけて出現する(300年ほどあるので画期と言うイメージには長すぎるかも)。この時代は北部九州勢力と近畿勢力が政治支配プロセスに入っていた。前者は、弥生中期ごろには幾つかの首長が存在し、連合体として大陸との関係を強く持ち(「漢委奴国王」印、前・後漢鏡、青銅器)、列島内においては中国・四国を背景に持っていた。一方近畿勢力も同時期には、墓や住居の遺跡から、階級社会への胎動は始まっていたと推定されるが、大陸との関係はなく、先進性では北部九州より後進的では或るものの、それが首長層の成長という点で後進的なのかどうか不明である。第二の画期は三世紀に入ってから出現するが、その歴史的評価はまだ定まってなく進行中である。それは、古墳形態と墳墓埋葬物(とくに三角縁神獣鏡など)の遺跡から推定される。四世紀には同一形式の古墳(前方後円墳)が宮城県の古川や仙台から佐賀県に至るまでの全国に及んでいる(100年ほどで全国に及んだのでかなり急速)。これは、統一された宗教的観念に基づく政治的支配が全国に及んだと推定する根拠となりうる。この三世紀に発生した画期が、魏志倭人伝の伝える邪馬台国や卑弥呼や壹与の活躍した時代である。
2、倭人の世界
二世紀から三世紀前半の日本列島に関する記述が「魏志倭人伝」にあり、以下その内容から記述する。当時は卑弥呼と壹与が、外交権威とシャーマン的な呪術で、未熟ながらも階級社会を統治していた。威信と呪術には、輸入される青銅器が具体的役目を果たしていた。
朝鮮半島との交流は、自然発生的な物資の交易と政治的契機がある。前者は長年にわたる金属器の流入などをもたらし、後者は各時代の政治状況で変化した。一、二世紀における政治的契機は漢の対外政策に規定され、三世紀においては魏と遼東の公孫氏や高句麗との関係に規定された。倭の統治は、外交権威と呪術に加え、交易権の掌握もその要素になっていた。
倭国以外に奴国や伊都国や投馬国などがあり、それらには「官」という支配者がいたようだが、中央の長官なの独立なのかどうか不明である。
四、倭王権の展開
1、四世紀の倭
この時代の文字資料は、石上神社の七支刀と高句麗の広開土王碑以外には殆ど皆無である。この二つの金石文と考古学的資料からだけでも、当時の委王権の様子が以下のように察しられる。
倭王権は、百済と密接な外交関係を媒介として朝鮮半島に軍事介入をするほど強力になっていた。だが、そもそも何故軍事介入という外交手段を用いたかといえば、その理由は国内権威の維持に大陸の文物が必要であったからである。外交が平和的なものから軍事的なものへ変化していったのは、交易が国家により規制されたことにある。必要な資源を自足できないために軍事力を行使するという、古代帝国主義へと進んだのである。
2、五世紀の東アジアと倭
五世紀の外交関係は朝鮮半島に限らず中国大陸にまで及んだ。それは、当時の彼我の事情と状況によるものである。即ち中国には北魏と南宗が二つの勢力として安定した時期であり、周辺諸国は中国の外交網に組み込まれるとともに、朝鮮半島の覇権争い、倭国内の統治上の都合などが交錯していた。しかし、倭の統治構造は未熟で外交権威と金属器の獲得に頼るところは同じであり、身分秩序は南宗の制度を受容したものであった。倭の五王の時代。
五、前方後円墳の時代とその生活
1、前方後円墳の展開
前方後円墳という形式の墳墓が営まれたのは四世紀初頭から七世紀初頭にかけての約300年間であった。それは、近畿地方に始まり東北南部以西の本州・四国・九州までの全国に普及した。その意味には色々な内容が含まれるという推定がなされているが、ともかく近畿王権を中心とする政治的連合・統合が成立していたと判断される根拠となる。しかし、前方後円墳の出現状況は、地域により断続的であるので、この間に安定した統治が継続したわけではないだろう。
2、古墳時代の生活様式
一般生活様式における弥生時代との相違は、鉄器の農具への適用と竪穴住居内へのカマドの設置であるが、何れも朝鮮半島との政治・軍事的関係や交通が盛んであった結果である。首長の居館が集落内から分離することも弥生時代との相違である。
3、初源的都市の成立
3-4世紀の近畿地方には、他の農村地帯とは異なる全国的な拠点としての都市的集落があった(マキムク遺跡)。しかし、これは社会的分業を基に成立したのではなく政治的な拠点であることを基にしたものである。4-5世紀の近畿地方には、前記と類似だが異なった意味もありそうな都市的集落があった(フル遺跡)。ここは石上神宮があるところで、宗教的意味合いがあったようだ。
六、倭から大和朝廷へ
1、ワカタケル大王の世界
稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に記されているワカタケル大王は所謂五世紀の倭の五王の一人で、雄略天皇らしい(ワカタケルは四世紀後半で、雄略は五世紀後半だから辻褄が合わない)。五世紀末の朝鮮半島は高句麗の南下により百済・新羅が圧迫され、倭もその脅威にさらされていた。倭は、国内外の戦乱で五王最後の雄略以後は活動を縮小したようだ。
2、倭王権の矛盾
倭の五王の動員力は、倉庫群遺跡などで伺えるが、倭王権は地方首長との人的隷属関係であって、直接民衆との関係ではなく、また、制度や官僚組織などの裏打ちもされていない未熟なものであった。
3、転換期としての六世紀
朝鮮半島では倭と繋がる政治勢力地域である伽耶・任那が新羅に併呑され、高句麗・新羅・百済による三つ巴の抗争の中で、高句麗の南下およびそれ以上に新羅の台頭が大和の倭王権の状況を悪化させた。
一方前記の国際関係の変化に関連して527年に北九州で磐井の内乱が発生した。継体王朝はこれに二年を費やした。国内的にも支配体制の再構築・中央権力の集中に迫られ、軍事拡大主義は取れなくなり、倭王朝事態の変質が起こった。五世紀の仁徳から武烈にいたるに至る王統は、少なくとも男系としては一旦断絶する。
継体欽明朝以後の大和朝廷は、磐井の乱を克服する事により関東以西の日本列島の支配権を再編強化した。欽明朝には大王を補佐する大臣のもとに複数の大夫僧が参加する権力体制が見られ、政務の実行機関としてトモートモベが設置された。屯倉制は土地と生産物の収奪支配体制だが、屯倉は交通の要点におかれ、地方支配の政治機能を持つようになった。それらは、直接的民衆支配を志向していたことを示す。
このように、六世紀は五世紀の倭王権とは異質のものを含み、支配体制の転換期に当たると考えられる。
4、日本における文明成立の前提
六世紀における大和朝廷の支配体制は、屯倉制や部民制のように、後の律令体制の前提になる様な制度が拡充された。また、朝鮮半島での政治・軍事的活動が縮小されることにより、かえって中国南朝との冊封関係が断ち切られて、大王は自立的な統治者へと転換した。更に、538年と伝えられる百済からの仏教の伝来は、(儒教的)礼の秩序に基づく冊封関係とは異なる価値観をもたらした。これらが相俟って後の天皇制へのイデオロギー的準備をもたらした。
大王の独立性の強化は、その系譜についての固有の歴史的観念を作り出した。それが六世紀に成立したとされる帝記と旧辞であり、その姿は「古事記」にとどめられている。旧辞の原型は、原始社会の末期に生まれる英雄伝承の形式をとった日本で最初の文芸とも呼べるもので、仏教の伝来による価値観とともに、五世紀から六世紀にかけての王権の転換期を時代背景として生じたものであり、日本文明の成立の前提を形成した。
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